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黒板係は、江口桜次郎の名前を書く ――閉ざされた同窓会で、処女作どおりに人が死ぬ――  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第七章 相沢の指摘

 食堂に戻された同窓生たちは、誰も席に座ろうとしなかった。

 立ったまま、互いの顔を見ている。何かを言いかけ、やめる。誰かがスマートフォンを掲げる。電波の表示を確認する。圏外。あるいは一本だけ立って、すぐ消える。食堂の照明は明るかったが、その明るさはかえって不自然だった。数分前まで笑い声とグラスの音に満ちていた場所が、いまは同じ人間たちを収容する避難所のようになっている。

 料理の皿はそのまま残っていた。

 切り分けられたローストビーフ。手つかずのサンドイッチ。半分ほど減ったフルーツ。氷の浮いた水差し。誰かが置き忘れたワイングラス。赤い液体が、照明を受けて黒く見える。

 江口桜次郎は、そのグラスから目を逸らした。

 黒い水面を見ると、床に広がったコーヒーを思い出す。

 内田春斗。

 白いチョークの文字。

 自分の頭は、どこまで信用できるのか。

 旧職員室で見た黒板の文字は、現実だった。少なくとも、江口だけが見たものではない。扉の隙間から見えた「一時間目、出席を取ります」という文字は、二階堂も確認している。中原修一の名が丸で囲まれていたことも、複数の人間が見た。

 だが、そのあと江口には、別の名前が見えた。

 中原修一の名が、内田春斗へ変わった。

 それは幻覚だ。

 そう判断するしかない。

 けれど、幻覚の中に現実が混ざっている。現実の中に幻覚が紛れ込んでいる。境界が溶けかけている。

 二階堂壮也は、食堂の入口近くで園田美月と話していた。園田は青ざめた顔で進行表を握りしめている。幹事としての責任感が、恐怖より先に体を動かしているようだった。だが、指先が震えていた。

 朝倉航平は壁際に立ち、何度もスマートフォンを確認している。圏外の表示を見ては舌打ちをし、食堂内を歩き回る。弁護士という肩書を持つ男が、法や手続きに接続できない場所に置かれると、こんなにも苛立つのかと江口は思った。

 水嶋沙耶は窓際にいた。両腕を抱え、外の雨を見ている。さっき食堂のスピーカーから流れた声のせいだろう。彼女の顔には、事件への恐怖とは別の怯えがあった。放送室。声。マイク。古い設備。水嶋にとって、それらは他の参加者より近いものだった。

 青山怜司は、少し離れた場所で鷺沼館長代理と話している。

 落ち着いていた。

 落ち着きすぎている、とも言えた。

 だが青山は普段からそういう男だった。学校でも、職員会議でも、生徒指導でも、声を荒げる姿を見たことがない。誰かが慌てている時ほど、青山は穏やかに言葉を選ぶ。その落ち着きに助けられた人間も多い。

「座れ」

 二階堂が戻ってきて言った。

「誰に言ってる」

「お前にだよ」

「立ってるだけだ」

「立ってるだけで倒れそうな顔をしてる」

「また顔色か」

「今回は全身だ」

 二階堂は空いている椅子を引いた。

 江口は抵抗する気力もなく座った。椅子の背に体を預けると、思ったより疲れていることに気づいた。足元が少し遠い。指先が冷たい。

 二階堂は江口の前に水の入ったコップを置いた。

「飲め」

「毒見は?」

「した」

「いつ」

「今」

 二階堂は自分のコップを軽く掲げた。

「同じ水差しから入れた」

「警察広報って、そんなこともするのか」

「友人だからしてる」

 江口は水を飲んだ。

 普通の味だった。

 そのことに安堵する自分が嫌だった。

「状況は」

 江口が聞くと、二階堂は声を落とした。

「館内の固定電話は不通。管理人室の緊急用回線もつながらない。携帯はほぼ圏外。雨のせいか、近くで土砂崩れの警報が出てるらしい。館の外に車を出せるか確認中だが、道が危ない」

「完全に閉じ込められたわけじゃないんだな」

「今すぐ警察や救急が来られる状態じゃない。それだけだ」

「十分だな」

「十分すぎる」

 二階堂は食堂の入口を見た。

「鷺沼さんとスタッフが非常用の通信機を探してる。園田さんには参加者を班ごとに確認してもらってる。誰がどこにいたか、最低限押さえる」

「お前が仕切るのか」

「仕切るつもりはない。でも、誰もやらないと現場が壊れる」

 その言葉は淡々としていた。

 二階堂は警察官だが、広報の人間だ。殺人事件の現場捜査をする立場ではない。だが、一般の参加者の中では、最も警察の手続きに近い場所にいる人間だった。だから動く。動かざるを得ない。

「中原さんは?」

 江口が聞くと、二階堂の目が少しだけ細くなった。

「脈は確認できなかった。触りたくなかったが、スタッフが確認した。呼吸もない。医者はいない。鴻上先生が来ていれば別だが、まだ到着していないらしい」

「鴻上先生も来る予定なのか」

「園田さんの名簿には名前があった。六十五回生。青山先生と同じ」

 青山と同じ六十五回生。

 鴻上誠一。

 昨日、江口に薬を出した医師。

 江口の内ポケットに入っている頓服のケースが、急に重くなった。

 その時、少し離れた場所で朝倉航平が言った。

「ひとつ確認していいか」

 声は大きくなかった。だが、食堂のざわめきの中で、妙にはっきり聞こえた。

 二階堂が朝倉を見る。

「何を」

「中原さんの現場のことだ。黒板に名前が書かれていたんだろう」

 何人かが息を呑んだ。

 中原修一の遺体は、旧職員室の前で発見された。扉の隙間から見えた黒板には、「一時間目、出席を取ります」と書かれ、中原の名が丸で囲まれていた。

 その情報は、現場を見た数人からすでに広がり始めていた。

 二階堂は顔をしかめた。

「誰から聞いた」

「誰からでも同じだ。問題はそこじゃない」

 朝倉は江口を見た。

「江口。さっき、お前、自分の小説と同じだと言ったな」

 食堂の空気が変わった。

 江口は返事をしなかった。

 沈黙は、時に肯定よりも悪い。

 水嶋沙耶が不安そうに江口を見る。園田美月は名簿を持ったまま固まっていた。黒須はカメラを胸元に下げ、視線だけを江口へ向けている。牧瀬は口を半開きにしていた。

 青山怜司は、少し離れた場所で静かに立っていた。

 責めるでもなく、庇うでもない。いつもの落ち着いた顔だった。

「朝倉」

 二階堂が低く言った。

「今は憶測で人を追い詰める場面じゃない」

「憶測じゃない。事実確認だ」

 朝倉は弁護士らしい抑えた声で言った。

「江口の小説に似た殺人が起きた。本人がそう言った。なら、江口がどこにいたのか確認する必要がある」

「それは後でやる」

「後で? 警察が来られない状況で、現場も保存しなければならない。参加者の安全も守らなければならない。なら、少なくとも現時点で疑わしい人物の動きは確認しておくべきだろう」

 言葉は正しい。

 正しい言葉は、時に刃物より扱いが悪い。

 江口はそう思った。

 誰かが小さく言った。

「江口くんの小説と同じって、どういうこと?」

 別の誰かが答える。

「昔、書いてたんだって。黒板に名前を書く話」

「殺人の話?」

「ミステリじゃないの?」

「じゃあ、犯人はそれを知ってたってこと?」

「本人が一番詳しいんじゃないの」

 声は小さかった。

 だが、小さいからこそ、逃げ場なく耳に入る。

 江口はテーブルの端を見つめた。

 食堂の照明が、白い皿に反射している。その光の端が、さっきから少し揺れて見える。水面ではない。黒板でもない。ただの皿だ。

 それでも、白いチョークの粉を思い出した。

「江口」

 朝倉が言った。

「中原さんが発見される前、お前はどこにいた?」

 江口は顔を上げた。

 答えようとした。

 食堂。

 そう言えばいい。

 だが、本当にそうだったか。

 懇親会。旧校舎見学。食堂に戻る。水を飲んだ。朝倉と話した。水嶋とも話した。相沢と、少し話した。二階堂といた。

 その間に、空白はなかったか。

 胸の奥が冷えた。

「二階堂と一緒にいた」

 江口は言った。

 二階堂がすぐには頷かなかった。

 その沈黙だけで、食堂の空気がさらに固くなる。

「二階堂?」

 朝倉が促す。

 二階堂は江口を見た。

 ためらいがあった。

「半分くらいはな」

 江口は二階堂を見返した。

「半分?」

「お前、相沢のところに行ったり、トイレに行ったりしてただろ」

「え……そうなのか」

 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。

 二階堂の顔がわずかに険しくなる。

「覚えてないのか」

「相沢と話したのは覚えてる。トイレは……」

 江口は記憶を探った。

 行った気もする。行っていない気もする。

 食堂を出たのか。廊下を歩いたのか。ロビーのガラス扉の前に立ったのか。旧校舎側を見たのか。手を洗ったのか。

 分からない。

 記憶が、ところどころ濡れた紙のように破れている。

「ほかには?」

 江口は二階堂に聞いた。

 二階堂は苦い顔をした。

「知らねぇよ。お前のことそこまでストーキングしてないから」

「二階堂」

「事実だ。俺はお前とずっと一緒にいたわけじゃない」

 その言葉は、江口を庇うものではなかった。

 だからこそ信頼できた。

 だが、いまこの場では致命的だった。

 朝倉が静かに言った。

「つまり、江口には中原さんの死亡推定時刻前後の完全なアリバイはない、と」

「朝倉」

 二階堂の声が低くなる。

「完全な、という意味ではそうだろう。江口自身も覚えていない。二階堂もずっと一緒ではない。しかも事件は江口の小説に酷似している」

 朝倉は江口から視線を外さなかった。

「確認だ。江口、旧職員室には行ってないんだな」

「行ってない」

「本当に?」

「行ってない」

「でも、自分がトイレに行ったかどうかも覚えていない」

 江口は言葉を失った。

 水嶋が小さく言った。

「やめなよ、朝倉」

「やめるわけにはいかない。人が死んでる」

「だからって、江口くんを犯人扱いするの?」

「犯人扱いじゃない。アリバイ確認だ」

「同じに聞こえる」

 園田が震える声で言った。

「江口くん、本当に……?」

 言葉は最後まで続かなかった。

 疑っている。

 疑いたくない。

 その両方が顔に出ていた。

 黒須は何も言わなかった。だが、カメラを持つ手に力が入っている。牧瀬は視線を泳がせ、青山は静かに全員を見ていた。

 青山が口を開いた。

「江口先生がそんなことをするとは思えません」

 穏やかな声だった。

 その声が、かえって江口の胸に重く落ちた。

「ただ、朝倉さんの言う通り、今は全員の行動を確認する必要があります。江口先生だけではありません。私も、皆さんもです」

 青山の言葉で、場の緊張が少しだけ薄まる。

 だが、疑いは消えなかった。

 むしろ、形を整えただけだった。

「江口先生」

 青山は江口を見る。

「旧職員室には行っていない。それで間違いありませんね」

「……はい」

「途中で体調が悪くなって、どこかで休んだりは」

「分かりません」

 江口は、そう答えるしかなかった。

 青山の目がわずかに揺れた。

「分からない?」

「覚えていない時間があります」

 ざわめきが起きた。

 二階堂が短く言った。

「桜次郎」

「隠しても仕方ない」

 江口は椅子の背に手を置いた。

 立っているだけで足元が少し揺れている。

「昨日から、記憶が飛ぶことがある。今日も、全部は自信がない」

「なぜそんな状態で来たんだ」

 朝倉が言った。

 責める調子だった。

 江口は笑おうとした。

 失敗した。

「わからない……」

「冗談で済む話じゃない」

「冗談じゃない」

「わからないのになんでここにいるんだよ」

 二階堂が朝倉の前に出た。

「そこまでだ」

「庇うのか」

「違う。これ以上やると、必要な確認じゃなくて吊し上げになる」

「だが、江口は危険だ」

「危険かどうかは、今ここでお前が決めることじゃない」

「警察職員として言ってるのか」

「友人としても、警察職員としてもだ」

 二階堂の声は低く、硬かった。

「江口にアリバイの穴がある。それは確認した。小説との類似もある。なら記録すればいい。だが、ここで犯人扱いして騒ぎを大きくすれば、本当の犯人が得をする」

 本当の犯人。

 その言葉に、数人が黙った。

 朝倉も口を閉じる。

 江口は二階堂の横顔を見た。

 二階堂は庇っていない。

 少なくとも、盲目的には。

 それがかえって、江口を支えた。

「江口くん」

 相沢真帆が近づいてきた。

 それまで黙っていた彼女の声は、よく通った。

「私は、江口くんが犯人だとは思わない」

「根拠は」

 朝倉が聞く。

 相沢は朝倉を見た。

「この事件は、江口くんに罪を着せるには出来すぎている。小説と同じだと本人に言わせて、その直後にアリバイの穴を確認させる。まるで、疑ってくださいと言っているみたい」

「逆に、本人がそう見せている可能性もある」

「ある。でも私は違うと思う」

「感情論だな」

「ええ。感情も含めて人間を見るのが、取材の仕事だから」

 相沢はそう言い切った。

 朝倉は何か言いたげだったが、言わなかった。

 二階堂が江口に低く言う。

「今から、お前は一人で動くな」

「拘束か」

「保護だ」

「言い方を整えたな」

「うるさい。実際、俺の視界にいろ」

「それ、ストーキングじゃないのか」

「今からはする」

 その返しに、江口は少しだけ笑った。

 笑える状況ではない。

 それでも、二階堂がそう言うなら、まだ自分は完全には向こう側へ落ちていないのだと思えた。

 だが、周囲の視線は変わっていた。

 江口桜次郎。

 自分の小説に似た殺人事件の場にいる男。

 現場発見前後の行動を説明できない男。

 記憶が欠けている男。

 倒れ、幻覚を見て、知らない名前を口にした男。

 その名札が、胸元で白く光っている。

 江口はそれを見下ろした。

 まだ丸はついていない。

 そう思ってしまった自分に、今度こそ吐き気が込み上げた。

「友人だから言ってる」

 低い声だった。

「お前が犯人なら、俺は庇わない」

 江口は動きを止めた。

 二階堂は続けた。

「でも犯人じゃないなら、犯人にはさせない。そのためには、お前が隠してることを知らないと困る」

 食堂のざわめきが、急に遠くなった。

 江口は二階堂の顔を見た。

 高校時代、都大会の準々決勝で負けたあと、二階堂は何も言わなかった。ただコンビニでアイスを二本買い、一本を投げて寄越した。「負けた時くらい甘いもの食えよ」と言った。それは慰めではなかった。責めてもいなかった。ただ、隣にいた。

 いまも同じだった。

 責めている。怒っている。だが、離れようとはしていない。

 江口は口を開きかけた。

 その時、相沢真帆が近づいてきた。

「二人とも」

 声は低かった。

 江口と二階堂は同時に相沢を見た。

 相沢は、食堂の中央ではなく、壁際の人目につきにくい位置を顎で示した。

「少し話せる?」

 二階堂が周囲を確認した。

「今か」

「今じゃないと、言えなくなる気がする」

 相沢の顔は白い。

 恐怖だけではない。

 決意の白さだった。

 二階堂は頷いた。

「ここで」

 三人は食堂の壁際、旧校舎写真が飾られた額の下へ移動した。そこなら食堂全体は見渡せるが、声を落とせば周囲には聞こえにくい。

 写真の中では、昔の慶早大付属の生徒たちが笑っていた。雨のグラウンドで泥だらけになっている者。体育館で旗を掲げる者。校舎の窓から身を乗り出す者。

 生きている人間の写真は、時に死体よりも不気味だ。

 そこに映った彼らは、このあと自分たちが何者になるのか知らない。弁護士になる者。教師になる者。声を仕事にする者。誰かを忘れる者。誰かに忘れられる者。

 相沢はワイングラスを持っていなかった。両手を軽く握っている。

「さっき言ったことの続き」

「ごめん、よく覚えていない。俺と何を話した?」

「小説の話」

「ああ……俺の小説と、十四年前の事件が似ているって話か」

 江口が言うと、相沢は頷いた。

 二階堂は黙っている。

「さっきも言ったかもしれないけど、江口くんが知っていて書いたとは思ってない」

「なぜそう言える」

「あなたは当時、慶早にいなかったから」

 相沢ははっきり言った。

「高一の時は東北にいた。慶早に転入してきたのは高二の四月。そうだよね」

「ああ」

「十四年前、慶早大付属で男子生徒が死んだ。けれど報道は匿名だった。学校名も、生徒名も出ていない。『関東地方の私立高校』としか報じられなかった。だから、あなたが慶早の事件として知ることはできなかったはず」

 江口は息を止めた。

 十四年前。

 匿名報道。

 関東地方の私立高校で男子生徒死亡。

 自分の中に残っていた曖昧な記憶と一致する。

「でも、ニュースは見たかもしれない」

 江口は言った。

「家のテレビで。ネットで。東北の高校だった。関東の私立高校で男子生徒が死んだってニュースを見た気がする。学校名も名前も出なかった。旧校舎みたいな建物と、誰も座っていない机が映っていた」

 言いながら、自分でも曖昧だと思った。

 それは本当に記憶なのか。

 それとも、ここ数日の幻覚が作った偽物なのか。

 相沢は江口を見た。

「その程度なら、あり得ると思う。あの事件は短く報道された。匿名で、ぼかされた形で」

 二階堂が口を開いた。

「俺は慶早の高一だった。噂は覚えてる。でも、名前は覚えてない。上級生が旧校舎で倒れたか、怪我したか、死んだか。いじめがあったらしい、学校が隠してるらしい。そのくらいだ」

「そう」

 相沢は頷いた。

「当時、私たち一年生にはほとんど説明がなかった。先生たちは『根拠のない噂を広げないように』としか言わなかった。校内放送でも、余計な話をしないようにって注意があった」

「水嶋が言ってたな。噂を流すなと先生に言われたって」

 二階堂が言うと、相沢は一瞬だけ水嶋の方を見た。

「沙耶は放送委員だったから、余計に注意されてたと思う」

「死んだ生徒の名前は」

 江口は聞いた。

 相沢は、わずかに躊躇した。

「内田春斗」

 声は小さかった。

 だが、江口にははっきり聞こえた。

 胸の奥に、白いチョークが突き刺さったようだった。

「その名前を、どこで」

 二階堂が江口を見た。

 江口は答えられなかった。

 答えなくても、二階堂には分かったのだろう。

「お前がさっき言った名前だな」

 江口は頷いた。

 相沢が息を呑んだ。

「江口くん、春斗くんの名前を知ってたの?」

「知らない。少なくとも、覚えてはいない」

「でも言った」

「見たんだ」

 言ってしまった。

 二階堂の目がわずかに動く。

 相沢は身じろぎもしない。

「どこで」

 相沢が聞いた。

「木曜日、職員室で倒れた時。床にコーヒーがこぼれて、その黒い水面に、白いチョークの文字みたいに名前が浮かんで見えた」

 江口は唇を湿らせた。

「内田春斗と」

 相沢の顔から、血の気が引いた。

 二階堂は江口から視線を外さなかった。

「他には」

「夢で見た。旧職員室の黒板でも見えた。さっきの中原さんの名前も、一瞬その名前に変わって見えた」

 二階堂は相沢に向き直る。

「続けて。江口の小説と十四年前の事件が似ているというのは、具体的に何が」

 相沢はまだ江口を見ていた。

 やがて、意識を戻すように瞬きをした。

「黒板」

 相沢は言った。

「名前を書くこと。出席を取ること。旧職員室。放送室。図書準備室。体育館。江口くんの処女作に出てきた要素が、十四年前の事件周辺にいくつも重なっている」

「処女作を読んだのか」

 二階堂が聞く。

「大学時代に。投稿サイトに上がっていた頃。タイトルは『黒板係は、四度名前を書く』。古い校舎で、黒板に名前を書かれた者が順番に死んでいく話だった」

 江口は目を閉じた。

 昔の自分が書いた話。

 粗い。青い。だが、熱だけはあった。学校という場所への嫌悪と執着。名前を書かれることへの恐怖。出席を取られることへの違和感。誰かに存在を管理される感覚。

 それを、若い江口はミステリにした。

 自分では架空の学校を書いたつもりだった。

「ただ、誤解しないで」

 相沢は言った。

「あの小説が、事件を元にしているとは思っていない。江口くんは知らなかったはずだから。たぶん、匿名報道で見た断片とか、学校そのものへの違和感とか、そういうものが偶然似た形になったんだと思う」

「じゃあ、なぜ今それを」

 二階堂が聞く。

「誰かは、そう思わなかったかもしれないから」

 相沢の声が震えた。

「あるいは、知っていて利用したのかもしれない」

「誰かが、江口の小説を利用している?」

「そう。十四年前の事件と江口くんの小説を重ねて、今回の事件を作っている」

 江口は食堂の入口を見た。

 その先にロビーがあり、さらに奥にB棟へ続くガラス扉がある。

 旧職員室。

 黒板。

 一時間目、出席を取ります。

 中原修一。

 丸で囲まれた名前。

 相沢の言葉は、江口が心のどこかで考えないようにしていたことを、はっきり形にした。

 自分の小説が、現実の殺人に使われている。

 口の中が乾いた。

「中原さんは、十四年前の事件と関係があるのか」

 二階堂が聞いた。

 相沢は頷いた。

「たぶん。中原修一は六十七回生。春斗くんと近い学年。今は学校法人の事務局に関わっていた。記念館の開館にも関わっていたはず」

「たぶん、というのは」

「私が調べた限りでは、という意味。確実な証拠はまだない」

「なぜ調べていたんですか」

 二階堂の声は静かだった。

 相沢は一度、唇を結んだ。

「仕事で学校関係の記事を書いていた時、偶然あの事件に触れた。慶早の匿名死亡事件。だけど、資料が妙に少なかった。学校名がぼかされている。生徒名も出ない。後追い記事もほとんどない。なのに、当時の関係者の間では噂だけが残っている」

「それで調べた」

「最初は好奇心だった。でも調べるうちに、嫌な感じがした。消されているというより、消すことに慣れている感じがした」

 江口はその言葉に反応した。

 消すことに慣れている。

 学校という場所に、江口はその感覚を知っている。

 問題を無かったことにする。怪我を小さく扱う。いじめという言葉を使わず、トラブルと言い換える。生徒の叫びを、家庭の問題や本人の特性に移す。大人が集まって、丁寧な言葉で責任の輪郭をぼかしていく。

 消すことに慣れている。

 それは、学校の最も冷たい技術だった。

「春斗くんは、本当に自殺だったのか」

 二階堂が聞いた。

「分からない」

 相沢は答えた。

「表向きはそう処理された。でも、旧校舎で何かがあった。いじめがあったという証言もある。放送室で声を流されたとか、黒板に名前を書かれたとか、体育館に閉じ込められたとか。どれが事実で、どれが噂か分からない」

「出席簿は?」

 江口は聞いた。

 相沢が江口を見る。

「なぜそれを」

「自分の小説に出てくる」

「そう。出席簿から名前を消す嫌がらせがあったという話もある」

 江口は、胃の奥が縮むのを感じた。

 出席簿から名前を消す。

 自分の処女作にあった。

 存在しているのに、記録から消される。教室にいるのに、出席を取られない。誰かの名前が黒板に書かれ、次に消される。その恐怖を書いた。

 架空の恐怖のはずだった。

「江口くん」

 相沢が言った。

「あなたが悪いわけじゃない」

 江口は笑おうとした。

 うまくいかなかった。

「そう言われると、逆に悪いことをしたみたいだな」

「違う。そうじゃない」

「でも、誰かはそう思ったかもしれないんだろ」

 相沢は黙った。

「十四年前の事件を知らなかった男が、偶然それに似た小説を書いた。その小説を、誰かが読んだ。そして今、ここで殺人に使っている」

 言葉にすると、胸の奥が冷えた。

「悪趣味だな」

 二階堂が低く言った。

「犯人が、だ」

 江口は二階堂を見た。

 二階堂は江口ではなく、食堂の人々を見ていた。

「この中に、江口の小説を知っている人間がいる。十四年前の事件も知っている。中原さんがそれに関係していることも知っている。そして旧校舎の構造も、放送設備も使える」

「かなり絞れるんじゃないか」

 江口が言うと、二階堂は首を振った。

「逆だ。ここにいるのは六十五から七十回生。旧校舎を知っている人間が多すぎる。お前の小説だって、投稿サイトにあったなら誰でも読める。十四年前の事件を知っている人間も、噂を含めればかなりいる」

「つまり」

「まだ多すぎる」

 二階堂はそう言った。

「しかも、青山先生や鴻上先生のような六十五回生、春斗くんと近い六十六回生、春斗くんと同窓だった六十七回生、俺たち六十八回生、どの回生にも接点がある」

「相沢さん」

 二階堂が言った。

「調べた資料は、どこにある?」

「部屋に少し。あとはデータ」

「スマホは」

「圏外だけど、保存データは見られる」

「後で見せてくれないか」

「分かった」

 相沢は頷いた。

「ただし、全部は見せられない」

 二階堂の目が細くなる。

「なぜ」

「取材源を守る必要があるから」

「人が死んでる」

「分かってる」

 相沢の声が強くなった。

「でも、だからといって何でも差し出せばいいとは思わない。十四年前にも、誰かが守られるべきものを守らなかった。その結果、ひとり死んだ」

 その言葉に、二階堂はすぐには返さなかった。

 江口は相沢を見た。

 彼女は怖がっている。だが、それ以上に怒っている。

 十四年前の事件を調べたことは、単なる好奇心ではなかったのかもしれない。学校という場所で何かが消されることに、相沢自身も怒りを持っている。

 食堂の入口で、園田の声がした。

「皆さん、席に着いてください。全員の所在確認をします」

 園田は震えながらも、名簿を持っていた。水嶋が横で支えている。青山は鷺沼と一緒に戻ってきた。朝倉は電話を諦めたようにスマートフォンをポケットへ入れた。黒須はカメラを胸元に抱えている。牧瀬は旧体育館側の廊下を気にしていた。

 二階堂が低く言った。

「いったん戻る。相沢さん、後で資料を」

「分かった」

 相沢は頷いた。

 江口は立ち上がろうとして、視界が揺れた。

 二階堂が腕を掴む。

「おい」

「大丈夫」

「もうその言葉は禁止だ」

「じゃあ、立てる」

「それならいい」

 江口は苦笑した。

 食堂の席に着く。

 園田が名簿を読み上げ始めた。班ごとに名前を呼び、所在を確認する。返事をする者の声は、それぞれ違っていた。震える声。苛立つ声。わざと明るい声。小さすぎる声。

 出席を取っている。

 江口はそう思った。

 出席を取ります。

 さっき流れた声が、耳の奥で蘇る。

 一時間目。

 中原修一。

 丸で囲まれた名前。

 園田が名前を呼ぶたびに、江口の頭の中では黒板に白いチョークの線が増えていった。

「江口桜次郎さん」

 園田が呼んだ。

 江口は一拍遅れた。

 二階堂が肘で軽く突く。

「はい」

 江口は答えた。

 自分の声が、どこか遠かった。

「二階堂壮也さん」

「はい」

「青山怜司さん」

「はい」

 青山の声は落ち着いていた。

「相沢真帆さん」

「はい」

 相沢の声は硬かった。

 名前が呼ばれる。

 存在が確認される。

 その行為が、今夜だけはひどく不吉に感じられた。

 園田が中原修一の名前で止まった。

 誰も声を出さない。

 名簿の上に、沈黙が落ちる。

 園田は唇を噛み、次の名前へ進んだ。

 江口は胸元の名札を見下ろした。

 江口桜次郎。

 まだ丸はついていない。

 そんなことを考えた自分に、吐き気がした。

 所在確認が終わる頃、鷺沼が管理人室から戻ってきた。

「緊急回線も繋がりません。外の道路状況を確認したスタッフによると、下の県道に土砂が流れ込んでいる可能性があります。車を出すのは危険です」

 食堂がざわめく。

「じゃあ、朝までここにいろってことか」

 朝倉が言った。

「状況が改善するまで、外部からの救助を待つしかありません」

 鷺沼の声は固かった。

「館内には非常食と毛布があります。宿泊設備も整っています。皆さまには食堂か客室で待機していただきます」

「死体は」

 誰かが言った。

 その言葉に、食堂が静まる。

 二階堂が答えた。

「現場は封鎖します。旧職員室付近には誰も近づかないでください。警察が来るまで、できるだけそのままにします」

「あなた、警察の人なんですか」

 六十六回生の女性が聞いた。

「刑事です」

「刑事……」

「今は参加者の一人でもあります」

 二階堂ははっきり言った。

「だからこそ、全員で現場を守る必要があります」

 朝倉が腕を組んだ。

「それは正しい。だが、参加者の行動を制限するなら、根拠を明確にした方がいい」

「人が死んでいる」

 二階堂は朝倉を見た。

「十分な根拠だと思いますが」

 朝倉は口を閉じた。

 青山が静かに言った。

「今は二階堂さんに協力しましょう。混乱して動き回れば、それだけ危険が増えます」

 その声で、食堂の空気が少し落ち着いた。

 青山の言葉には、そういう力があった。

 江口はそれを見ていた。

 所在確認が終わり、参加者たちはそれぞれ固まって話し始めた。食堂から出ることは制限されたが、完全な監禁ではない。トイレへ行く際はスタッフか誰かと同行すること。旧校舎側へは立入禁止。客室へ戻る場合も二人以上で移動すること。

 園田は幹事として必死に説明した。

 誰も納得していなかった。

 だが、他に選択肢もなかった。

 江口は椅子に座ったまま、相沢を見た。

 彼女は食堂の隅で、自分のスマートフォンを操作している。保存データを確認しているのだろう。横に黒須が近づき、何か話しかけた。相沢は短く答え、すぐに画面へ視線を戻した。

 二階堂が江口の横に座った。

「なあ、桜次郎。これからは、見えたり聞こえたりしたことは全部言え。変だと思っても言え。俺が仕分ける」

「お前に仕分けられるのか」

「お前よりはましだ」

「否定できないのが悔しいな」

 二階堂は少しだけ笑った。

 その笑いで、江口はほんの少しだけ息ができた。

 だが、その安堵は長く続かなかった。

 食堂のスピーカーが、再び短く鳴った。

 ざ。

 全員が凍りつく。

 鷺沼が親機の方へ走る。

 水嶋が口元を押さえる。

 二階堂が立ち上がる。

 江口の耳の奥で、あの声がした。

 今度はスピーカーからではなかった。

 少なくとも、他の人間は反応していない。

 江口だけに聞こえる声。

「欠席者を確認します」

 江口はテーブルの端を掴んだ。

 二階堂がこちらを見る。

「聞こえたのか」

 江口は頷いた。

「何て」

「欠席者を確認します」

 二階堂の顔が険しくなる。

「他の人は反応してない」

「分かってる」

「でも言ったな」

「言えって言っただろ」

「ああ」

 二階堂は短く頷いた。

「覚えておく」

 その時、相沢がこちらへ歩いてきた。

 スマートフォンを握りしめている。

「江口くん。二階堂くん」

 声が震えていた。

「資料、見つけた。十四年前の記事の保存画像」

 二階堂が受け取ろうとした瞬間、食堂の照明がまた揺れた。

 ふっと明かりが落ちる。

 一秒。

 二秒。

 すぐ戻る。

 明るくなった時、相沢はまだそこにいた。

 だが彼女の視線は、食堂の入口の向こうを向いていた。

 ロビー奥。

 旧校舎へ続くガラス扉。

 相沢の顔から血の気が引いていく。

「どうした」

 二階堂が聞く。

 相沢は小さく言った。

「今、誰かがこっちを見てた」

「どこで」

「B棟の廊下」

 江口は振り返った。

 ロビーの向こう、ガラス扉の先には、旧校舎の暗い廊下が見えた。

 誰もいない。

 黄色い照明が、古い床板を細く照らしているだけだった。

 相沢は震える声で言った。

「白いシャツの男の子」

 江口の心臓が、一拍だけ止まったように感じた。

 白いシャツの少年。

 記念廊下で見た幻。

 ロビーのガラスに映った影。

 旧校舎の奥に立っていた顔のない少年。

 江口は、ゆっくりと相沢を見た。

「見えたのか」

 相沢は答えなかった。

 ただ、手にしたスマートフォンを強く握りしめていた。

 画面には、十四年前の記事の見出しが表示されている。

 関東地方の私立高校で男子生徒死亡。

 その下に、保存されたメモがあった。

 内田春斗。十六歳。慶早大付属高二年。旧校舎にて死亡。

 江口はその文字を見た。

 また、黒板にチョークが走る音がした。

 今度は、耳の奥ではなかった。

 食堂の外、旧校舎の方から聞こえた。

 きい。

 何かを書く音。

 誰かが、黒板に名前を書いている。

 そう思った。


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