第24話:【第5便】特選ステーキ五種盛り_4
改めてフォークを握る手に、わずかな緊張が走った。
皿の上には五種類のステーキが一口ずつ。サーロイン、ヒレ、モモ、カタ、ハラミ。そして、その他。
どれも少しずつ形が違う。肉の赤、脂の白、焼き色の焦げ茶が小さな丘みたいに並んでいる。
照明の光が反射して、皿の上だけが小さな劇場のように明るい。
「いただきます」
深呼吸して、フォークをサーロインに向けた。
ナイフを入れると、刃がするりと沈む。抵抗がまるでない。
切り口から、淡い桃色の肉汁がじんわりと滲み出た。湯気の中にバターの香りが混ざる。
「たまんないね……」
フォークを刺すと、肉がぷるんと揺れた。
ひと口入れた瞬間、口いっぱいに広がる甘み。脂の層が舌の上でほどけ、塩の粒が音もなく消えていく。
「……すごい」
言葉にならない。
肉を噛むたび、じわりと熱が広がる。脂が溶けて、唾液が甘く変わる。飲み込むころには、頬の内側がほんのり温かい。
喉を通る瞬間、胸の奥が少し震えた。それはまるで、優しい拍動のように。
ワインをひと口飲んで、舌をリセットする。
渋みに混じる甘みが、またいい。
次はヒレ。
サーロインよりも細くて、やや薄い。フォークで持ち上げると、重さがない。まるで布の切れ端みたいに軽い。けれど、その存在感は抜群だ。
「柔らかそう」
口に入れると、舌の上で静かに溶けていく。脂よりも、肉の繊維そのものが甘い気がした。何も噛まなくても味が広がる。
うっかり飲み込んでしまわぬよう、柔らかさを楽しみながら、奥歯で磨り潰す。
「うん、優しい」
唇からこぼれた言葉が、自分の耳にも柔らかく響いた。どこか懐かしい。
昔、誰かと食べたことがあるような気がした。カーテンの向こうで笑う声。ワインのグラスが触れ合う音。
「ほら、火加減も時間も、肉によって変えるんだよ」
記憶のどこかで、そんな声がした。ナイフを持つ手が、少し止まる。
「……もう少しで、思い出せそうなんだけど」
笑って、ワインをもう一口飲んだ。
みっつ目はモモ。
厚みがあり、筋が線になってまっすぐ通っている。切る時に、刃が少しだけ跳ね返った。
噛んだ瞬間、ぷちっと小さな音がした。弾力があり、咀嚼するたびに力強い味が広がる。赤ワインのような渋みと、血の甘み。
「うん、これもいい」
頬がほんのり赤くなる。
口の中が温かくて、身体の奥からじんわりと汗が滲む。噛むたびに、舌の裏に微かな苦味。それが不思議と心地いい。
「生きている味」という言葉が、ふと頭に浮かぶ。これは、そんな味だ。
カタは、他のどれよりも小さめだが厚みがある。
焦げた表面の香りが強く、ナイフを入れた瞬間、香ばしい蒸気が上がる。
「しっかりしてるな」
ひと口。
噛んだ瞬間、筋がぎゅっと歯に抵抗する。強い。でも、噛み切った途端、旨味が爆発した。
塩が際立ち、脂が舌を覆う。
「これも好き!」
ゆっくり噛んでいるうちに、唾液がどんどん増える。口の中で、肉が形を変えていくような錯覚。
指で頬のあたりを押さえると、心臓の鼓動と同じリズムで顎が動いていた。
最後はハラミ。
見た目からして、他と違う。焼き色が濃く、表面の脂がまだ僅かに泡立っている。
ナイフを入れると、油が一滴だけ飛んで、手の甲に落ちた。まだ少し熱いけれど、不思議と痛くなかった。
「……匂いが濃いなぁ」
香りを嗅ぐと、焦げたタレのような匂いと、少し甘い血の香り。肉汁とともに皿の上に垂れる赤色。
噛むと、弾力の奥で繊維が細かくほどけていく。味が濃い。塩が立ち、脂が舌を包む。
「んー……これ、元気出る」
身体が熱くなる。
グラスのワインを飲んでも、口の中の温度が下がらない。飲み込む瞬間、喉の奥にぬるりとした感触。それが熱を引きずって胸の奥に落ちた。
五種を食べ終えたあと、皿の上には細い油の線がいくつも残った。照明がその線に反射して、淡い金色を描いている。
「こっちも、見てるだけで美味しそう」
私は次に、その他の部位の皿へ手を付けた。
脂は思ったよりもさっぱりしていて、舌の上からすぐに消えた。独特の臭みのようなものも感じられたが、思いのほかそれがワインにあう。
焦げの苦みがくどさを抑え、筋はアクセントになっている。
薄く張った膜も、ぷつりと歯が入ると、その下に隠していた旨味をここぞとばかりに放つ。
コリコリした食感も、ぐにゃりと潰れる食感も、ぶつりと千切れる食感も、全部全部楽しくて美味しい。
「あ、もう終わっちゃった?」
もお腹は満たされているのに、身体の奥がまだまだ欲しがっている感じがした。
『もっと食べたい』
その思いが、喉の奥でくすぶる。
箸休めに水を飲み、目を閉じた。
香りがまだ鼻に残っている。焦げたバターの甘さ、塩の粒の残響、鉄の匂い、脂のとろみ。
それが全部、ひとつの記憶として溶け合っていた。
あの人と食べた味。彼の家で、初めて料理をした夜の匂い。ワインをこぼして笑ったこと。
――彼は、こだわりを持っていた。そのこだわりに、私はついていけたんだっけ?
はっとして目を開けると、グラスに残ったワインが僅かに揺れた気がした。お酒のせいかもしれない。
深呼吸をして、部屋を見渡す。
テーブルの上には、ステーキの皿と、ワインのグラス。テレビは消えていて、時計の秒針の音がやけに大きい。その音に合わせて、自分の心臓が少し早く打つのを感じた。
「あー……本当に美味しかった」
小さく呟いて、シンクに皿を重ねる。
夜はまだ早い。
今日はたっぷりの肉を食べたからか、まだまだ動けそうだった。




