第一章 職員室の黒板係
江口桜次郎は、木曜日の朝が嫌いだった。
月曜日はまだ諦めがつく。火曜日は勢いで進める。水曜日は折り返しだと自分に言い聞かせることができる。金曜日には、薄いながらも出口の気配がある。
だが木曜日だけは違う。
週の疲労はもう体の奥に溜まりきっているのに、週末はまだ遠い。会議も、授業も、提出物の確認も、保護者への連絡も、なぜか木曜日に集中する。学校という場所には、そういう悪意のない偏りがあった。誰かが計画したわけではない。だからこそ質が悪い。
午前七時十分。
職員室は、すでに一日を半分ほど使い切ったような空気をしていた。
プリンターが紙を吐き出す。コピー機の読み取り面が白く光る。誰かが湯沸かしポットの蓋を閉める。外では運動部の朝練の声が遠く響いている。窓の向こうの校庭には、春の薄い光が斜めに落ちていた。
江口は自分の机に座り、中学二年の小テストを採点していた。
範囲は鎌倉幕府の成立と御恩と奉公。昨日の授業で確認したばかりの内容で、正答率は悪くない。悪くはないが、答案の端に「先生、最近顔色わるくないですか」と書いてきた生徒がいた。
江口は赤ペンを止めた。
余計なところだけよく見ている。
コメント欄に「社会科の答案に保健室案件を書くな」と返そうとして、やめた。教育的ではない。というより、冗談として成立するほど自分の顔色がまともではない自覚があった。
机の上には、採点途中の答案、週案、進路面談の資料、保護者宛の封筒、印刷したまま未確認のプリントが積まれている。その隣に、コンビニの紙コップが置かれていた。中身はブラックコーヒーだ。朝から二杯目。いや、三杯目だったかもしれない。
江口は赤ペンで丸をつけようとした。
線が歪んだ。
丸になるはずの赤い軌跡が、答案用紙の上でひしゃげた。まるで濡れた糸を置いたような、不格好な形だった。
江口は眉を寄せた。
指先が震えていた。
大きな震えではない。目立つほどではない。だが、赤ペンの先は紙の上で小さく跳ね、いつものように止まらなかった。ペンを握り直す。親指と人差し指に力を入れる。だが、指先と自分の意思との間に、薄い紙が一枚挟まっているような感覚があった。
「……何だ、これ」
声に出すと、思ったより掠れていた。
江口は赤ペンを置き、紙コップを取った。飲み込めば少しは頭が動くかもしれない。そう思って口をつけた瞬間、舌の奥に妙な苦みが広がった。
コーヒーの苦みではなかった。
遅れてくる苦さだった。薄く、鈍く、舌の裏に貼りつく。飲み込んだあとも、ざらつきだけが残った。
江口は紙コップの中を覗いた。
黒い液体が、蛍光灯を鈍く反射している。表面には何も浮いていない。匂いも、ただのコーヒーだった。
疲れているだけだ。
江口はそう結論づけた。
教師という仕事は、気のせいにしなければ進まないことでできている。自分の疲労、生徒の小さな違和感、保護者からの遠回しな不満、管理職の曖昧な笑顔。すべてを正面から受け止めていたら、午前中だけで人間が終わる。
もう一口飲んだ。
苦みのあと、喉の奥が少し詰まった。
壁の時計が七時半を指した。
かち。
秒針の音がした。
江口は顔を上げた。
かち。
また鳴る。
職員室の時計は、壁の高い位置に掛かっている。いつもなら、そんな音は意識に上がってこない。朝の職員室には他にいくらでも音がある。紙、椅子、靴音、キーボード、電話、誰かの咳、誰かの笑い声。時計の秒針など、その底に沈んでいるはずだった。
なのに、その日だけは違った。
かち。
耳のすぐ後ろで鳴っているようだった。
「江口先生」
呼ばれた気がして、江口は振り向いた。
誰もこちらを見ていなかった。
隣の机では国語科の古賀が湯呑みを片手にプリントを眺めている。向かいの英語科の村松は、片耳にイヤホンを入れたまま教材動画を確認していた。少し離れた席では数学科の若手が、週案を見ながら半分眠った顔をしている。
誰も江口を呼んでいない。
江口は視線を戻した。
机の端に積んでいた答案が、滑り落ちた。
ばさ、と音がした。
反射的に手を伸ばす。だが、しゃがみ込んだ瞬間、床が横にずれた。
校舎ごと傾いたように見えた。
江口は机の縁を掴んだ。合板の角が掌に食い込む。数秒待つと、床は元に戻った。薄い木目調の床。赤ペンのキャップ。落ちた答案。埃。
その埃の中で、何かが動いた。
黒い点だった。
虫のように見えた。
江口は息を止めた。
黒い点は、答案の端を横切り、机の影へ消えた。いや、消えたように見えた。目を凝らす。そこには何もいない。空調の風で埃が流れただけかもしれない。
江口は答案を拾い集めた。
右手がまた震えている。紙の角が揃わない。胸の奥が勝手に速く動いていた。階段を駆け上がった直後のように、心臓だけが仕事を増やしている。
「江口先生、大丈夫ですか」
今度は本当に声がした。
顔を上げると、五十嵐理人が立っていた。
理科教師だからといって、職員室でいつも白衣を着ているわけではない。その日の五十嵐は、薄いグレーのジャケットに黒のニットを合わせていた。短く整えた髪。二十七歳。若いが、妙に落ち着いている男だった。笑うと人当たりはいい。だが目だけは、笑ったあとも対象を測り続けるように残る。
江口より二年後輩の教諭で、理科準備室にいる時間が長い。職員室では少し浮いて見えることがあったが、本人は気にしていないようだった。
「世界か僕かのどちらかが壊れています」
江口が言うと、五十嵐は少しだけ笑った。
「じゃあ、やっぱり大丈夫じゃないですね」
「自分でなんとかします。教師の貴重な朝の時間を奪うわけにはいかないので」
江口は答案を机に戻した。
五十嵐はその動きを見ていた。視線が、江口の顔、手元、紙コップ、もう一度顔へ移る。観察が露骨だった。
「何ですか」
「手、震えてません?」
「教師は常に震えてます。怒りか、締切か、カフェインで」
「その三択にしては、汗が変です」
五十嵐は江口の机の横に立ったまま、少し顔を覗き込むようにした。
「寝ました?」
「質問が雑ですね」
「何時間ですか」
「睡眠時間を聞いてくる人間は、だいたい敵か医者だ」
「僕は理科教師です」
「一番面倒なやつだ」
「目、見せてください」
「嫌ですよ。何のイベントですか」
「イベントじゃないです。瞳孔、少し変です」
江口は反射的に顔を背けた。
五十嵐は踏み込んではこなかった。ただ、机の上の紙コップを見た。
「朝からコーヒー何杯目ですか」
「二杯目」
「本当に?」
「教師に本当のことを言わせるな。現場が荒れる」
「三杯以上ですね」
「……飲みました」
「江口先生、それ、寝不足だけじゃない顔ですよ」
軽い調子だったが、言葉の芯は妙に冷静だった。
江口は返す言葉を探した。いつもなら、この手の台詞にはすぐに皮肉を返せる。神経が燃えているなら灰になる前に年休をください、とか、労災認定の燃え方ですか、とか、その程度のことは言えたはずだった。
だが、言葉が出なかった。
代わりに時計の音がした。
かち。
「……うるさいな」
「何がですか」
「時計」
五十嵐が壁の時計を見た。
「そんなに大きい音じゃないですよ」
「だろうな」
江口は眉間を押さえた。こめかみの奥に、細い針のようなものがある。痛いというほどではない。ただ、そこにある。抜けない棘のように。
「今日、年休取って病院行ったほうがいいです」
「一時間目がある」
「代わります」
「理科教師が歴史を教えたら、生徒が混乱します」
「大丈夫です。鎌倉幕府くらいなら、たぶん酸化しません」
「酸化する歴史って何」
「江口先生が倒れるよりはマシです」
その言い方には、若い教師にありがちな勢いではなく、観察結果から出した結論の硬さがあった。
江口は椅子の背にもたれた。背中が重い。体の中に見えない砂袋がいくつも吊るされているようだった。
職員室の扉が開いた。
「おはようございます」
入ってきたのは、青山怜司だった。
声だけで、職員室の空気が少し整ったように感じられる。そういう男だった。
三十代半ば。背は高いが、威圧感はない。髪はきちんと分けられ、ネクタイの結び目も正確だった。生徒にも保護者にも受けがいい。授業は分かりやすく、学年運営にも穴がない。管理職からの評価も高い。
江口は青山を見るたび、よく磨かれた廊下のような男だと思うことがあった。歩きやすい。見た目もきれいだ。だが、どこまで続いているのか、いまひとつ分からない。
「江口先生、顔色が悪いですね」
青山は机の前で足を止めた。
「流行ってるんですか、それ」
「それ?」
「朝から二人に顔色を査定されています」
青山は柔らかく笑った。
「それだけ分かりやすいということです。無理をされているのでは」
「教師で無理をしていない人間がいたら、お目にかかりたいです。標本にしましょう」
五十嵐が横から言った。
「理科室に置きます?」
「置くな。呪物になる」
江口が言うと、青山は少し困ったように眉を下げた。だがその顔にも乱れはない。
「冗談を言えるうちはいい、という考え方もありますが、今日は本当に休まれたほうがいいかもしれませんね」
「青山先生まで」
「午前の授業なら、調整できます。学年主任にも私から話しておきます」
「そこまでされると逆に怖いんですが」
「倒れられるほうが困ります」
穏やかな正論だった。
江口は反論しようとして、喉の奥にまた妙な詰まりを感じた。咳払いをする。胸の奥が軽くざわついた。コーヒーの苦みがまだ舌に残っている。
五十嵐が紙コップを見た。
「それ以上、今日は飲まないほうがいいです」
「コーヒーにまで見捨てられたら、教師は何で立っていればいいんだ」
「水です」
「急に現実的になった」
「現実の方が、今の江口先生には必要です」
青山が静かに言った。
「病院なら、近くに学校医のクリニックがあります。今日なら午前中に診てもらえるかもしれません」
江口は顔を上げた。
「学校医」
「ええ。鴻上クリニックです。内科と心療内科を両方診ています。過労や不眠の相談にも慣れているはずです」
「心療内科」
江口はその言葉を繰り返した。
五十嵐がちらりと青山を見る。
「心療内科って言われると、急に大げさになりますね」
江口が言うと、青山は首を振った。
「大げさに考える必要はありません。眠れていない時、体に出ることはありますから。今のうちに診てもらうだけです」
今のうち。
その言葉が、江口の耳に引っかかった。
今のうち、とは何の前だろう。倒れる前か。壊れる前か。それとも、もっと別の何かの前か。
江口は自分の思考に舌打ちしたくなった。疲れている。だから、こんな余計な受け取り方をする。
「江口先生」
五十嵐が低く言った。
「行ってください。ほんとに」
その声には、さっきまでの軽さがなかった。
「そんなにひどい顔してます?」
「はい」
「少しは遠慮しましょう」
「今、遠慮しています」
江口は黙った。
職員室の奥で電話が鳴った。誰かが受話器を取る。廊下から生徒の笑い声が流れてくる。いつもの朝だった。いつもの朝であるはずだった。なのに、自分の周囲だけが薄いガラスで囲われているような感じがした。音は聞こえる。景色も見える。だが、すべて少し遠い。
江口は机の上の答案を見た。丸をつけ損ねた解答欄の上に、赤い線が曲がっている。
「分かった」
自分で言ってから、少し驚いた。
五十嵐も一瞬だけ目を開いた。
「珍しく素直ですね」
「今の体調で反抗期をやる体力がない」
「賢明です」
「代教は古賀先生にお願いします」
「僕じゃないんですか?」
「五十嵐先生は二時間目以降全詰まりでしょう。それに、理科の匂いを歴史に混ぜられたら生徒が迷子になります」
「酸化させませんよ」
「それがもう混ざってる」
青山が微笑んだ。
「では、鴻上先生に連絡しておきます。少し休んでから向かわれますか」
「いや、行くなら今行きます。座っていると逆に気持ち悪い」
「車は?」
「電車で」
「その状態で?」
五十嵐の声が鋭くなった。
江口は溜息をついた。
「タクシーを呼びます。教師が校門前で倒れたら、明日の職員会議で議題になる」
「今日中に議題になります」
「嫌すぎる」
江口は鞄に必要なものを入れた。
財布、スマートフォン、保険証、読みかけの文庫本。なぜ文庫本を入れたのか、自分でも分からなかった。病院の待合室で読むつもりだったのかもしれない。あるいは、何か活字を持っていないと落ち着かなかったのかもしれない。
机の引き出しを閉めようとした時、内側に挟んでいた薄い冊子が少しずれた。
黒い表紙。
白いチョーク文字のような題字。
『黒板係は、四度名前を書く』
江口は一瞬だけ手を止めた。
自分の処女作だった。
大学時代、初めて同人誌として出したミステリ。粗くて、青くて、いま読むと胃が痛くなる。数年前、同人誌版を整理した時に、記念半分、自戒半分で一冊だけ職場の引き出しに入れたままだった。
なぜ職場に置いているのかと聞かれたら、答えに困る。教師としての自分と、物語を書く自分を完全に切り離すほど器用ではない。かといって、重ねたいわけでもない。ただ、引き出しの奥にしまっておくくらいが、自分にはちょうどよかった。
「それ、先生のですか」
五十嵐の声がした。
江口は引き出しを閉めた。
「見なかったことにしてください」
「表紙だけ見えました」
「見なかったこと」
「黒板係、でしたっけ」
「見てるじゃないですか」
五十嵐は悪びれずに言った。
「投稿サイトにあるやつですよね。読みました」
江口は顔をしかめた。
「職場で一番聞きたくない報告を聞いてしまった」
「面白かったです」
「やめてくださいよ。処女作を褒められるのは、昔の卒業文集を朗読されるのと同じくらいきつい」
「先生の小説、死体より生きてる人間の方が怖いですよね」
江口は五十嵐を見た。
その言葉は、軽い感想のようでいて、どこか核心だけを爪で引っかくような響きがあった。五十嵐本人は穏やかな顔をしている。だがその目には、読んだものをただ消費する人間の色ではなく、観察対象として残している人間の色があった。
「嫌な読み方しますね」
「理科も人間を扱いますから」
「なんか、怖い発言きた」
青山が腕時計を見た。
「江口先生、タクシーを呼んでおきました。鴻上先生には私から連絡を入れます」
「すみません。お願いします」
江口が言うと、青山は軽くうなずいた。
「いえ。お互い様ですから」
青山はスマートフォンを手に、職員室の外へ出ていった。廊下側のガラス越しに、穏やかに電話をかける横顔が見える。声は聞こえない。だが、姿勢も表情も整っていた。
「江口先生」
五十嵐が机に片手をついた。
「本当に無理しないでください」
「若手に心配されると一気に老けた気になります」
「大丈夫。見た目は十分若いです。たぶん」
「最後に不安要素を足すな」
「じゃあ、今は水を飲んでください。カフェインで押し切る段階は越えてます」
「教師からカフェインを奪ったら、残るのは出席簿だけですよ」
「出席簿で立っていられるなら止めません」
「無理だな」
江口は紙コップを机の端に置いた。
黒い液体はまだ半分ほど残っている。蛍光灯の光が、表面に細く伸びていた。
その表面に、一瞬、白いものが浮いたように見えた。
江口は目を凝らした。
何もない。
五十嵐が視線を追った。
「どうしました」
「いや」
江口は鞄を肩にかけた。
「何でもない」
何でもない。
そう言い切ることに、少しだけ力が要った。
タクシーは十分ほどで来ると青山は言っていた。だが、その十分が長かった。
江口は一度椅子に座り直した。座ると、体が深く沈んだように感じた。まるで床下から誰かに足首を掴まれているようだった。
職員室のホワイトボードに目を向ける。
そこには今日一日の予定が書かれていた。
自分の週案と見比べる。
一時間目、二年三組。
二時間目、二年一組。
三時間目、二年二組。
四時間目、連絡帳と小テストのチェック。
昼休み、生徒指導部打ち合わせ。
五時間目、道徳。
六時間目、数学のT2。
放課後、保護者面談、部活指導。
そのあと、作問。授業準備。
再び、ホワイトボードを凝視する。
青、赤、黒のマーカーが重なり合い、隙間を潰していた。予定と予定のあいだにあった、かろうじて人間が呼吸できる余白が消されている。
江口はぼんやりと見ていた。
その文字が、少し滲んだ。
最初はインクが光っているのだと思った。蛍光灯の角度のせいだ。そう思おうとした。
だが、違った。
赤い文字の端が揺れた。
青い予定が、細く裂けるように見えた。
黒い字の一部が、脚を生やしたように動いた。
虫だ。
そう思った瞬間、ホワイトボードいっぱいの文字が、一斉に這い出した。
青い虫、赤い虫、黒い虫。
授業変更が蠢く。保護者面談が這う。進路指導会議が細い脚を震わせる。提出物未提出者への連絡が、黒い塊になって職員室の白い壁を流れ落ちる。
江口は息を吸った。
吸えなかった。
喉が詰まった。
「江口先生?」
五十嵐の声が遠くでした。
江口は立ち上がろうとした。椅子が床をこすった。視界の端で、誰かがこちらを見た。
大丈夫です。
そう言おうとした。
口が動かなかった。
ホワイトボードの虫たちは、文字ではなくなっていた。無数の黒い粒が、白い面から剥がれ落ち、床へ降ってくる。机の脚を這い上がる。答案用紙の上を走る。生徒の名前の上で群がる。
江口は後ずさった。
足が椅子に当たった。
体が傾く。
世界が一拍遅れて回った。
赤ペンが落ちる音がした。
紙コップが倒れた。
黒いコーヒーが机から床へ流れ落ちた。
五十嵐が何か叫んだ。古賀が立ち上がった。村松がイヤホンを外した。誰かの椅子が倒れた。複数の声が、遠くの水中から聞こえるように重なった。
江口は床に膝をついた。
そのまま、体を支えられなかった。
頬に冷たい感触が当たる。床だった。床の木目が目の前にある。落ちた答案。赤ペンのキャップ。広がるコーヒー。黒い水たまりが、蛍光灯の光を映している。
「江口先生、聞こえますか」
五十嵐の声。
近い。
だが、江口にはうまく返事ができなかった。
体のどこに力を入れればいいのか分からない。手を動かそうとしても、指先が遅れてついてくる。心臓が速い。喉が狭い。耳の奥で時計の音が鳴っている。
かち。
かち。
かち。
誰かが職員室の外へ走っていく。
古賀が震えた声で「救急車」と言った。
だが、その言葉は職員室の入口で止められた。
駆けつけてきた教頭が、廊下の方を気にしながら低い声で言った。
「まず保健室へ。生徒が動揺します。大ごとに見せないように」
「でも、倒れたんですよ」
五十嵐の声がした。
「意識はありますか」
教頭が誰かに確認する。
「あります。呼びかけには反応しています」
青山の声だった。
副校長も遅れて入ってきた。
「保健室で様子を見て、必要なら学校医へ。救急車は、校長に確認してからにしましょう」
その判断が、職員室の空気を変えた。
驚きは、手順に押し込められた。
教師たちは一斉に小さな声になった。廊下に出ようとしていた若手が足を止める。生徒に見せないように、という言葉が、まるで正しい配慮のようにその場を覆った。
五十嵐だけが、納得していない顔をしていた。
「大丈夫なんですか」
「保健室で養護教諭に見せます。青山先生、付き添えますか」
「はい」
青山の声は落ち着いていた。
江口は床に広がったコーヒーを見ていた。
黒い水面が揺れている。
その中に、白いものがあった。
最初は蛍光灯の反射だと思った。
違った。
白い線だった。
チョークで書いたような、粉っぽい線。
黒い水面の中に、文字が浮かんでいる。
江口は目を見開いた。
あり得ない。
分かっていた。
コーヒーの水面に文字が浮かぶはずがない。まして、チョークの文字など。
それでも、見えた。
内田春斗。
知らない名前だった。
江口はその四文字を読んだ瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
誰だ。
そう思った。
なぜ、そんな名前が見える。
五十嵐の手が肩に触れた。
「江口先生。大丈夫です、分かりますか。僕の声、聞こえますか」
聞こえている。
聞こえているのに、江口は答えられなかった。
黒い水面の文字が、ゆっくり滲んでいく。
内田春斗。
その名前は、誰かが黒板に書き、すぐに消し忘れたような頼りなさで、床の上に浮かんでいた。
江口は最後に、青山の靴を見た。
上質なスニーカーだった。
床に広がるコーヒーの手前で、ぴたりと止まっている。
その靴は、水たまりを踏まなかった。
江口は、なぜかそのことだけを覚えていた。
そして意識は、黒板消しで払われるチョークの粉のように、白く散った。




