↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/7

最終話 シベリアには行きません

 三千ルーブルを手に入れた。


 これで勝った。


 そう思った。


 甘かった。


◇


 まず、石鹸を作ろうとした。


 すでにあった。


 蒸気機関はどうだろう。


 もっと前からあった。


 しかも私には作れない。


 未来の歌なら売れるかもしれない。


 歌詞は覚えていた。曲も、頭の中では鳴る。


 楽譜が書けなかった。


 ラララ、と歌って聞かせたら、ポーレチカが喜んだ。


 以上。


 追悼宴がうまくいったので、宴会の準備を請け負おうともした。


「娼婦に客の料理を触らせるのか」


 最初の家で断られた。


 現代知識無双。


 思ったより、無双しない。


 お金はまだある。


 でも、医者を呼び、家賃を払い、子供たちの服を買えば減っていく。


 三千ルーブルは大金だ。


 それでも、何もしなければ、いつかなくなる。


「何かないかな……」


 私は机に突っ伏した。


 目の前に、白い布があった。


 父の追悼宴で、ポーレチカたちにつけた襟。


 安い布で作ったのに、きちんとした服に見えた。


 あのとき実際に、うまくいったもの。


「……これか」


◇


「カテリーナ・イワーノヴナ」


「何です、ソーニャ」


「女学校を開きましょう」


「まあ!」


 カテリーナが椅子から立ち上がった。


「やはりあなたも、私の計画を――」


「ただし、最初は生徒ではなく、働く女性を集めます」


「…………」


「制服用の襟を縫います」


「それは女学校ではありません!」


「職業訓練校です」


「まあ……!」


 立ち直りが早い。


 同じ下宿の仕立屋さんに頭を下げ、襟と袖口の作り方を教わった。


 厚紙で型紙を作る。


 大きさは三種類。


 裁断する人、縫う人、仕上げる人を分ける。


 近所の女性にも仕事を頼んだ。


 これならいける。


 そう思った。


 同じ型紙で作ったはずなのに、最初の十二枚は大きさがばらばらだった。


 三枚しか売れなかった。


 カテリーナは「良家の娘が身につける品に、これでは寂しい」と勝手に高いレースをつけた。


 利益が消えた。


 さらに、布を預けた一人が戻ってこなかった。


「…………」


 人間、型紙どおりに動いてくれない。


 私は作業場で頭を抱えた。


 カテリーナも落ち込んでいた。


「やはり、こんな仕事では女学校とは呼べませんわね」


「まだ、十二枚作っただけです」


 私は売れ残った襟を並べた。


 大きさが違う。縫い目も曲がっている。


 どこを直せばいいか、ちゃんと見える。


「次は、布を切る人を一人にします。縫ったものも、渡す前に測ります」


「レースは?」


「注文があったときだけ」


「……そうね」


 次の週は、十枚売れた。


 その次は、五十枚。


 大成功、というほどではない。


 でも、売れた分を数えて、次に買う布の量を決められるようになった。


 ぼちぼちだ。


 私には、それが嬉しかった。


◇


 ラスコーリニコフが来たのは、襟を百枚納める前日だった。


 作業場にしている部屋の入口で、ひどい顔をして立っていた。


 顔色が悪いのはいつものことだ。


 今日は、それとは違う。


「話がある」


「手短にお願いします」


 私は糸を結んだ。


「老婆とリザヴェータを殺したのは、僕だ」


 針が止まった。


 知っていた。


 最初に会ったときから。


 でも、本人の口から聞くと、胸の奥が冷えた。


「知っています」


「……何を言っている」


「知っていました」


 ラスコーリニコフが私を見た。


 いつもの理屈は出てこなかった。


 私は針を置く。


「警察に行きましょう」


「君は、何も聞かないのか」


「聞きたいことはあります」


 どうしてリザヴェータまで殺したのか。


 二人のことを、今どう思っているのか。


 でも、その答えを聞くために、自首を先延ばしにはしたくなかった。


「歩きながら聞きます」


◇


 センナヤ広場には、人が大勢いた。


 ラスコーリニコフは立ち止まる。


 私は隣で待った。


「……何をすればいい」


「警察署に行くんです」


「その前に」


 ああ。


 原作の、あれか。


「大地に口づけするんですか」


 ラスコーリニコフが驚いた顔をした。


「なぜそれを」


「いいから。するなら早くしてください」


「ここで?」


「自分で言い出したんでしょう」


 彼は広場を見回した。


 通行人が横を通り過ぎる。


 なかなか膝をつかない。


「人が見ている」


「でしょうね」


「君は、もう少し――」


「明日、襟を百枚納めるんです」


 ラスコーリニコフは、私を見た。


 私はパラソルの先で地面を示した。


「やるなら、今です」


「……君は本当に」


 そこで言葉を切り、彼は膝をついた。


 地面に口づけする。


 通りかかった男が何か叫んだ。


 ラスコーリニコフは顔を上げた。


 泣いてはいなかった。


 晴れやかな顔でもなかった。


 それでいいと思った。


 これで何かが帳消しになるわけではない。


「行きましょう」


 私は警察署の方へ歩いた。


 彼もついてきた。


 入口の前で、ラスコーリニコフが足を止める。


「君は、僕についてきてくれるのか?」


「警察署までなら」


「その先は?」


「行きません」


「なぜ」


「明日、襟を百枚納めるので」


「…………」


「終わったら、カテリーナの薬も取りに行きます」


 彼は何か言おうとして、やめた。


 私は扉を見る。


「ここからは、ご自分で」


 ラスコーリニコフは、一人で中へ入った。


◇


 それから、いろいろあった。


 カテリーナは医者に診てもらい、休むようになった。


 もちろん、じっと休んではいない。


 作業台の横から、襟の出来を厳しく見ている。


 でも、原作で死んだ日は、無事に過ぎた。


 ポーレチカたちは学校へ通い始めた。


 内職を頼んでいた女性たちは、やがて同じ部屋で仕事をするようになった。


 小さな縫製作業場だ。


 看板に「女学校」と書こうとするカテリーナを止めるのに、三日かかった。


 黄色い札を返す手続きにも時間がかかった。


 返せた日、私はそのまま帰宅して、翌日の注文を確認した。


 スヴィドリガイロフは週に一度、未来の話を聞きに来た。


 昼間。第三者同席。


 その約束は守らせている。


 三千ルーブルは、作業場の利益から少しずつ返し始めた。


「原作では無償だとおっしゃったのに」


 彼は面白がった。


「返したほうが、私の気分がいいので」


 資産が三千ルーブルを超えたころ、私はようやく少しだけ安心した。


 ラスコーリニコフから、手紙が来ることもある。


 返事は、出したり出さなかったりだ。


 今日も机の上に一通ある。


 その隣には、来週納める襟の注文書。


 私は注文書を先に開いた。


 まだ、やることがある。


 私の人生は、原作の続きではない。


 シベリアには行きません。


『罪と罰』を読み返していて、「ラスコーリニコフ、よく考えるとかなり失礼じゃない?」と思ったのが始まりでした。


毒親はいるし、婚約者は罠を仕掛けてくるし、生活は苦しいし……ソーニャって、意外と転生ヒロインっぽいのでは? そんな思いつきから生まれたお話です。


ソーニャの物語は、ここで一区切りです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!


※古典を題材にした別の短編として、ジッド『狭き門』に着想を得たコメディ”『狭すぎた門』の令嬢を、多神教教祖ババ様が救済します”も書きました。ご興味があれば、そちらものぞいていただけるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
完結おめでとうございます。 ソーニャがたくましいのが嬉しいです。 カテママまるめこまれててかわいい。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。