第五話 殺人犯とクズ婚約者をまとめて殴ります
「あなたは昨日、ロジオン・ロマーノヴィチと二人でお会いになったそうですね」
「はい」
「そして、少々揉めたとか」
「誰から聞いたんですか」
「それは重要ではありません」
重要だよ。
ルージンは答えを待たずに続けた。
「彼はあなたのご家族に二十ルーブルを与え、その翌日、あなたを一人で訪ねた」
「……はい」
「あなたが彼を打ったのなら、それなりの理由があったのでしょう?」
「まあ……腹が立ったので」
ルージンの目が、わずかに細くなった。
今、頭の中で私の使い道を決めたな。
「では、その理由を皆さんにもお話ししてはいかがです?」
「皆さんに?」
「誤解のないよう、あなた自身の口から」
優しい言い方だった。
私が何を話すか、もう決めている人の声でもあった。
ラスコーリニコフは娼婦に金を渡し、翌日には一人で会いに行き、何かをして殴られた。
事実だけ並べれば、あとは聞いた人間が勝手に汚してくれる。
「分かりました」
私は頷いた。
「追悼宴でお話しします」
ルージンは満足そうに微笑んだ。
◇
会場の前にはラズミーヒンが立っていた。
招待客を確認し、知らない住人が入ろうとすると丁寧に断っている。
本当にいい人だな、この人。
中へ入ると、布をかけたテーブルに、欠けていない食器が並んでいた。料理の匂いがして、サモワールから湯気が立っている。
ポーレチカたちはお揃いの白い襟をつけて、皿を運んでいた。
客は少ない。
酔っぱらいも、寝巻きのおっさんも、誰だか分からないおっさんもいない。
追悼宴が、ちゃんと追悼宴をしている。
私は心の中で小さく拳を握った。
「ご覧なさい、アマーリア・リュドヴィゴヴナ」
カテリーナが、大家に向かって微笑んでいた。
「きちんとした方々をお招きすれば、こういう席になるんですのよ」
「…………」
「この下宿におりますと、どうしても付き合う人間の程度まで下がってしまいますでしょう?」
アマーリアの口元が引きつった。
私は拳をほどいた。
早い。もう埋めてる。
「アンドレイ・セミョーノヴィチにも、もちろん声はかけましたのよ」
カテリーナが空席を見た。
「以前どれほど無礼なことをされたとしても、こういう席に私情を持ち込まないのが教養ある人間というものですから。もっとも、先方にはその教養がなかったようですけれど」
だから地雷を埋めるなって。
やがてカテリーナは立ち上がり、父のことを語り始めた。
酒に溺れたが、善良な人だった。自分が厳しくしたのも、これ以上飲ませたくなかったからだ、と。
そこまではよかった。
次に父親から授かった賞状を取り出し、良家の娘であることを証明した。年金が入ればT市で良家の娘のための寄宿学校を開くのだという。
私は家事一切を取り仕切るらしい。
初耳である。
アマーリアが何か言いかけたところで、扉が開いた。
ルージンとレベジャートニコフだった。
「遅くなりまして」
ルージンは丁寧に頭を下げた。
その目が私を捉える。
さあ、約束の時間だ。
そう言っているようだった。
席についてからも、彼はすぐには切り出さなかった。料理が回り、カテリーナの演説が終わり、皆がようやく落ち着いた頃を選んだ。
「ところで、ソーフィヤ・セミョーノヴナ」
穏やかな声が、テーブルを横切った。
「先ほどのお話を、皆さんにもなさってはいかがです?」
プルヘーリヤさんが顔を上げた。
ドゥーニャさんも、兄と私を見比べる。
ルージンは微笑んでいた。
私が話せばラスコーリニコフが傷つく。黙れば、何か言えない事情があるように見える。
よくできている。
私は立ち上がった。
「ラスコーリニコフさんは、父が亡くなった夜、私たちに二十ルーブルくださいました」
プルヘーリヤさんが頷いた。
「翌日には、私の部屋へ一人でいらっしゃいました」
その頷きが止まる。
ルージンは私を見つめていた。
「そこで、神様を信じているのか、と聞かれました」
ラスコーリニコフが顔を伏せた。
「聖書を読んでほしいとも言われました。それから突然、私の足元に跪いて、足に口づけしようとしたんです」
サモワールの小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「……それで、あなたは?」
ルージンが続きを促す。
私は彼を見た。
「気持ち悪かったので殴りました」
ドゥーニャさんが、兄から一歩離れた。
プルヘーリヤさんの唇が動いたが、声は出なかった。
ラスコーリニコフは壁を見た。
壁は何もしてくれない。
「それは……」
ルージンの笑みが揺れた。
思っていた方向へは進んでいる。ただし、勢いが強すぎたらしい。
「ずいぶん奇妙なお話ですな。ですが、私が懸念したのは――」
「二十ルーブルのことですよね」
私は先に言った。
「あれは父の葬儀と、病気の母と、幼い子供たちのためのお金です。私個人がいただいたものではありません」
「私は金の使途に異議を唱えているわけではありません」
「では、どうして奥様へのお手紙には、私に渡したかのように書いたんですか?」
プルヘーリヤさんの視線が、ルージンへ向いた。
彼はまだ笑っていた。口元だけで。
「私の書いたことに虚偽はありません。彼が金を渡し、翌日あなたを訪ねたのは事実でしょう。どう受け取るかまで、私の責任にはできませんな」
「ええ。事実だけなら、私も今夜は嘘をついていません」
私はラスコーリニコフを見た。
彼はまだ壁を見ていた。
「でも、事実をどう並べるかは、書いた人が選べますよね」
「言葉尻を捉えているだけです」
「父の葬儀に使ったお金を、娼婦に渡したお金のように読ませるのは、言葉尻ですか?」
ルージンの指が、膝の上で動いた。
「私はご家族を案じて知らせたのです。礼を期待しているわけではありませんが、悪意があったように言われる筋合いもない」
「私も最初は、そう思おうとしました」
彼の目を見た。
「さっき、あなたに話すまでは」
笑みが消えた。
「あなたは、私がラスコーリニコフさんを打ったと聞いて、理由を確かめるより先に、皆の前で話すよう勧めました」
「誤解を解くためです」
「私が何を話すか、ご存じなかったのに?」
「だからこそ、あなた自身の口から――」
「では、今ので誤解は解けましたか?」
ルージンは答えなかった。
私の話でラスコーリニコフの評判はひどいことになった。そこは否定できない。
でも、ルージンが望んでいた疑いとは違う。
彼は私を見ていた。
さっきまで手の内にあった駒が、勝手に盤の上を歩き出したような顔で。
「ソーフィヤ・セミョーノヴナ」
声が低くなった。
「あなたは、この方に恩がある。かばいたくなる気持ちは分かります。しかし、皆さんの前で私を貶めれば、彼への疑いが消えるとでも?」
「消えないでしょうね」
「ならば、何のためにこんな話を」
「あなたが私に話せと言ったからです」
「そのような意味では――」
「そのような意味、とは?」
ルージンが言葉を止めた。
何を期待していたかを説明すれば、策略を認めることになる。
「僕も聞いていました」
レベジャートニコフが口を挟んだ。
ルージンが勢いよく振り向く。
「アンドレイ・セミョーノヴィチ」
「彼女に言いましたよね。あなたもラスコーリニコフを快く思っていないのだろう、皆の前で話せばいい、と」
「私の言葉を切り取らないでいただきたい」
「ほかにもありましたっけ?」
「彼女の名誉を案じて――」
「では、彼女にまず何があったか聞けばよかったでしょう」
レベジャートニコフは、心底つまらないものを見る目をしていた。
「僕はあなたの考え方には賛成しませんが、もう少し堂々とした人だと思っていました」
ルージンの顔から血の気が引いた。
次に彼が見たのは、ドゥーニャさんだった。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。あなたならお分かりでしょう。私はあなたとお母様を守るために――」
「もう、おやめください」
「しかし、私は――」
「聞きたくありません」
ドゥーニャさんは椅子から立ち上がった。
怒鳴りもしない。問い詰めもしない。
ただ、ルージンを見ていた。
言い訳を聞く価値もない、という顔で。
ルージンは口を開き、閉じた。
ここにいても、もう味方は増えない。それだけは分かったらしい。
「……失礼します」
帽子を取り、出口へ向かう。
「ピョートル・ペトローヴィチ」
私は呼び止めた。
彼が振り返る。
私はポケットから十ルーブル札を取り出した。
渡すのかと、ルージンの目が一瞬だけ札へ落ちる。
「他人に外套を半分与えるより、まず自分を愛せ。あなたのお考えでしたよね」
「それが何か」
「素晴らしい教えだと思います」
私は札を、彼に見えるようにポケットへ戻した。
「私も自分の利益を考えることにしました。あなたに利用されても、一ルーブルにもなりませんもの」
ドゥーニャさんの眉が、ほんの少し動いた。
ルージンは何か言い返そうとした。
でも、彼の後ろには開いた扉があり、部屋じゅうの人間がこちらを見ている。
彼は帽子をかぶり、出ていった。
扉が閉まる。
勝った。
十ルーブルも守った。
なんて有意義な追悼宴だろう。
「ソーニャさん」
ドゥーニャさんに呼ばれた。
「ありがとうございました」
「いえ」
その向こうで、ただラスコーリニコフだけが、じっと壁を見ていた。
私はそっと、パラソルを椅子の下へ隠した。




