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黒板係は、江口桜次郎の名前を書く ――閉ざされた同窓会で、処女作どおりに人が死ぬ――  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第二章 鴻上クリニック

 江口が意識を取り戻す少し前、五十嵐理人は職員室に戻っていた。

 机の周りは、さっきの騒ぎのまま乱れている。答案用紙が床に散り、赤ペンのキャップが机の脚のそばに転がっていた。黒いコーヒーの跡は、すでに古賀が雑巾で押さえていた。

「こっちは片づけておきます」

 五十嵐が言うと、古賀は少しほっとした顔をした。

「お願いします。私、江口先生の代わりに二年三組の朝のホームルームに行きますね」

「はい」

 五十嵐は答案を拾い、赤ペンを戻し、机の端に倒れていた紙コップを見た。

 中身はほとんど床にこぼれていた。底に少しだけ黒い液体が残っている。特別な匂いはしない。ただの冷めたコーヒーにしか見えなかった。

 それでも、五十嵐は一瞬だけ手を止めた。

 江口の顔色。

 震えていた手。

 飲んだあと、舌の奥を気にするような仕草。

 全部、過労で説明できる。

 寝不足でも説明できる。

 教師という仕事なら、説明できてしまうことばかりだった。

「……一応」

 五十嵐は小さく呟いた。

 理科準備室から持ってきたチャック付きの袋を開き、紙コップをそっと入れた。誰かに見せるためではない。警察を呼ぶほどの確信もない。救急車を呼べと言い張れるほどの根拠もない。

 ただ、捨てるには少しだけ嫌だった。

 それだけだった。

 袋を鞄の奥に入れ、五十嵐は江口の机を元に戻した。

 職員室では、もう朝の打ち合わせの準備が始まっていた。誰かが「生徒に見られなくてよかった」と言った。

 五十嵐はその言葉に、返事をしなかった。

 意識が戻った時、江口桜次郎は白い天井を見ていた。

 最初に思ったのは、ここは教室ではない、ということだった。

 蛍光灯の形が違う。教室の蛍光灯はもっと長く、古く、埃の輪郭まで見える。ここにあるのは小さな埋め込み式の照明で、光がやけに均一だった。目に痛いほどではない。だが、優しすぎる光は、それはそれで信用ならない。

 次に、消毒液の匂いがした。

 保健室だ。

 そう理解するまでに数秒かかった。

 江口は瞬きをした。視界の端に、白いカーテンがある。薄い布が空調の風でわずかに揺れていた。ベッドの脇には小さな丸椅子。そこに五十嵐理人が座っている。

 五十嵐はスマートフォンを手にしていたが、画面は見ていなかった。江口の顔を見ていた。

「起きました?」

「……死後の世界にしては、だいぶ学校っぽいですね」

「保健室です」

「最悪だな。死んでも出勤してる」

 声を出すと、喉が痛んだ。砂を飲んだあとのようにざらついている。

 五十嵐は少しだけ安堵したように息を吐いた。

「冗談が出るなら、意識は大丈夫そうですね」

「冗談で生命活動を判断しないでください」

「名前、言えますか」

「江口桜次郎」

「今日の曜日は」

「木曜日」

「場所は」

「職場の保健室。できれば知らない土地の温泉宿であってほしかった」

「だいたい合ってます」

「だいたい?」

「温泉宿ではありません」

 五十嵐は立ち上がり、保健室の机に置いていたペットボトルを取った。

「飲めますか」

「毒じゃないなら」

 言ってから、江口は自分でも少し妙な冗談だと思った。

 五十嵐の手が止まった。

 だが、すぐにキャップを開け、ペットボトルを差し出した。

「ただの水です。未開封」

「そこまで言われると逆に怖い」

「今の江口先生は、冗談でもそういうことを言う状態なので」

「状態で分類しないでください」

「倒れたのは事実です」

 江口は起き上がろうとした。腹筋に力を入れた瞬間、頭の奥が鈍く揺れた。視界がコンマ数秒遅れてついてくる。反射的にベッドの縁を掴んだ。

「ゆっくり」

 五十嵐が背中に手を添えた。

 江口は少し顔をしかめた。

「介護されてる気分です」

「今の状態なら、されてください」

「年下に正論を言われると、心の老化が進む」

「進んでもいいので水を飲んでください」

 江口はペットボトルに口をつけた。

 水は普通の味だった。

 そのことに少し安心した自分がいた。普通の水を飲んで安心する程度には、さっきのコーヒーの味が体に残っている。

 黒い水面。

 白い文字。

 内田春斗。

 江口はペットボトルを下ろした。

 名前が、まだ頭の奥に残っていた。聞いたことのない名前。見たことのない字面。なのに、妙に生々しかった。コーヒーの黒い水たまりの中に浮かんでいた白い文字を思い出すと、喉の奥が冷える。

「先生」

 五十嵐が言った。

「倒れる直前、何か見てました?」

 江口は返事をしなかった。

「ホワイトボードを見てから、急に立ち上がろうとして、そのまま崩れました」

「見てません」

 口にしてから、嘘だと思った。

 見ていた。

 ホワイトボードの文字が虫のように蠢くところを。予定表が崩れ、黒い粒になって職員室を這い回るところを。床のコーヒーに白い文字が浮かぶところを。

 だが、それを言葉にした瞬間、自分が病気の側へ一歩進むような気がした。

 五十嵐は急かさなかった。

 若いのに、そういうところが厄介だった。人が黙っている隙間に、無理に言葉を差し込まない。沈黙を観察する。それができる人間は、何かしら怖い。

「覚えてない」

 江口は言った。

「本当に?」

「覚えていることと、口に出していいことは違う」

「その言い方だと、覚えてますね」

「理科教師って全員そういう尋問をするんですか」

「僕だけだと思います」

 カーテンの向こうで、保健室の扉が開く音がした。

 足音が近づいてくる。

「江口先生」

 青山怜司の声だった。

 カーテンが開く。青山は、先ほどと同じく整った姿で立っていた。職員室で倒れた人間の様子を見に来たにしては、乱れがない。いや、乱れがないからこそ青山なのだと江口は思った。

「気分はいかがですか」

「学校の保健室で寝ている教師としては、かなり低空飛行です」

「冗談が言えるなら安心しました」

「その診断、五十嵐先生にもされました。学校では冗談がバイタルサインなんですか」

「江口先生の場合は、ある程度」

 青山は穏やかに言った。

 保健室の白い光の中で見る青山は、職員室で見る時よりも輪郭がはっきりしていた。清潔なシャツ、正確なネクタイ、磨かれた革靴。床に広がったコーヒーを踏まなかった靴。

 江口はなぜかそのことを思い出した。

 青山はベッドの脇に立ち、五十嵐に視線を向けた。

「鴻上先生には連絡が取れました。午前のうちに診ていただけるそうです」

「早いですね」

 五十嵐が言った。

「学校医ですから。こういう時は頼れます」

「青山先生、鴻上先生とお知り合いなんですか」

 五十嵐の問いは何気ないものに聞こえた。

 青山は微笑んだ。

「ええ。父が少しお世話になったことがあります。それに、鴻上先生は慶早の同級生でもありますから」

「慶早?」

 江口は顔を上げた。

「慶早大学付属ですよ」

 青山が言った。

「鴻上先生も卒業生です。私もですが」

「青山先生も?」

「ええ。六十五回生です」

 江口は少し驚いた。

「初耳ですね」

「そうでしたか。あまり職場で母校の話はしませんから」

「僕も慶早です」

「存じています」

 青山はさらりと言った。

「教員名簿の経歴で見ました」

「ああ」

 江口は納得しかけ、なぜか少し引っかかった。

 経歴で見る。確かにあり得る。江口の履歴書には、高校名も大学名も書かれている。職場で知ろうと思えば知れる情報だ。何も不自然ではない。

 不自然ではないものほど、疲れた頭には引っかかる。

「江口先生は、六十八回生でしたね」

 青山は続けた。

「ただ、高校二年からの転入でしたか」

 五十嵐がわずかに青山を見た。

 江口も同じところで引っかかった。

「そこまで載ってましたっけ」

「以前、職員室でお話しされていたように記憶しています」

「僕が?」

「ええ。たしか、二階堂さんというご友人の話と一緒に。ソフトテニス部の」

 二階堂壮也。

 その名前を聞くと、江口の胸の奥に少しだけ現実の重みが戻った。

 高二、高三で同じクラスだった男。ソフトテニス部で前衛だった男。ネット際でやたら目立つくせに、肝心な時にはこちらの呼吸を読んでいる男。

 江口は後衛だった。

 拾って、つないで、相手が根負けするまで待つ。二階堂は前で動く。江口は後ろで耐える。都大会ベスト八。大した実績ではないと思っていたが、二階堂は時々その話を持ち出した。

 昔から、こちらが忘れたいことを妙な角度で覚えている男だった。

「話したかもしれませんね」

 江口は言った。

「今の記憶力で否定する自信がない」

「今日はなおさら無理をなさらないでください」

 青山は言った。

「鴻上先生のクリニックまでのタクシーを手配しました。私も途中まで付き添います」

「そこまでしなくて大丈夫です」

「倒れた直後の方を一人で行かせるわけにはいきません」

 正論だった。

 青山の言葉は、いつも正論だった。角がない。引っかかりがない。だから返しにくい。

 五十嵐が言った。

「僕が付き添います」

「五十嵐先生は二時間目から全詰まりでしょう」

「代わりを頼みます」

「授業変更はもう組みました。五十嵐先生まで抜けると、理科が回りません」

 青山の声は柔らかい。だが決定事項のような響きがあった。

 五十嵐は口を閉じた。

 江口はそのやり取りを見ていた。

 青山は、親切だった。間違いなく。手配も早い。気遣いもある。だが、流れの作り方がうまい。こちらが選んだようでいて、いつの間にか最も都合のよい方向へ道が整えられている。

 そう思った自分を、江口は内心で笑った。

 人の善意にまで疑いを持つのは、疲労が深刻な証拠だ。

「五十嵐先生」

 青山が言った。

「授業の方は大丈夫ですか」

「代わりを頼めば」

「二時間目から全詰まりです。理科室も使いますよね」

 五十嵐は口を閉じた。

 青山の声は柔らかい。だが、決定事項のような響きがあった。

「江口先生のことは、私が付き添います。学校医にも連絡済みです」

「……分かりました」

 五十嵐は言った。

 納得した声ではなかった。

 青山の視線が江口に戻る。

「行けそうですか」

「行けないと言ったら、ここに入院できます?」

「保健室は宿泊施設ではありません」

「学校はたまに宿泊施設より長くいますけどね」

「それは否定できません」

 江口はベッドから足を下ろした。

 床に靴が触れた瞬間、軽くめまいがした。目の奥が遅れて動く。体の中心線が、ほんの少しずれている。五十嵐がすぐに腕を支えた。

「無理しないでください」

「してない」

「それが無理してる人の返事です」

「教師は全員これです」

「その括り、やめた方がいいです」

 江口は苦笑しようとしたが、うまくいかなかった。

 鞄は青山が持っていた。いつの間にか保健室まで運ばれていたらしい。

 江口が受け取ろうとすると、青山は自然な動作で少し引いた。

「タクシーまでお持ちします」

「病人扱いされると、いよいよ病人になります」

「先ほど倒れた時点で、十分病人です」

「言い方」

 廊下に出ると、休み時間のざわめきが遠く聞こえた。

 生徒たちが移動教室へ向かう音。走るな、と誰かが注意する声。水筒を落とした音。廊下の窓から差し込む光。

 いつもの学校だった。

 だが、江口の耳には少しずつ遠かった。廊下が長く見える。階段までの距離がいつもより伸びている。壁に貼られた掲示物の文字が、視界の端で揺れる。

 廊下の突き当たりに、二年生の作品が掲示されていた。

 歴史新聞。

 鎌倉幕府、御家人、承久の乱。

 そのうち一枚の見出しが、江口の視界で滲んだ。

 名前を消された生徒。

 江口は足を止めた。

「江口先生?」

 青山が振り返る。

 掲示物の見出しは、ただの「御家人と土地制度」に戻っていた。

「何でもありません」

 江口は歩き出した。

 校門前にタクシーが停まっていた。

 青山は運転手に行き先を告げた。鴻上メンタル・内科クリニック。駅前の雑居ビル三階。聞き慣れない名前なのに、青山の口から出ると、すでに決まっていた予定のように聞こえた。

 後部座席に乗る時、江口は校舎を振り返った。

 二階の職員室の窓に、五十嵐が立っていた。

 彼は手を振らなかった。会釈もしなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。

 観察するように。

 記録するように。

 タクシーが走り出すと、校舎はゆっくり後ろへ流れていった。

 車内には芳香剤の甘い匂いが漂っていた。窓の外を、登校の遅い生徒が小走りで抜けていく。春の光は明るいのに、空はどこか白く濁っている。

 江口はシートに背中を預けた。

 青山は助手席に座っていた。運転手と短く会話をしている。言葉遣いが丁寧で、無駄がない。

 江口は目を閉じた。

 瞼の裏に黒板が浮かんだ。

 古い黒板。

 白いチョーク。

 誰かの名前。

 江口は目を開けた。

 青山がルームミラー越しにこちらを見ていた。

「気分が悪いですか」

「今、良いと言ったら嘘になります」

「もうすぐです。鴻上先生は信頼できる方ですから」

「青山先生」

「はい」

「鴻上先生とは、今でも親しくされているんですか」

 青山はすぐには答えなかった。

 車が信号で止まる。歩道を、保育園児らしい子どもたちが渡っていく。散歩中だろう。黄色い帽子が光に揺れた。

「父を通じて、昔から少し」

「昔から」

「ええ。同級生でもありますし」

「六十五回生ですか」

 青山は微笑んだ。

「よく覚えていますね」

「今の僕にしては奇跡的ですね」

「同じ回生です。ただ、在学中から親しかったというほどではありません。鴻上先生は目立つ方でしたから、名前はよく知っていました」

「今は?」

「学校医としてお世話になっているだけです」

 答えは自然だった。

 どこにも不審なところはない。

 だが、江口の胸の奥には小さな棘が残った。

 鴻上クリニックは、駅から少し離れた雑居ビルの三階にあった。

 一階には調剤薬局、二階には歯科医院、三階に内科と心療内科の看板がある。白い地に淡い緑の文字で、鴻上メンタル・内科クリニックと書かれていた。

 自動ドアが静かに開く。

 待合室には観葉植物が置かれ、クラシック音楽が小さく流れていた。壁は白。椅子は淡いグレー。受付の横には、睡眠、ストレス、動悸、過呼吸、自律神経失調症についてのパンフレットが整然と並んでいる。

 居心地を良くしようとしている場所だった。

 だからこそ、江口は少し居心地が悪かった。

 受付の女性は、江口の名前を聞く前に顔を上げた。

「江口桜次郎さんですね。青山先生からご連絡をいただいております」

 滑らかな対応だった。

 江口はわずかに眉を動かした。

「はい」

「問診票をお願いいたします。お辛いようでしたら、書ける範囲で結構です」

 渡された紙には、睡眠時間、食欲、動悸、めまい、吐き気、不安感、服薬歴、既往歴などの項目が並んでいた。

 江口はペンを取った。

 名前の欄で、手が止まった。

 江口桜次郎。

 何度も書いてきた名前だった。答案の所見欄にも、保護者宛の封筒にも、同人誌の奥付にも、嫌になるほど書いてきた。なのに、その日は一画目がうまく書けなかった。

 指先に力が入らない。

 文字の線が、少し震えた。

 青山は待合室の端で立っていた。座らない。付き添いというより、引率のようだった。

「青山先生、もう戻られて大丈夫です」

 江口は言った。

「ここまでで十分です」

「念のため、診察まで」

「生徒なら分かりますが、僕は一応大人です」

「大人でも倒れます」

「倒れましたね」

「それに、学校へ戻っても今すぐ授業があるわけではありません。調整は済んでいます」

 また、済んでいる。

 江口は苦笑した。

「青山先生って、道を作るのが上手いですね」

「そうでしょうか」

「気づくとそっちに歩いている」

 青山は穏やかな顔をしていた。

「教師の仕事は、そういう面もありますから」

 江口はそれ以上言わなかった。

 問診票を書き進める。

 睡眠時間。三時間。いや、二時間半かもしれない。食欲。低下。動悸。あり。めまい。あり。吐き気。少し。手の震え。あり。幻聴や幻覚。

 その項目で、ペンが止まった。

 幻聴。

 幻覚。

 江口はその文字を見つめた。

 ある、と書けば、自分はその側の人間になる気がした。

 ない、と書けば、さっきのコーヒーの水面に浮かんだ名前を否定することになる。

 江口は空欄にした。

 診察室に呼ばれたのは、それからすぐだった。

 鴻上誠一は、白衣の似合う男だった。

 三十代前半。清潔感のある上方。顔立ちは整っているが、青山のような隙のなさとは違う。もっと柔らかい。相手を安心させるための柔らかさだった。

 声は低く、ゆっくりしていた。

「江口さんですね。大変でしたね」

 江口は椅子に座った。

 診察室には、机、電子カルテ、血圧計、聴診器、書棚があった。書棚には医学書に混じって、学校保健に関する冊子が並んでいる。

 鴻上は問診票に目を落とした。

「青山くんから聞いています」

 青山くん。

 江口はその呼び方に少しだけ反応した。

「青山先生とは、お知り合いなんですよね」

「ええ。その前から。彼のお父様とうちの父と古い付き合いがありましてね。青山くん自身も、昔からよく知っています」

「慶早の同級生だとか」

 鴻上の視線が、一瞬だけ止まった。

 ほんの一瞬だった。

「同じ回生です。ただ、私の方が少し目立つ生徒だったので、向こうが覚えていてくれたのでしょう」

「自分で目立つと言える人、信頼できますね」

 江口が言うと、鴻上は微笑んだ。

「医者という仕事は、ある程度自分を信用していないとできません」

「教師も同じですね。自分を信用しすぎると事故りますが」

「その事故が今日起きかけたわけです」

 鴻上は柔らかい声で言った。

 江口は返す言葉を失った。

 診察は手際よく進んだ。

 血圧、脈拍、瞳孔、簡単な神経所見。指先を追わせられ、握力を見られ、立ちくらみの有無を聞かれる。

「睡眠がかなり短いですね」

 鴻上は電子カルテに入力しながら言った。

「ここしばらく、三時間前後の日が続いていますか」

「続いているというか、定着しつつあります」

「定着させてはいけないものです」

「学校ではいろんな悪習が定着します」

「江口さん」

 鴻上の声が少しだけ低くなった。

「冗談で逃げる癖がありますね」

 江口は黙った。

 鴻上は責めているわけではなかった。むしろ、その声は穏やかだった。穏やかだからこそ、逃げ道を塞がれる感じがした。

「動悸、めまい、手の震え、音への過敏さ、吐き気。過労と不眠で説明できる部分は多いです。自律神経もかなり乱れているでしょう」

「自律神経って便利な言葉ですね」

「便利ではありますが、軽いという意味ではありません」

 鴻上は江口を見た。

「職員室で倒れた時、何か見えましたか」

 江口の背中に、冷たいものが触れた気がした。

「どうしてですか」

「青山くんから、急に立ち上がって崩れたと聞きました。過呼吸や不安発作の直前に、周囲のものが歪んで見えることがあります」

 青山は、どこまで話したのだろう。

 江口は曖昧に笑った。

「予定表が生き物みたいに見えました」

「生き物」

「比喩です」

「床のものが虫のように見えたり、文字が動いて見えたりは?」

 江口は鴻上を見た。

「少し」

 江口は答えた。

「呼ばれた気がすることは」

「あります」

「実際には誰も呼んでいない」

「たぶん」

 鴻上は頷いた。

「眠れていない時には、珍しくありません。強いストレスが続くと、感覚の入力を脳がうまく処理できなくなることがあります。音が大きく聞こえる、視界の端の影が何かに見える、呼び声のように感じる。そういうことは起こります」

 江口は、コーヒーの水面に浮かんだ名前を言わなかった。

 内田春斗。

 知らない名前を見た、と言うことだけは、どうしてもできなかった。

「少し薬を出します」

 鴻上は言った。

「緊張を落とす薬と、眠りに入りやすくする薬。それから、急に不安が強くなった時のための頓服です」

「薬ですか」

「必要です。今の状態は、体が警報を鳴らしているようなものですから」

「警報なら、止めるより原因を探すべきでは」

「もちろんです。ただ、警報が鳴り続けていると、人は火元を探す前に倒れます」

 うまい表現を使う。

 江口はそう思った。

 鴻上は処方について説明した。

「眠気が出ることがあります。飲んだあとの運転は避けてください。アルコールもやめてください。仕事は、今日は休むこと。できれば明日も休んでいただきたい」

「明日は少し難しいです」

「難しくても、体は待ってくれません」

「それ、青山先生にも似たようなことを言われました」

「青山くんは昔から真面目ですから」

 鴻上は少し微笑んだ。

 その顔には懐かしむような色があった。

「頓服は、不安が強くなった時、周囲の音や光が気になって落ち着かない時、自分で自分を制御できないような感覚がある時に使ってください」

「自分で自分を制御できない感覚」

「ええ。発作の前兆のようなものです。早めに抑えた方がいい場合があります」

「見えるものがおかしい時も?」

 江口は、言ってから後悔した。

 鴻上は少し首を傾けた。

「疲労や不安が強い時には、そういう感覚も含まれることがあります。ただし、あまり頻繁に続くようなら連絡してください」

「飲めば治まりますか」

「楽になる可能性はあります」

 可能性。

 医師は断言しない。断言しないことが誠実なのだろう。だが、弱っている人間にとって、可能性という言葉は時に命綱に見える。

 江口は頷いた。

 診察室を出ると、青山がまだ待合室にいた。

「どうでしたか」

「過労、不眠、自律神経。教師の三種盛りです」

「軽く考えない方がいいです」

「軽く考えないと重すぎるんですよ」

 青山は何か言いかけ、やめた。

 受付で会計を済ませ、処方箋を受け取る。隣の薬局で薬を受け取ると、薬剤師が丁寧に説明してくれた。

 眠気が出ることがある。

 ふらつきに注意すること。

 アルコールは避けること。

 異常があれば服用を中止すること。

 頓服は指示された範囲を超えないこと。

 江口は頷いていたが、耳には半分ほどしか入っていなかった。

 異常があれば服用を中止する。

 すでに異常がある。

 では、その異常が薬によるものか、それ以前からあるものか、どうやって見分ければいいのだろう。

 薬の袋を鞄に入れると、小さな紙の音がした。

 外に出ると、昼前の光が思ったより強かった。ビルのガラスに反射した日差しが目に刺さる。足元が一瞬遠くなる。

「タクシーで帰ってください」

 青山が言った。

「学校へは戻らないでくださいね」

「そこまで念を押されると、戻りたくなります」

「江口先生なら本当に戻りそうなので」

「信頼がない」

「信頼しているから心配しています」

 そう言われると、返す言葉がなかった。

 青山は学校へ戻ると言った。江口は薬局の前で別れた。

 青山が駅の方へ歩いていく。その背中は、やはり乱れがなかった。誰かが見ていなくても姿勢が崩れない人間というのは、何かを隠すのがうまいのか、それとも隠す必要がないほど整っているのか。

 江口は自分の考えに疲れた。

 スマートフォンが震えた。

 二階堂壮也からだった。

 画面には短いメッセージが表示されている。

【同窓会、来るだろ?】

 江口はしばらく画面を見ていた。

 慶早大学付属高校同窓会。

 六十五回生から七十回生までを対象にした合同の同窓会。旧校舎を改装した慶早学園記念館の開館記念も兼ねている。

 正直、気乗りはしていなかった。

 学校という場所に現在進行形で勤めている人間が、過去の学校に戻るのは、二重に逃げ場がない。

 それでも二階堂が来るなら、少しは面白いかもしれないと思っていた。

 高校二年の四月。

 東北から東京へ引っ越してきた江口は、慶早大付属に転入した。そこに二階堂がいた。

 初めて同じクラスになった日、二階堂は江口の名字を見て言った。

「江口って、シエロって読めるよな」

 意味が分からなかった。

 いまでも分からない。

 だが、そこから話すようになった。ソフトテニス部で同じペアになった。二階堂が前衛、江口が後衛。二階堂はよく動き、江口はよく拾った。都大会ベスト八。届かなかったベスト四の方を、江口は今でも覚えている。

 江口は返信を打った。

【行くよ。たぶん】

 すぐに既読がついた。

【顔色悪い返信だな】

 江口は笑いかけて、喉の奥で咳き込んだ。

【教師の通常運転です】

 二階堂から返事が来る。

【無理すんなよ、桜次郎】

 桜次郎。

 その名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 今でもそう呼ぶ人間は少ない。

 江口はスマートフォンを閉じた。

 薬の袋が鞄の中で小さく音を立てる。

 風が吹いて、ビルの前に落ちていたレシートが足元を滑った。

 それが一瞬、白い虫に見えた。

 江口は足を止めた。

 レシートはただの紙だった。

 分かっている。

 分かっているのに、心臓が一拍遅れて強く打った。

 江口は息を吐き、タクシーを拾った。

 家に帰ったのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。

 玄関の鍵を開けると、部屋の中には朝出た時の空気がそのまま残っていた。

 洗っていないマグカップ。開いたままのノートパソコン。積まれた文庫本。採点用に持ち帰った答案。丸めたネクタイ。テーブルの端には、封を開けたままの同窓会案内が置かれている。

 慶早学園記念館。

 旧校舎を改装した宿泊研修施設。卒業生向けの研修、記念式典、同窓会、短期セミナーなどに使われているらしい。

 江口にとって、旧校舎は実感の薄い場所だった。

 高二で転入した時には、すでに新校舎が中心だった。旧校舎は部活動の一部と倉庫、特別授業の会場として細々と使われていた。文化祭準備の時、一度だけ古い教室に入った記憶がある。

 軋む床。

 低い天井。

 窓枠に残る古い塗料の剥がれ。

 黒板の端に残った日直の名前。

 人がいなくなった学校は、急に老ける。

 毎日使われていた時には気づかなかった湿気や、廊下の匂いや、壁の傷が前に出てくる。生徒の声が消えると、校舎は建物ではなく標本になる。かつてそこにあった時間を、防腐処理したような場所になる。

 江口はソファに沈んだ。

 薬の袋をテーブルに置く。

 緊張を和らげる薬。眠りに入りやすくする薬。頓服薬。

 説明書を読む。

 眠気、ふらつき、集中力の低下。

 江口は小さく笑った。

「集中力の低下ね」

 それ以上低下する集中力が残っているのか疑問だった。

 だが、声に出してみても、あまり面白くなかった。

 部屋の隅に、黒い小さなものが見えた。

 江口は息を止めた。

 虫。

 そう思った。

 次の瞬間、それはただのコードの影だと分かった。スマートフォンの充電ケーブルが床に落ち、その先端が丸まっていただけだった。

 江口は額を押さえた。

 自分の頭が、自分を裏切り始めている。

 医師の言葉が蘇る。

 音や光が気になって落ち着かない時。

 自分で自分を制御できないような感覚がある時。

 頓服。

 薬の袋に手を伸ばしかけ、やめた。

 今はまだ昼だ。

 頓服も、むやみに飲むものではない。

 江口はシャワーを浴びた。

 水音がいつもより大きく聞こえた。浴室の壁を叩く音が、拍手のように重なる。顔を洗っている間、背後に誰かが立っている気がした。振り返っても、もちろん誰もいない。

 部屋に戻り、カーテンを閉める。

 ソファに横になる。

 眠るつもりだった。

 だが、眠りはすぐには来なかった。

 瞼を閉じると、ホワイトボードの文字が虫のように這い出す。目を開けると、天井の模様がゆっくり歪む。時計の秒針がうるさい。壁掛け時計ではない。スマートフォンの画面上に表示された時刻が、音を立てているような気がした。

 夕方になり、江口は軽く食事をとった。

 味はほとんど分からなかった。

 薬を飲む。

 白い錠剤を掌に置くと、思ったより小さかった。こんな小さなものが、人間の頭の中を変えるのかと思うと、不思議だった。いや、人間の頭など、その程度のもので変わるのかもしれない。

 水で飲み込む。

 喉を通る感覚が、やけにはっきりしていた。

 その夜、江口は浅く眠った。

 眠った、と思う。

 自分が眠っているのか、目を閉じているだけなのか、途中から分からなくなった。

 夢を見た。

 古い教室だった。

 天井が低い。窓枠の塗料が剥がれている。床が軋む。外は雨らしく、窓ガラスに細い水滴が走っていた。

 黒板がある。

 深い緑色の黒板。

 その前に、誰かが立っている。

 顔は見えない。

 手に白いチョークを持っている。

 チョークが黒板に触れる。

 きい、と音がした。

 江口は教室の後ろに立っていた。動けない。声も出ない。机が並んでいる。どの机にも誰も座っていない。だが、出席を取られる前の教室のような緊張だけがあった。

 黒板に文字が書かれる。

 一文字ずつ。

 内。

 田。

 春。

 斗。

 知らない名前。

 知っているはずのない名前。

 書き終えた誰かが、こちらを振り返る。

 顔はない。

 ただ、口だけがあった。

 その口が言う。

「出席を取ります」

 江口は目を覚ました。

 部屋は暗かった。

 カーテンの隙間から、街灯の光が細く入っている。時計を見る。午前二時十二分。

 汗をかいていた。

 喉が渇いている。

 江口は起き上がった。頭が重い。床に足をつけると、世界が少し遅れて揺れた。

 水を飲むためにキッチンへ向かう。

 途中、テーブルの上に置いた同窓会案内が目に入った。

 慶早学園記念館。

 その文字が、一瞬だけ別の文字に見えた。

 黒板。

 出席簿。

 名前。

 江口は目をこすった。

 案内状は元に戻っていた。

 ただの紙だった。

 江口は水を飲んだ。

 台所の蛍光灯をつける気にはなれなかった。暗がりの中で、コップの水面だけが街灯の光を拾っている。

 その水面に、白い線が浮かんだ気がした。

 江口はコップを置いた。

 違う。

 そう言い聞かせた。

 違う。

 もう一度、言い聞かせた。

 だが、眠れなかった。

 結局、朝までほとんど目を閉じているだけだった。


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