第23話:【第5便】特選ステーキ五種盛り_3
キッチンの照明を少しだけ落とす。白い光が柔らかくなり、まな板の上の肉が穏やかに赤く見えた。
今日の晩餐に選んだのは、おまけと呼ぶには勿体ないパック――特選カットステーキ試食用。
透明なトレーの中に、数種類の肉が整然と並んでいる。色も形も少しずつ違う。他のパックの詰め合わせだと初めは思ったが、形や色味、質感の違う肉も混じっていた。少なくて、朱対ごとにパッキングできない部位も入っているのだろう。
……それが、逆に特別感があっていい。
サーロインは霜が細かく、ヒレは桜色、モモは繊維が真っすぐ、カタは厚みがあって、ハラミは赤が濃い。
他のパッキングを見て覚えた。同じものも入っている。それだけで高級な試食会のようだった。
「ちょっとずつ味見できるの、嬉しいな」
声に出すと、冷気の中で白い息がふっと散った。肉はまだ冷たく、指先に触れると弾力が返ってくる。まるで新鮮な果物みたいに、表面に艶があった。
キッチンタイマーを横に置き、フライパンを火にかける。
オリーブオイルを垂らすと、底に丸い光が広がり、熱で静かに揺れる。温度が上がっていくと、油の表面が波打ち、まるで呼吸しているようだった。
「あ! 脂使うの忘れた! ……今からでも良いのかな、これ」
私は慌てて、サイコロ状の脂身をひとつ、フライパンに転がした。じゅっと音が鳴って、表面に色がついていく。広がるのは、甘い脂の匂い。
少し鉄っぽいのは、くっついていた赤身だろう。
「これこれ。たまらないなぁ」
じゅわじゅわと小さな気泡が立ち、フライパンの温度が上がったことを教えてくれる。
「そろそろいいかな」
フライパンの上に、まずはサーロインを一片。
――じゅっ。
音が鳴った瞬間、私は表情を明るくする。油の中で脂身が透明になり、表面がぷくりと膨らんだ。
「いい音……」
小さく呟く。香ばしい匂いがふわりと立ち上り、試しにバターを一欠け落とすと、音がさらに深くなる。ジュワァ、と甘い音。煙が立ちのぼり、バターと肉の香りが混ざり合って空気を包んだ。
「うーん、多分これがヒレ?」
少し焼き目がついたところで、ヒレを入れる。
サーロインよりも静かな音。トングで軽く押すと、真ん中からやわらかく沈んだ。
「あー、これは柔らかそう」
肉が焼けていく間、指の腹に残った脂がぬるりと光る。その感触すら、なぜか愛おしかった。
フライパンの端にモモを置くと、パチパチと乾いた音が加わった。音の種類が増える。そのぶん、香りも重なる。
ガーリックをほんの少し、スライスして加える。バターの泡と一緒に踊るように揺れた。
カタは厚めなので、少し時間をかけて。裏返すと、焼き目の下に肉汁が滲んでいた。
「これはたまんないね……」
それを見て、私は涎が出そうになった。そのまま飲み込み、ごくりと喉を鳴らす。
最後にハラミを入れると、脂が弾け、火が一瞬だけ高く揺れた。
「あっつ!」
思わず後ろへ下がる。自分の声に驚いて、思わず目を見開いた。
でも、その一瞬すら楽しい。煙が光をかすめ、部屋全体がふんわりとした琥珀色に包まれた。
五種類すべてを並べたフライパンの中は、まるで小さな劇場だった。火が照明で、音が拍手で、香りが観客。私はその真ん中でトングを持ち替えながら、笑っていた。
「残りは、こっちのフライパンに」
中身を追加で入れる。私が、メインの五種だと判断できなかった肉片たち。そもそも、その五種も間違っているかもしれないが、何となく分けたかったのだ。
脂の多くついた部位と、薄い膜の張った部位。それに、小さいが骨のついた部位もある。
呼び名はわからないが、こういう部位は美味しいと聞く。スペアリブだってそうだ。もう、期待しかない。
これらは、折角だから岩塩でいただこう。
「これは明日からが本番だね」
火を止め、焼けた肉を小皿に分ける。フライパンの上に残った油が、まだ微かにじゅくじゅくと鳴っている。私はそれを見ながら、明日以降の段取りを考えた。
「サーロインはワインソースで、ヒレはレモンバター。モモはガーリック、カタは塩だけでいいかも。ハラミは強火で、玉ねぎのソースも良いかもね」
声に出して順番を決める。そのたびに、まるで誰かに相談しているみたいに、少しだけ間を取った。
テーブルに戻り、焼き上がった肉を見下ろす。五種の色が皿の上で並んでいて、それぞれが小さく湯気を立てている。
照明の光で、赤、ピンク、褐色が混ざり合って虹のように見えた。ナイフの刃先が、その表面に反射して細い光を放つ。まるで、そこにまだ鼓動が残っているかのように。
「うん、今日も完璧です、私」
フライパンを流しに置くと、金属の底が僅かな水でじゅっと鳴った。まだ熱が残っている。
じゅわわっとバターと油の香りが立ち上り、まるで部屋の空気に染み込んでいくようだった。
「明日はどれからにしようかな……」
私は考えながら、冷蔵庫の中身を確認する。サーロインはワインに合いそう、ヒレは休日の昼。モモはお弁当に入れてもいい。そんなふうに、これからの一週間の献立を想像するのが楽しくて仕方ない。
しばらく待って、換気扇の音を止めると静けさが戻る。冷めたフライパンの上に、焦げたバターが薄い膜になって残っていた。指でなぞると、少しだけざらりとした感触がまとわりつく。紙で拭き取ると、焦げ跡の下にわずかな赤い筋と白い筋が滲んでいたが、気にも留めずに流した。
グラスに、ソースに使わなかったワインを注ぎ、席につく。
部屋の中はもう、ステーキハウスのような匂いで満たされていた。待ちきれず、お腹がぐぅぅと大きな音を鳴らす。
ただのカットステーキの試食。それが、こんなに楽しいなんて。
「さて、味見、味見」
フォークを手に取る。
火から下ろしても、五種類の肉と破片は皿の上でまだ静かに音を立てている。油の粒が小さく弾けて、光を受けて金色に瞬く。まるで、死に際の瞬きみたいに、ゆっくりと。
「ほんと、上手く焼けたなぁ」
思わず独り言が漏れる。自画自賛。褒められたい人も、褒めてくれる人もいない。
キッチンタイマーの針が一周して止まる音が、小さく響いた。
冷蔵庫のガラス面が白く曇り、その向こうでラップに包まれた五枚の肉が静かに並んでいる。冷気の霧が、それらを眠らせたみたいに見えた。
「いい匂いだなぁ」
思わず笑みがこぼれる。
底に残ったモモサワーを喉に流し込み、空になった缶をシンクへ運ぶ。やっぱり、肉にはモモサワーよりも赤ワインだ。
「明日も頑張ろ」
その言葉がふっと出た。小さな夜のご褒美。
私は皿を見つめ、ナイフを整えた。
照明の光が肉の表面を撫で、きらりと一筋の光が走る。まるで、赤い糸のような細い線。その線がほんの一瞬、動いたように見えたが、私は目を細めて笑うだけだった。
窓の外では風が吹いてる。薄いカーテンがゆらりと揺れ、街の灯りが部屋の壁に映る。
「冷めちゃう前に、食べなきゃね」




