表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身に覚えはありませんか?  作者: 三嶋トウカ
夏:第1便~第3便

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/31

第24話:【第5便】特選ステーキ五種盛り_4


 改めてフォークを握る手に、わずかな緊張が走った。

 皿の上には五種類のステーキが一口ずつ。サーロイン、ヒレ、モモ、カタ、ハラミ。そして、その他。

 どれも少しずつ形が違う。肉の赤、脂の白、焼き色の焦げ茶が小さな丘みたいに並んでいる。

 照明の光が反射して、皿の上だけが小さな劇場のように明るい。


「いただきます」


 深呼吸して、フォークをサーロインに向けた。


 ナイフを入れると、刃がするりと沈む。抵抗がまるでない。

 切り口から、淡い桃色の肉汁がじんわりと滲み出た。湯気の中にバターの香りが混ざる。


「たまんないね……」


 フォークを刺すと、肉がぷるんと揺れた。

 ひと口入れた瞬間、口いっぱいに広がる甘み。脂の層が舌の上でほどけ、塩の粒が音もなく消えていく。


「……すごい」


 言葉にならない。

 肉を噛むたび、じわりと熱が広がる。脂が溶けて、唾液が甘く変わる。飲み込むころには、頬の内側がほんのり温かい。

 喉を通る瞬間、胸の奥が少し震えた。それはまるで、優しい拍動のように。


 ワインをひと口飲んで、舌をリセットする。

 渋みに混じる甘みが、またいい。


 次はヒレ。

 サーロインよりも細くて、やや薄い。フォークで持ち上げると、重さがない。まるで布の切れ端みたいに軽い。けれど、その存在感は抜群だ。


「柔らかそう」


 口に入れると、舌の上で静かに溶けていく。脂よりも、肉の繊維そのものが甘い気がした。何も噛まなくても味が広がる。

 うっかり飲み込んでしまわぬよう、柔らかさを楽しみながら、奥歯で磨り潰す。


「うん、優しい」


 唇からこぼれた言葉が、自分の耳にも柔らかく響いた。どこか懐かしい。

 昔、誰かと食べたことがあるような気がした。カーテンの向こうで笑う声。ワインのグラスが触れ合う音。


「ほら、火加減も時間も、肉によって変えるんだよ」


 記憶のどこかで、そんな声がした。ナイフを持つ手が、少し止まる。


「……もう少しで、思い出せそうなんだけど」


 笑って、ワインをもう一口飲んだ。


 みっつ目はモモ。

 厚みがあり、筋が線になってまっすぐ通っている。切る時に、刃が少しだけ跳ね返った。

 噛んだ瞬間、ぷちっと小さな音がした。弾力があり、咀嚼するたびに力強い味が広がる。赤ワインのような渋みと、血の甘み。


「うん、これもいい」


 頬がほんのり赤くなる。

 口の中が温かくて、身体の奥からじんわりと汗が滲む。噛むたびに、舌の裏に微かな苦味。それが不思議と心地いい。


 「生きている味」という言葉が、ふと頭に浮かぶ。これは、そんな味だ。


 カタは、他のどれよりも小さめだが厚みがある。

 焦げた表面の香りが強く、ナイフを入れた瞬間、香ばしい蒸気が上がる。


「しっかりしてるな」


 ひと口。

 噛んだ瞬間、筋がぎゅっと歯に抵抗する。強い。でも、噛み切った途端、旨味が爆発した。

 塩が際立ち、脂が舌を覆う。


「これも好き!」


 ゆっくり噛んでいるうちに、唾液がどんどん増える。口の中で、肉が形を変えていくような錯覚。

 指で頬のあたりを押さえると、心臓の鼓動と同じリズムで顎が動いていた。


 最後はハラミ。

 見た目からして、他と違う。焼き色が濃く、表面の脂がまだ僅かに泡立っている。

 ナイフを入れると、油が一滴だけ飛んで、手の甲に落ちた。まだ少し熱いけれど、不思議と痛くなかった。


「……匂いが濃いなぁ」


 香りを嗅ぐと、焦げたタレのような匂いと、少し甘い血の香り。肉汁とともに皿の上に垂れる赤色。

 噛むと、弾力の奥で繊維が細かくほどけていく。味が濃い。塩が立ち、脂が舌を包む。


「んー……これ、元気出る」


 身体が熱くなる。

 グラスのワインを飲んでも、口の中の温度が下がらない。飲み込む瞬間、喉の奥にぬるりとした感触。それが熱を引きずって胸の奥に落ちた。


 五種を食べ終えたあと、皿の上には細い油の線がいくつも残った。照明がその線に反射して、淡い金色を描いている。


「こっちも、見てるだけで美味しそう」


 私は次に、その他の部位の皿へ手を付けた。

 脂は思ったよりもさっぱりしていて、舌の上からすぐに消えた。独特の臭みのようなものも感じられたが、思いのほかそれがワインにあう。

 焦げの苦みがくどさを抑え、筋はアクセントになっている。

 薄く張った膜も、ぷつりと歯が入ると、その下に隠していた旨味をここぞとばかりに放つ。

 コリコリした食感も、ぐにゃりと潰れる食感も、ぶつりと千切れる食感も、全部全部楽しくて美味しい。


「あ、もう終わっちゃった?」


 もお腹は満たされているのに、身体の奥がまだまだ欲しがっている感じがした。


『もっと食べたい』


 その思いが、喉の奥でくすぶる。


 箸休めに水を飲み、目を閉じた。

 香りがまだ鼻に残っている。焦げたバターの甘さ、塩の粒の残響、鉄の匂い、脂のとろみ。

 それが全部、ひとつの記憶として溶け合っていた。

 あの人と食べた味。彼の家で、初めて料理をした夜の匂い。ワインをこぼして笑ったこと。


 ――彼は、こだわりを持っていた。そのこだわりに、私はついていけたんだっけ?


 はっとして目を開けると、グラスに残ったワインが僅かに揺れた気がした。お酒のせいかもしれない。

 深呼吸をして、部屋を見渡す。

 テーブルの上には、ステーキの皿と、ワインのグラス。テレビは消えていて、時計の秒針の音がやけに大きい。その音に合わせて、自分の心臓が少し早く打つのを感じた。


「あー……本当に美味しかった」


 小さく呟いて、シンクに皿を重ねる。

 夜はまだ早い。

 今日はたっぷりの肉を食べたからか、まだまだ動けそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ