第二話 四十八時間後に継母が死にます
私はベッドに腰掛けたまま、頭を抱えた。
『罪と罰』における、あまりにも都合のいい救済措置。
スヴィドリガイロフ。
三千ルーブル。
終盤になって突然現れる変態地主が、ポンと渡してくれる大金である。
あの男は、ラスコーリニコフを経由して現れる。
そのラスコーリニコフを。
私はさっき。
パラソルで叩き出した。
「終わった……」
三千ルーブルへの導線を、自分で殴って切ってしまった。
いや、待て。
原作を思い出せ。
今はどこだ。
父が馬車に轢かれて死んだ。
ラスコーリニコフが二十ルーブルを置いていった。
そのあと私の部屋に来て――。
「あ」
私は顔を上げた。
もっとまずい。
「追悼宴だ」
◇
マルメラードフ追悼宴。
『罪と罰』でも屈指の地獄イベントである。
まず、葬儀にはほとんど人が来ない。
当然である。
継母のカテリーナはプライドが高くて沸点が低い。
父は飲んだくれ。
私は娼婦。
社会的信用が一家そろって壊滅している。
なのに追悼宴は開く。
しかも貧乏なのに、結構な金をかける。
そして集まる。
酔っぱらい。
酒目当てでついてきた、よく知らないポーランド人たち。
油でとろとろになったフロックを着た、ニキビだらけで嫌な臭いのする男。
寝巻きみたいな格好で来るやつ。
なぜかアパートの住人ですらないやつ。
一方、カテリーナが来てほしかった「ちゃんとした人たち」は来ない。
当然、機嫌は最悪。
そこへ私がやってきて、娼婦だと馬鹿にされる。
さらにラスコーリニコフの妹の婚約者が、百ルーブル札をこっそり私のポケットへ入れて、
「この女が盗みました」
とやる。
何その十九世紀ロシア版いじめ。
幸い冤罪は晴れる。
しかし宴は完全崩壊。
大家のアマーリアとカテリーナが大喧嘩して、一家は追い出される。
そこからカテリーナは、
「私たちはこんな仕打ちを受けた! 誰か何とかしなさい!」
と、頼れそうな人間のところを駆け回る。
夫の元上司が将軍と会食中だと聞けば、そこにも突撃する。
当然、摘まみ出される。
すると今度は世間そのものにキレる。
怯える幼い子供たちに道化じみた格好をさせ、通りで歌わせ、踊らせ、物乞いをさせる。
そして最後には病状が悪化して、血を吐いて――。
死ぬ。
「…………」
現代知識無双とか言ってる場合じゃない。
四十八時間くらいで死亡フラグが渋滞してる。
◇
カテリーナ・イワーノヴナ。
私の継母。
三十歳くらい。結核。子供が三人。
そして、ものすごくプライドが高い。
父親は軍人で、本人いわく立派な家の出身。
教育も受けており、女学校時代に県知事の前で踊ったという人生最大の栄光を、事あるごとにこすっている。
人の評価も忙しい。
親切にされれば、あることないこと恥ずかしいくらい褒める。
少しでも気に入らないことがあれば、人間のクズみたいに怒鳴りつける。
ラスコーリニコフとは違う方向で、めちゃくちゃ面倒くさい。
しかも原作のソーニャが身体を売ることになったとき、
そんなに大事にして、純潔が何になるのか。
そんなことまで言っている。
「毒親じゃん……」
そのくせ娘が本当に身体を売って帰ってきたら、泣いて足にキスして、一晩中抱きしめる。
どういう情緒をしているんだ。
原作を読んでいたころなら、
面倒くさい人だなあ。
で済んだ。
だが今は、その娘が私である。
「絶対、距離置いたほうがいいタイプじゃん……」
そう思う。
なのに。
頭の中に、最後のカテリーナが浮かんだ。
痩せ細った身体。
血に染まった口元。
その周りで泣く、まだ幼い三人の子供たち。
「…………」
ものすごく面倒くさい。
でも、死んでほしいわけじゃない。
◇
問題は金だった。
手元には、ラスコーリニコフが置いていった二十ルーブル。
でも、これはカテリーナの金だ。
そして原作では、このうち十ルーブルほどを追悼宴に使う。
中止させる?
無理。
節約を説得する?
もっと無理。
この人にとって追悼宴は、
同じアパートに住む忌々しい連中に、
私は本来、こんなところで暮らす人間ではない。
お前たちとは育ちが違う。
しきたりも、客のもてなし方も知っている。
それを見せつけるための舞台なのだ。
原作知識があるから分かる。
この人には、正論で説得したら負ける。
なら。
◇
「カテリーナ・イワーノヴナ」
「何です、ソーニャ」
「お父さんの追悼宴、せっかくなら盛大にしましょう」
「……盛大に?」
「はい。お父さんの最後の宴ですから」
目が輝いた。
「そうでしょう! 私もそう思っていたんです! こういうときこそ、人間の育ちというものが――」
「だから、私に任せてください」
「あなたに?」
「買い出しも料理も招待客も。実際の手配は全部、私がやります」
「でも、あなたはこういう席の作法を知らないでしょう?」
「だからです」
私は真剣な顔を作った。
「主役はカテリーナ・イワーノヴナです。細かい雑用なんかしてる場合じゃありません」
「まあ……」
「ちゃんとした家の追悼宴がどういうものか、全体を指示してください」
そして、とどめ。
「女学校で県知事閣下の前でも踊った、カテリーナ・イワーノヴナに」
「まあ!」
効いた。
ものすごく効いた。
「実を言えば、細かい手配はアマーリア・リュドヴィゴヴナに任せようと思っていたのですけれど……」
「ご冗談でしょう? あの人、あなたをまともな下宿人より下みたいに扱ってたじゃありませんか」
「そうなのよ!」
カテリーナの目が、かっと見開かれた。
「あの無作法な女! 私が父のことを話すたび、嘘でもついているような顔をするのよ! 自分だって父親が立派だったと吹聴しているくせに!」
あんたもだよ。
「どうせあの女の父親なんて、酔っ払いのフィンランド人か何かで、牛乳でも売っていたに決まっているわ!」
急に偏見が三つくらい乗った。
「ソーニャ!」
突然、両肩をつかまれた。
「あなたは分かっていたのね!」
「は、はい」
「やはりあなたは私の娘です!」
急上昇しすぎだろ。
「任せます! あなたなら安心です!」
「ありがとうございます。では予算は十ルーブルほど――」
「十五ルーブル使いなさい!」
「はい、十五ルーブルですね」
…………。
増えてんじゃねえか。
節約するために主導権を奪ったのに、原作より五ルーブル増えた。
まあいい。
このあと私は、ラスコーリニコフの妹の婚約者から十ルーブルもらえる。
なお、その直後に百ルーブル窃盗の冤罪をかけられる。
本当にこの小説、イベント報酬に罠つけるの好きだな。
◇
次の地雷。
葬儀に、誰も来ない。
せめて一人。
カテリーナが「こんな立派な方も来てくださいました」と言える人間が必要だ。
「…………」
一人いた。
ものすごく会いたくない。
昨日、二度と来るなと言った。
パラソルで何度も殴った。
でも、原作では来る。
私は壁に立てかけてあったパラソルを手に取った。
念のためである。
「行くか……」
ラスコーリニコフを。
父の葬儀に誘いに。




