第四話 百ルーブルの罠が来ません
意外なことに、翌朝になっても隣の部屋からは何の働きかけもなかった。
昨日の、あの物音。
本当にスヴィドリガイロフだったのだろうか。
原作でも、あの男は行動が読めない。
何もしてこない。
だから余計に怖い。
◇
朝、家族そろって葬儀場へ向かった。
私が着いたころには、カテリーナとポーリャたちはもう来ていた。
少し早すぎたくらいだ。まだ時間はある。
だから、最初は何も思わなかった。
十分経った。
誰も来ない。
二十分経った。
誰も来ない。
「平日の朝ですからね」
さらに待った。
誰も来ない。
父の棺。
カテリーナ。
私。
ポーリャ。
コーリャ。
リードチカ。
以上。
広い。
葬儀場が、とても広く感じる。
まずい。
原作を思い出す。
たしか父の葬儀には、ほとんど誰も来なかった。
最後のほうになって、見知らぬポーランド人が一人だけ現れたはずだ。
いや。
見知らぬポーランド人って誰だよ。
なんで来たんだよ。
そう思っていたら、本当に来た。
知らないポーランド人が。
そして、それきりだった。
「…………」
カテリーナが無言になった。
まずい。
非常にまずい。
私は横顔を盗み見る。
頬が赤い。
唇が固く結ばれている。
ときどき入口を見る。
誰も来ない。
また見る。
誰も来ない。
そろそろ「私の父は大佐でしたのよ」が始まる。
次に「身分の低い方には来ていただかなくて結構」。
最後には、来なかった人間全員が敵になる。
終わった。
そう思った、そのときだった。
扉が開いた。
「…………!」
足音がする。一人ではない。
振り返ると、先頭には背の高い若い男、ラズミーヒン。
その後ろからラスコーリニコフ。
さらに、品のいい年配の婦人と、すらりとした若い女性。
プルヘーリヤさんとドゥーニャさん。
部屋の空気が変わった。
明らかに違う。
服が違う。
立ち姿が違う。
「遅くなって申し訳ありません」
ドゥーニャさんが静かに頭を下げた。
「お父様のご冥福をお祈りいたします」
私は恐る恐る、隣を見た。
カテリーナが震えていた。
四人を見る。
葬儀場を見る。
見知らぬポーランド人を見る。
また四人を見る。
「お母さん?」
あ。
復活した。
震えているのは、悲しいからではない。
歓喜だ。
見ろ。
見なさい。
これが客よ。
たぶん今、カテリーナの頭の中ではオーケストラが鳴っている。
テノール歌手が何かものすごい高音で歌っている。
夜明けが来る。
私は勝つ。
勝つのよ――!
「まあ……!」
カテリーナが立ち上がった。
さっきまで死にかけていた人間とは思えない速度だった。
「まあ、まあ! よくいらしてくださいました!」
声が一オクターブ高い。
「こちら、ラスコーリニコフさんのお母様と、妹君です」
「まあ! わざわざ主人のために!」
「そして、こちらが――」
「ラズミーヒンです」
「まあ! ご学友!」
情報が一つ増えるたびに、カテリーナの背筋が伸びていく。
大学に籍を置いていた青年が二人。
品のある婦人。
美しい令嬢。
四名追加。
たぶん父が生き返っても、ここまでは喜ばない。
「こちらのロジオン・ロマーノヴィチには、主人の最期にも大変よくしていただきまして!」
始まった。
「これほどお若いのに、実に高潔で、慈悲深く、教養に富み――」
ラスコーリニコフが死にそうな顔をした。
悪口より効いてる。
ラズミーヒンは口元を押さえていた。
笑うな。いや、気持ちは分かるけど。
プルヘーリヤさんだけは、ちょっと嬉しそうだった。
◇
葬儀が終わるころには、カテリーナは完全復活していた。
その勢いで、四人全員を追悼宴に誘う。
故人と面識がない?
関係ない。
主人も立派な方々に送っていただければ喜ぶ。ぜひ。ぜひとも。
「では……少しだけ」
ドゥーニャさんが折れた。
プルヘーリヤさんも来る。ラズミーヒンも来る。
ラズミーヒン。
お前は絶対、ドゥーニャさんについて行きたいだけだろ。
そしてラスコーリニコフまで黙っている。
おい、止めろよ。
このあと何が起きるか知っているのは、私だけなのだ。
◇
追悼宴の会場へ戻る途中。
「ソーフィヤ・セミョーノヴナ」
呼び止められて、振り返る。
きちんとした身なりの男が立っていた。
ピョートル・ペトローヴィチ・ルージン。
来た。
ドゥーニャさんの元婚約者。破談になったばかりで、ラスコーリニコフを猛烈に憎んでいる男である。
「少し、お時間をいただけますか」
◇
部屋には、ルージンの同居人レベジャートニコフもいた。
新しい思想や社会制度について語るのが大好きな、意識の高い青年である。
対するルージンの思想は簡単だ。
他人に外套を半分やるより、まず自分を愛せ。
みんなが自分の利益を追求すれば、社会も豊かになる。
そこまではいい。
問題は、結婚までそれで選ぶところだ。
貧しい女を救って妻にすれば、一生感謝して逆らわない。
つまり――
自分に一生感謝してくれる嫁が欲しい。
あ。
妙な既視感。
この人、ドストエフスキー作品の登場人物だと思ってたけど。
普通に悪役令嬢もののクズ婚約者だ。
「まず、本日の追善の席についてですが」
ルージンが言った。
「所用がありまして、始めから伺うことはできません。間に合えば、後ほど顔を出しましょう」
…………待て。私、こいつ呼んでないぞ。
「それから、これはわずかですが」
十ルーブル札が差し出された。
「ありがとうございます」
来た。
ここまでは原作通り。
問題はここからだ。
原作では、このあとルージンが私のポケットへ百ルーブル札を忍ばせる。そして追悼宴で「百ルーブル盗まれた!」と騒ぐ。
だが、レベジャートニコフが全部見ていて冤罪は失敗する。
その後、百ルーブル札がどうなったのかは、原作ではよく分からない。
私は微笑んだ。
さあ来い。
百ルーブル。
入れろ。
知らないふりしてやる。
ルージンが立ち上がった。
来た!
…………。
来ない。
「ところで、ソーフィヤ・セミョーノヴナ」
「はい」
「ロジオン・ロマーノヴィチについて、個人的にお話ししたいことがあります」
「私と?」
「ええ。ここでは少々、話しにくいので」
私はルージンを見た。
自分のポケットを見た。
十ルーブルしか入っていない。
百ルーブルは?
私の百ルーブルイベントは?
どうやら今回は、別の手でラスコーリニコフを陥れるつもりらしい。




