第三章 金曜日の欠落
金曜日の朝、江口桜次郎は目覚ましより先に起きた。
起きた、というより、眠ることを諦めた。
カーテンの外は薄く明るくなり始めていた。街はまだ完全には動き出していない。窓ガラスの向こうに、朝の湿度が染みている。
江口は布団の中でしばらく天井を見ていた。
体が重い。頭の奥は鈍く熱い。喉は乾き、舌の奥には昨日のコーヒーの苦みがまだ残っているような気がした。寝返りを打つと、部屋の空気がわずかに揺れた。その揺れに、壁際の影が反応したように見えた。
虫ではない。
江口は自分に言い聞かせた。
ただの影だ。
起き上がると、軽いめまいがした。世界が縦に一度だけ伸びて、戻る。足裏が床に触れる感覚が薄い。
今日は休め。
鴻上の言葉が頭に浮かんだ。
できれば明日も休んでいただきたい。
正しい。
正しいことは分かっていた。
だが、正しさだけで学校は止まらない。
金曜日は、昨日の授業変更のしわ寄せがある。小テストの返却もある。保護者面談も一件入っている。学年集会の打ち合わせもある。欠席者への連絡も、提出物の確認も、誰かがやらなければならない。
誰か。
その誰かは、たいてい自分になる。
江口は洗面所へ行き、顔を洗った。
鏡の中の自分は、他人のようだった。
目の下に影がある。頬の線が少し落ちている。髪が寝癖で跳ねているのに、直す気力が湧かなかった。蛇口の水音が、やけに大きく響く。洗面台に落ちる水の粒が、小さな拍手のように連なった。
鏡の端に、白いものが映った。
江口は振り向いた。
何もない。
白いタオルが、洗濯機の上にかかっているだけだった。
江口は息を吐いた。
薬の袋を手に取る。
昨日、鴻上から処方された薬。眠る前に飲む薬。緊張を落とす薬。頓服。
指示書を読み返す。
眠気、ふらつき、集中力の低下。
今の状態が薬のせいなのか、薬を飲まなかったらもっとひどかったのか、江口には判断できなかった。
判断できない。
それが一番気味悪かった。
自分の体について、自分が一番分からない。
江口は朝食を食べようとした。
トーストを一枚焼いたが、半分も食べられなかった。コーヒーを淹れようとして、手が止まった。
黒い液体。
白い文字。
内田春斗。
江口はコーヒーの粉を棚に戻した。
代わりに水を飲む。
水は何も言わなかった。
学校へ向かう電車の中で、江口は座席に座っていた。
窓ガラスに自分の顔が薄く映っている。向かいの席では、制服姿の高校生がイヤホンをしてスマートフォンを見ていた。会社員がつり革につかまり、片手でニュースを読んでいる。小さな子どもを連れた母親が、ベビーカーを押さえている。
普通の朝だった。
誰も黒板の名前など知らない。
誰も内田春斗など知らない。
その当たり前の事実が、江口には少しだけ不公平に思えた。
スマートフォンが震えた。
二階堂壮也からだった。
【今日も仕事か?】
江口は短く返信した。
【仕事】
すぐに返事が来る。
【昨日病院行ったんだろ】
【行った】
【休めって言われただろ】
江口は少し笑った。
画面の向こうにいる二階堂の顔が浮かぶ。高校時代から、妙なところだけ勘がいい。こちらが隠したいことほど、なぜか引っかけてくる。
【教師は休めと言われて休める職業ではありません】
【倒れた教師は休め】
【倒れた情報、どこから】
【お前の返信】
江口は画面を見て、少しだけ黙った。
確かに、昨日から自分の文面はおかしいのかもしれない。短い。余計な冗談が少ない。二階堂には、それだけで分かるのだろう。
【明日の同窓会は?】
二階堂から追加で送られてきた。
江口はしばらく画面を見つめた。
慶早学園記念館。
旧校舎。
黒板。
内田春斗。
【行く】
【無理すんな】
【お前に言われると逆に無理したくなる】
【桜次郎】
名前だけのメッセージだった。
江口は、その二文字ではなく四文字の名を見つめた。
桜次郎。
二階堂は今でもそう呼ぶ。
高校時代から変わらない。
【明日会ったら説教する】
続けて送られてきた。
江口は短く返した。
【広報課の刑事に説教される教師、かなり絵面が悪い】
【元交番勤務で元刑事課だ。説教の幅は広い】
【嫌な幅】
そこで電車が駅に着いた。
江口はスマートフォンを閉じた。
学校に着くと、職員室の空気が少し変だった。
昨日、倒れた人間が平然と出勤してきた時の空気だった。驚き、心配、呆れ、そして「来てしまったか」という諦めが混じっている。
教頭が湯呑みを持ったまま言った。
「江口先生、来たんですか」
「来てしまいました」
「いや、帰りましょうよ」
「今来たばかりで帰るの、かなり効率が悪いですね」
「効率の問題じゃないです」
向かいの村松も眉を寄せた。
「昨日、倒れたんですよね」
「倒れたというか、床と親交を深めただけです」
「それを倒れたって言うんです」
古賀が心配そうに覗き込む。
「本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫です」
言ってから、自分でも軽い嘘だと思った。
大丈夫ではない。
だが、学校では「大丈夫です」と言わなければ始まらない場面が多すぎる。
五十嵐はまだ職員室にいなかった。
江口は自分の机に鞄を置いた。
机の上は、昨日の騒ぎのあと片づけられていた。答案は揃えられ、赤ペンも戻っている。紙コップはなかった。誰かが捨てたのだろう。
床には、コーヒーの跡は残っていなかった。
黒い水たまりも、白い文字もない。
それだけで少し安心した自分がいた。
「おはようございます」
背後から声がした。
青山怜司だった。
江口は振り返る。
青山はいつものように整っていた。白いシャツ、淡い色のネクタイ、磨かれた靴。昨日と同じ人物でありながら、昨日の一連の出来事がまるで別の人間に起きたことのように見えた。
「来られたんですね」
「来てしまいました」
「休まれた方がよかったと思いますが」
「教頭先生にも言われました」
「全員同じ意見だと思います」
「教師という集団が意見一致するの、珍しいですね」
青山は少し笑った。
「昨日、鴻上先生からも、今日は休むように言われませんでしたか」
「言われました」
「では、なぜ」
「学校に来る理由があったからです」
「理由」
「授業です」
青山は江口を見た。
その視線は柔らかい。だが、逃げ場がない。
「授業は代わりが立ちます」
「立たない授業もあります」
「江口先生」
青山の声が少しだけ低くなった。
「倒れてまで守る授業はありません」
正しい。
また正しい。
青山はいつも正しい。
その正しさが、江口には少し苦しかった。
「青山先生は、正しいことを言うのが上手いですね」
「嫌味ですか」
「感想です」
「なら、ありがとうございます」
青山は受け流した。
「明日の同窓会ですが」
江口は動きを止めた。
「参加されるんですよね」
「一応」
「無理はしないでください。体調が悪ければ欠席しても」
「青山先生も行くんですか」
「ええ。幹事側の手伝いがありますから」
「幹事?」
「正確には、記念館開館の関係者への挨拶と、旧校舎見学の補助です。私は六十五回生なので、少し上の代の方々とのつながりもあります」
「六十五回生から七十回生まで、でしたっけ」
「はい。今回は合同です」
「なぜ、その範囲なんですか」
江口が聞くと、青山は少しだけ目を伏せた。
「旧校舎に思い入れのある世代、ということになっています。移行期に在籍していた回生ですね。完全に新校舎へ移る前の」
「僕はあまり旧校舎の記憶がありません」
「転入でしたからね」
青山は自然に言った。
江口はその言葉に、また小さく引っかかった。
昨日も同じことを思った。
青山は、自分のことをよく知っている。
知っていても不自然ではないことばかりだ。職員室で話した。教員名簿に載っていた。誰かから聞いた。そう説明できることばかり。
だが、説明できることと、気にならないことは違う。
その時、チャイムが鳴った。
朝の打ち合わせが始まる。
江口は助かったと思った。
職員室の空気が、学校の時間割に戻る。管理職が連絡事項を読み上げる。その後、学年での打ち合わせに入る。欠席者、授業変更、保護者来校、学年集会の内容確認。いつもの情報が、いつもの速度で流れていく。
江口はメモを取ろうとした。
ペン先が紙に触れたところで、手が震えた。
集会。
欠席者。
保護者。
面談。
黒いインクの文字が、紙の上でゆらりと揺れた。
江口は瞬きをした。
文字は戻った。
大丈夫。
そう思った。
大丈夫ではない。
すぐに別の声が頭の中で言った。
一時間目、二年三組。
江口は教室へ向かった。
廊下を歩く足取りは、いつもより慎重だった。生徒たちは普通に挨拶をしてくる。
「江口先生、おはようございます」
「おはよう」
「先生、昨日休んだんですか」
「床と協議していた」
「え?」
「気にするな」
生徒は首を傾げながら教室へ入っていった。
教室の黒板には、日直の名前が書かれていた。
白いチョーク。
江口は一瞬だけ足を止めた。
そこに書かれているのは、二年三組の生徒の名前だった。知っている名前。昨日小テストの答案に丸をつけた生徒。欠席でも、幻でも、知らない少年でもない。
江口は教卓に立った。
「おはようございます」
生徒たちが少し遅れて返す。
「おはようございます」
その声を聞いて、江口は出席簿を開いた。
名前を呼ぶ。
一人ずつ。
いる者の名前を、いるものとして呼ぶ。
それだけのことが、昨日から妙に重かった。
「相川」
「はい」
「井上」
「はい」
「上田」
「はい」
返事が返ってくるたび、江口は胸の奥で小さく確認した。
いる。
いる。
いる。
出席を取り終えた時、黒板の端が揺れた。
日直の名前の下に、別の文字が浮かんだ気がした。
内田春斗。
江口はチョークを握る手に力を込めた。
違う。
ただの白い粉だ。
授業を始める。
鎌倉幕府。
御恩と奉公。
将軍と御家人。
板書をしているうちに、腕が重くなった。チョークの粉が指先につく。白い粉が皮膚の皺に入り込む。
その白さが、昨夜の夢の中の文字に似ていた。
江口は板書を止めた。
「先生?」
前列の生徒がこちらを見た。
江口は振り向き、いつもの顔を作った。
「すみません。鎌倉幕府が一瞬、労働基準法違反に見えました」
教室が少し笑った。
笑い声が、現実の側へ引き戻してくれる。
江口は続けた。
「御家人は、将軍に仕える代わりに土地を保障されます。これを御恩と奉公といいます。ここ、テストに出ます」
生徒がノートを取る。
鉛筆の音。
紙の音。
それらは虫の足音には聞こえなかった。
二時間目。
三時間目。
江口は授業をこなした。
こなした、という言葉が正しかった。自分が話しているのに、少し離れた場所から自分の声を聞いているような感覚があった。板書の字がいつもより乱れている。問いかけに対する返しも鈍い。生徒の冗談に反応するまでに、半拍遅れる。
それでも授業は終わる。
チャイムは、どんな教師の体調にも関係なく鳴る。
昼休み、江口は職員室で弁当の蓋を開けた。
ほとんど食欲はなかった。
白米が白すぎる。
梅干しの赤が、少しだけ濃すぎる。
箸を持つ手が小さく震える。
「江口先生」
声がした。
五十嵐だった。
いつの間にか職員室に戻っていたらしい。手には理科の教材を抱えている。
「食べられてます?」
「弁当とにらめっこしています」
「負けそうですね」
「白米が強い」
五十嵐は笑わなかった。
江口の机の横に立つ。
「昨日、ちゃんと帰りました?」
「帰りました」
「薬、飲みました?」
「飲みました」
「今日、来ちゃ駄目なやつですよ」
「全員に言われています」
「全員が正しい時もあります」
「それは怖いですね」
五十嵐は江口の顔をじっと見た。
「目、昨日より変です」
「褒め言葉ではないですね」
「褒めてません」
五十嵐は周囲を見た。職員室には他の教師もいるが、それぞれ昼食や電話、教材準備に追われている。こちらの会話を気にしている者はいない。
江口は弁当の蓋を閉じた。
「もう食べないんですか?」
「後で食べようかな」
「今じゃなくて?」
「白米との戦いは一筋縄じゃいかないので」
「負けてるのに?」
「負け戦にも礼儀があります」
五十嵐は何か言いたげだったが、そこで別の教師に呼ばれた。
「五十嵐先生、理科室の鍵」
「あ、はい」
五十嵐は鍵を取りに行く。
江口はその背中を見送った。
その後の記憶が、曖昧だった。
弁当を片づけた。
たぶん。
廊下を歩いた。
通りかかった生徒が「先生、大丈夫ですか」と言った。
大丈夫。
たぶん答えた。
社会科準備室へ行った気もする。行っていない気もする。
誰かと話した。
誰だったか思い出せない。
青山だったかもしれない。五十嵐だったかもしれない。古賀だったかもしれない。
チャイムが鳴った。
鳴っていないのに鳴った気がした。
黒板の前に立っていた。
どこの教室か分からなかった。
白いチョークを持っていた。
手が勝手に動き、黒板に名前を書こうとしていた。
内田――
そこで誰かが自分の手首を掴んだ。
「先生」
その声が、現実のものだったかどうか分からない。
気づくと、放課後の職員室に座っていた。
窓の外は夕方の色になっている。
机の上には、面談資料が揃えられていた。保護者面談は終わっているらしい。だが、その中で何を話したのか、江口にはほとんど記憶がなかった。
胃の奥が冷えた。
記憶がない。
眠っていたわけではない。たぶん、話していた。動いていた。教師としての仕事をしていた。
だが、その内容が抜け落ちている。
自分の一部が、自分の知らないところで数時間分を使ってしまったようだった。
「江口先生」
声をかけられ、江口は顔を上げた。
五十嵐だった。
彼は江口の机の前に立っていた。いつもの軽さはなかった。
「昼休み、理科準備室に来ましたよね」
江口は眉を寄せた。
「行ってない」
「来ました」
「何の用で」
「それを聞きたいんです」
五十嵐は机に手をついた。
「先生、何か聞きたそうでした。でも、何を聞きに来たかわからないって」
江口は言葉を失った。
「僕が?」
「はい」
「覚えてない」
「でしょうね」
「でしょうねって」
「様子がおかしかった。目の焦点が合ってなかった。話し方も少し変でした」
五十嵐は一語ずつ確認するように言った。
「『黒い水の中に名前があった』と言いました」
江口の背中に冷たいものが落ちた。
「僕が?」
「はい」
「名前って」
「そこは言いませんでした。言おうとして、やめたように見えました」
江口は机の端を掴んだ。
指先が冷たい。
五十嵐は続けた。
「そのあと、僕が詳しく聞いたら、先生は笑ってごまかしました。で、すぐに職員室へ戻った」
「本当に覚えてない」
「だから危ないんです」
五十嵐の声は抑えられていた。
「先生、本当に大丈夫なんですか?」
江口は黙った。
五十嵐の言っていることは正しい。大丈夫じゃないかもと言えば、帰れと言われる。明日の同窓会にも行くなと言われるかもしれない。
行く必要があるのか、と自分でも思った。
だが、二階堂に会う予定だった。
それだけではない。
昨夜から頭の奥に残っている黒板の名前。内田春斗。何の関係もないはずなのに、同窓会案内を見るたび、その名前が近づいてくる気がする。
慶早。
旧校舎。
黒板。
出席簿。
江口は、そこへ行かなければならない気がしていた。
理由にならない理由だった。
「大丈夫」
江口は言った。五十嵐は一度考え込むようにして「わかりました」と立ち上がった。
五十嵐が離れたあと、江口はしばらく机に座っていた。
職員室の音が遠くなる。
電話のベル。キーボード。紙。椅子。誰かの笑い声。
それらが薄い膜の向こう側にある。
スマートフォンが震えた。
二階堂からだった。
【明日、予定通りでいいか?】
江口は画面を見た。
指が少し震えている。
【予定通り】
短く返す。
すぐに返信が来た。
【病院行ったんだろ。大丈夫なのか】
江口はしばらく考えてから、打った。
【大丈夫】
送信する前に、消した。
もう一度打つ。
【たぶん】
それを送った。
二階堂からの返信は少し間を置いて来た。
【その「たぶん」は大丈夫じゃない時のやつだ】
江口は笑った。
笑ったつもりだった。
だが、喉の奥が詰まって、うまく息が抜けなかった。
【明日、説教だな】
【決定】
短い返事。
江口はスマートフォンを伏せた。
明日。
同窓会。
旧校舎。
黒板。
内田春斗。
名前の意味は分からない。
分からないまま、近づいている気がした。
帰宅する頃には、外は暗くなり始めていた。
金曜日の夕方の街は、少し浮ついている。会社員の足取りも、学生の声も、どこか週末に向かって軽い。江口だけが、その流れから少し外れた場所を歩いているようだった。
夜、江口は同窓会の案内を開いた。
慶早学園記念館開館記念。
六十五回生から七十回生合同同窓会。
懇親会。
旧校舎見学。
宿泊希望者は事前登録。
案内状を閉じようとした時、参加者一覧の下の方に、見慣れない名前があるように見えた。
内田春斗。
江口は紙を掴んだ。
次の瞬間、その名前は消えていた。
そこにあったのは、別の卒業生の名前だった。まったく違う漢字。まったく違う字数。
江口は息を吐いた。
「いい加減にしろ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
その夜も、眠りは浅かった。
夢の中で、江口はまた旧校舎の教室にいた。
黒板の前に立っている。
手には白いチョーク。
教室には誰もいない。
だが、机の一つ一つに、名札だけが置かれていた。
知らない名前がたくさん。
その奥に、もう一つ。
内田春斗。
江口はチョークを落とした。
白い粉が床に散る。
その粉が、虫のように動いた。
目が覚めた時、午前四時だった。
カーテンの外はまだ暗い。
江口は天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
明日、行くべきではない。
そう思った。
だが、行かなければならない。
同じくらい強く、そう思った。
理由は分からない。
ただ、黒板の向こうで誰かが出席を取ろうとしている。
名前を呼ばれないまま消えた誰かが、そこにいる。
そんな気がした。
江口は目を閉じた。
眠れないまま、朝を待った。




