最終話 シベリアには行きません
三千ルーブルを手に入れた。
これで勝った。
そう思った。
甘かった。
◇
まず、石鹸を作ろうとした。
すでにあった。
蒸気機関はどうだろう。
もっと前からあった。
しかも私には作れない。
未来の歌なら売れるかもしれない。
歌詞は覚えていた。曲も、頭の中では鳴る。
楽譜が書けなかった。
ラララ、と歌って聞かせたら、ポーレチカが喜んだ。
以上。
追悼宴がうまくいったので、宴会の準備を請け負おうともした。
「娼婦に客の料理を触らせるのか」
最初の家で断られた。
現代知識無双。
思ったより、無双しない。
お金はまだある。
でも、医者を呼び、家賃を払い、子供たちの服を買えば減っていく。
三千ルーブルは大金だ。
それでも、何もしなければ、いつかなくなる。
「何かないかな……」
私は机に突っ伏した。
目の前に、白い布があった。
父の追悼宴で、ポーレチカたちにつけた襟。
安い布で作ったのに、きちんとした服に見えた。
あのとき実際に、うまくいったもの。
「……これか」
◇
「カテリーナ・イワーノヴナ」
「何です、ソーニャ」
「女学校を開きましょう」
「まあ!」
カテリーナが椅子から立ち上がった。
「やはりあなたも、私の計画を――」
「ただし、最初は生徒ではなく、働く女性を集めます」
「…………」
「制服用の襟を縫います」
「それは女学校ではありません!」
「職業訓練校です」
「まあ……!」
立ち直りが早い。
同じ下宿の仕立屋さんに頭を下げ、襟と袖口の作り方を教わった。
厚紙で型紙を作る。
大きさは三種類。
裁断する人、縫う人、仕上げる人を分ける。
近所の女性にも仕事を頼んだ。
これならいける。
そう思った。
同じ型紙で作ったはずなのに、最初の十二枚は大きさがばらばらだった。
三枚しか売れなかった。
カテリーナは「良家の娘が身につける品に、これでは寂しい」と勝手に高いレースをつけた。
利益が消えた。
さらに、布を預けた一人が戻ってこなかった。
「…………」
人間、型紙どおりに動いてくれない。
私は作業場で頭を抱えた。
カテリーナも落ち込んでいた。
「やはり、こんな仕事では女学校とは呼べませんわね」
「まだ、十二枚作っただけです」
私は売れ残った襟を並べた。
大きさが違う。縫い目も曲がっている。
どこを直せばいいか、ちゃんと見える。
「次は、布を切る人を一人にします。縫ったものも、渡す前に測ります」
「レースは?」
「注文があったときだけ」
「……そうね」
次の週は、十枚売れた。
その次は、五十枚。
大成功、というほどではない。
でも、売れた分を数えて、次に買う布の量を決められるようになった。
ぼちぼちだ。
私には、それが嬉しかった。
◇
ラスコーリニコフが来たのは、襟を百枚納める前日だった。
作業場にしている部屋の入口で、ひどい顔をして立っていた。
顔色が悪いのはいつものことだ。
今日は、それとは違う。
「話がある」
「手短にお願いします」
私は糸を結んだ。
「老婆とリザヴェータを殺したのは、僕だ」
針が止まった。
知っていた。
最初に会ったときから。
でも、本人の口から聞くと、胸の奥が冷えた。
「知っています」
「……何を言っている」
「知っていました」
ラスコーリニコフが私を見た。
いつもの理屈は出てこなかった。
私は針を置く。
「警察に行きましょう」
「君は、何も聞かないのか」
「聞きたいことはあります」
どうしてリザヴェータまで殺したのか。
二人のことを、今どう思っているのか。
でも、その答えを聞くために、自首を先延ばしにはしたくなかった。
「歩きながら聞きます」
◇
センナヤ広場には、人が大勢いた。
ラスコーリニコフは立ち止まる。
私は隣で待った。
「……何をすればいい」
「警察署に行くんです」
「その前に」
ああ。
原作の、あれか。
「大地に口づけするんですか」
ラスコーリニコフが驚いた顔をした。
「なぜそれを」
「いいから。するなら早くしてください」
「ここで?」
「自分で言い出したんでしょう」
彼は広場を見回した。
通行人が横を通り過ぎる。
なかなか膝をつかない。
「人が見ている」
「でしょうね」
「君は、もう少し――」
「明日、襟を百枚納めるんです」
ラスコーリニコフは、私を見た。
私はパラソルの先で地面を示した。
「やるなら、今です」
「……君は本当に」
そこで言葉を切り、彼は膝をついた。
地面に口づけする。
通りかかった男が何か叫んだ。
ラスコーリニコフは顔を上げた。
泣いてはいなかった。
晴れやかな顔でもなかった。
それでいいと思った。
これで何かが帳消しになるわけではない。
「行きましょう」
私は警察署の方へ歩いた。
彼もついてきた。
入口の前で、ラスコーリニコフが足を止める。
「君は、僕についてきてくれるのか?」
「警察署までなら」
「その先は?」
「行きません」
「なぜ」
「明日、襟を百枚納めるので」
「…………」
「終わったら、カテリーナの薬も取りに行きます」
彼は何か言おうとして、やめた。
私は扉を見る。
「ここからは、ご自分で」
ラスコーリニコフは、一人で中へ入った。
◇
それから、いろいろあった。
カテリーナは医者に診てもらい、休むようになった。
もちろん、じっと休んではいない。
作業台の横から、襟の出来を厳しく見ている。
でも、原作で死んだ日は、無事に過ぎた。
ポーレチカたちは学校へ通い始めた。
内職を頼んでいた女性たちは、やがて同じ部屋で仕事をするようになった。
小さな縫製作業場だ。
看板に「女学校」と書こうとするカテリーナを止めるのに、三日かかった。
黄色い札を返す手続きにも時間がかかった。
返せた日、私はそのまま帰宅して、翌日の注文を確認した。
スヴィドリガイロフは週に一度、未来の話を聞きに来た。
昼間。第三者同席。
その約束は守らせている。
三千ルーブルは、作業場の利益から少しずつ返し始めた。
「原作では無償だとおっしゃったのに」
彼は面白がった。
「返したほうが、私の気分がいいので」
資産が三千ルーブルを超えたころ、私はようやく少しだけ安心した。
ラスコーリニコフから、手紙が来ることもある。
返事は、出したり出さなかったりだ。
今日も机の上に一通ある。
その隣には、来週納める襟の注文書。
私は注文書を先に開いた。
まだ、やることがある。
私の人生は、原作の続きではない。
シベリアには行きません。
『罪と罰』を読み返していて、「ラスコーリニコフ、よく考えるとかなり失礼じゃない?」と思ったのが始まりでした。
毒親はいるし、婚約者は罠を仕掛けてくるし、生活は苦しいし……ソーニャって、意外と転生ヒロインっぽいのでは? そんな思いつきから生まれたお話です。
ソーニャの物語は、ここで一区切りです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
※古典を題材にした別の短編として、ジッド『狭き門』に着想を得たコメディ”『狭すぎた門』の令嬢を、多神教教祖ババ様が救済します”も書きました。ご興味があれば、そちらものぞいていただけるとうれしいです。




