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6/7

第六話 原作の死亡フラグを、定期購読に変えました

 追悼宴は、平穏に終わった。


 誰も喧嘩しなかった。


 一家は追い出されなかった。


 カテリーナは血を吐かなかった。


 原作の地獄イベントが一つ、静かに死んだ。


 私は廊下へ出て、ようやく息を吐いた。


「ソーフィヤ・セミョーノヴナ」


 男が立っていた。


 いつからいたのだろう。


 壁にもたれ、私が出てくるのを待っていたような顔をしている。


 アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ。


 服装はきちんとしている。声も穏やかだ。


 この男を知らなければ、感じのいい紳士だと思ったかもしれない。


 知っている。


 妻を鞭打ったという話。屋敷の使用人が死んだという話。幼い娘にまとわりつく噂。


 どこまでが本当で、どこからが悪評なのか、私には確かめられない。


 ただ、原作を読んでいる間じゅう、この男の親切については違和感があった。


 人を助ける。


 人を傷つける。


 その二つを、同じ手でやる。


「昨夜、ラスコーリニコフ君から秘密を聞いたとおっしゃっていましたね」


「嘘です」


「…………」


「あなたを呼ぶために言いました」


 スヴィドリガイロフは笑った。


 怒らない。


 そこが嫌だった。


「私を呼んで、どうするおつもりで?」


「三千ルーブルください」


「これはまた」


 彼は私の肩越しに、追悼宴の部屋を見た。


「ご家族も、なかなかお金がかかりそうだ」


 視線はすぐに戻ってきた。


 それだけなのに、ポーレチカたちの顔を見られた気がした。


 私はパラソルを握り直す。


「代金です」


「何を売ってくださる?」


「あなたの知らない話を」


 男の目が細くなった。


「私は、この世界の人間ではありません」


「なるほど」


「あなたの人生を、本で読みました」


「それは便利だ。では、私は何ページで死ぬのです?」


 冗談めかした声だった。


 私は答えなかった。


 代わりに、男の顔を見た。


「亡くなった奥様を、ご覧になりましたね」


 スヴィドリガイロフの笑みは動かない。


「マルファさんです。部屋に現れて、時計のねじを巻いた」


 廊下の奥で皿の重なる音がした。


 彼はそちらを見ない。


「ラスコーリニコフ君から聞きましたかな」


「いいえ」


「では、屋敷の者から?」


「それを話した相手を、あなたは何人思い浮かべられますか」


 初めて、返事がなかった。


「まだあります。十六歳にもならない娘との婚約。あれも、ドゥーニャさんに聞かせますか」


「お嬢さん」


 声が低くなった。


 止めろ、と言っている。


 私は止めなかった。


「いずれあなたは、『アメリカへ行く』と言います」


 男の指先が、上着の釦に触れた。


「そのとき、あなたを見張る男はアキレスと呼ばれています。高い塔の前です」


「…………」


「あなたはそこへ行く」


 さっきまで浮かんでいた笑みが、消えていた。


 怖い。


 でも、この男も今、私を怖がっている。


 原作の外にいる人間が、自分の終わりを知っている。


 私だってそんな相手に会いたくない。


「ずいぶん熱心に、私の人生をお読みになったようだ」


「知りたくなくても、そこに書いてありました」


 私は息を吸った。


 ここから先は、事実の暗記ではない。


 外せば、この男を怒らせる。


「あなたは、お金にも、女にも、酒にも飽きている」


「三千ルーブルを要求しながら言いますか」


「あなたには、もう買えないものがあるからです」


「ほう」


「善いことをしても、悪いことをしても、何も残らない。だから次は、もっと強いものを試す」


 彼の目が、私から離れなくなった。


「ドゥーニャさんも、そうでしょう」


「彼女の話はしていませんよ」


「あなたが欲しいのは、あの人を自分のものにすることだけじゃありません」


 私は言った。


「あの人に拒まれれば、まだ自分に何かを感じる力が残っていると思える。もし受け入れられたら、今度こそ別の人間になれるかもしれない。どちらにしても、あの人を使うつもりでしょう」


「…………」


「無理です」


 彼はゆっくりと笑った。


 顔だけで。


「ずいぶんな言い方ですな」


「はい」


「私の最後まで知っていて、わざわざ呼び出した」


「はい」


「それで、三千ルーブル?」


「はい」


 スヴィドリガイロフは黙った。


 私も黙る。


 隣の部屋から、カテリーナの笑い声が聞こえた。


 今朝、生きているだけでよかったと思った声だ。


「お嬢さん。あなたが言う筋書きでは、私はその金をどうするのです」


「最後に、私へ無償で渡します」


「では、今は渡さずにおきましょう」


「……え?」


「それだけで、あなたの本は間違いになる」


 しまった。


 自由意志を刺激したら、三千ルーブルを失いかけた。


「待ってください。今なら特典がつきます」


「特典」


「未来の話を百話」


 彼が少しだけ眉を上げた。


「人間が空を飛ぶ話。帝政ロシアが消える話。二度の世界大戦。人間が月へ行く話」


「月へ?」


「手のひらに収まる板で、世界中の人間が罵り合う話もあります」


「それは便利なのですか?」


「人類もよく分かっていません」


 スヴィドリガイロフが、ふっと息を漏らした。


 ようやく普通に笑った。


 いや、この人の普通が何なのかは知らないけど。


「退屈は、しなさそうですな」


「週に一話ずつです」


「百週?」


「長く楽しめます」


「ずいぶん商売上手だ」


 そんなことはない。


 さっきから膝が震えている。


「条件があります」


 私は指を折った。


「三千ルーブルは前払い。面会は昼間、第三者のいる場所で。ドゥーニャさんには近づかない。私と家族にも触れない」


「ずいぶん多い」


「あなたが買うのは、未来の話です」


「あなたではない?」


「私は売りません」


 スヴィドリガイロフは、私のパラソルを見た。


 それから、追悼宴の部屋を見る。


「……分かりました」


「本当に?」


「ええ。最初の話を聞くまでは、約束を守りましょう」


 それ、初回限定の契約になってない?


「百話です」


「まずは一話」


 勝ったのか。


 まだ分からない。


 でも、彼が再び歩き出すまで、私はパラソルから手を離さなかった。


◇


 翌日、スヴィドリガイロフは金を持ってきた。


 ラズミーヒンに同席してもらい、その場で数えた。


 三千ルーブル。


 原作では、家族が死に、殺人犯についてシベリアへ行くためにもらう金だった。


 今回は違う。


 カテリーナは生きている。


 ポーレチカたちも、家にいる。


 私は札束を見下ろした。


 これは、私が自分の知識を売って稼いだ金だ。


 ただし。


 スヴィドリガイロフは、もう次の話を待っている。


 私は人生で初めて、退屈した変態地主に更新を催促される身になった。


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― 新着の感想 ―
スリルとサスペンスがあった。 三千ルーブルもらえたのに負けた気がする。
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