転生したら、『罪と罰』のソーニャでした ~娼婦ルートはお断りなので、現代知識で成り上がります。ラスコーリニコフ? 絶対滅します~
※『罪と罰』未読でも大丈夫です。必要な原作情報は作中でだいたい説明します。
原作既読の方は、ラスコーリニコフの面倒くささも含めてお楽しみください。
目を覚ますと、知らない男がいた。
近い。
ものすごく近い。
「…………」
男が、私を見下ろしている。
酒臭い。
部屋は狭く、薄暗い。壁紙は剥がれ、窓の外からは知らない街のざわめきが聞こえていた。
そして私は、ベッドの上にいる。
男もいる。
逃げ道は、男の向こう。
なるほど。
状況はだいたい理解した。
「…………まずくない?」
男が何か言った。
聞き取れない。
いや、言葉そのものは分かる。
ロシア語だ。
なぜ分かる。
そんな疑問を考えている場合ではなかった。
私は死んだはずだ。
そこまでは覚えている。
死因はもう、ぼんやりしていた。
女神にも会っていない。
神様からスキルももらっていない。
トラックもたぶん関係ない。
ただ死んで――。
目を覚ましたら、知らない男とベッドの上にいた。
「転生先、最悪では?」
男が手を伸ばしてきた。
「ちょ、待って」
反射的にその手を払う。
男の顔が険しくなった。
これはまずい。
ものすごくまずい。
何がどうなっているのか分からないが、このままでは転生初日にもう一度死ぬ可能性がある。
私は男の脇をすり抜けた。
腕を掴まれる。
「離して!」
思い切り足を踏む。
男が怯んだ。
その隙に扉へ走る。
廊下。
階段。
外。
背後から怒鳴り声が聞こえたが、振り返らなかった。
とにかく走った。
走って。
走って。
人通りのある場所まで来て、ようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
生きてる。
転生して十分くらいだけど、もう帰りたい。
いや、どこに帰ればいいんだ。
そこでようやく、私は周囲を見た。
石造りの建物。
舗装の悪い道。
馬車。
古めかしい服装の人々。
遠くには教会の尖塔。
「…………ロシア?」
しかも、どう見ても現代ではない。
十九世紀くらい?
嫌な予感がした。
私は自分の服を見る。
安っぽい、派手な服。
頭には妙な帽子。
手には小さなパラソル。
「…………」
待って。
この格好。
ロシア。
十九世紀。
娼婦。
パラソル。
いやいやいや。
そんな偶然――。
「ソーフィヤ・セミョーノヴナ!」
突然、呼び止められた。
心臓が止まりそうになった。
振り返る。
知らない少年が、息を切らして立っていた。
「お父さんが……! セミョーン・ザハールイチが……!」
少年は必死に何かを説明している。
馬車に轢かれた。
血だらけ。
家へ運ばれた。
もう危ない。
早く来てくれ。
頭の中で、いくつもの単語がつながった。
ソーフィヤ・セミョーノヴナ。
父親。
酒飲み。
馬車に轢かれる。
娼婦。
黄色い札。
「…………嘘でしょ」
私は呟いた。
知っている。
この話を知っている。
「私……ソーニャ?」
『罪と罰』の?
◇
父は死んだ。
正確には、私が駆けつけたときにはまだ生きていた。
でも、長くはなかった。
馬車に轢かれ、血まみれになった父――マルメラードフは、家族に囲まれて息を引き取った。
泣き叫ぶ子供たち。
取り乱すカテリーナ・イワーノヴナ。
私は呆然と立っていた。
記憶がある。
この人たちを知っている。
カテリーナ。
ポーレチカ。
コーリャ。
リードチカ。
私の家族だ。
いや。
ソーニャの家族だ。
でも、顔を見ると胸が痛んだ。
たぶん、この身体に残っているものなのだろう。
そして。
部屋の隅に、一人の青年がいた。
痩せている。
顔色が悪い。
目つきが妙に鋭い。
服もひどい。
なのに、なぜか人を見下しているような雰囲気がある。
ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ。
「…………」
いた。
主人公だ。
いや。
殺人犯だ。
この男は金貸しの老婆を斧で殺す。
ついでに、偶然帰ってきた妹のリザヴェータまで殺す。
本人には本人なりの理屈がある。
人間には、法律に従って生きる「凡人」と、世界を変えるためなら法律を踏み越えることを許される「非凡人」がいるのではないか。
ナポレオンが大量の人間を死なせても英雄と呼ばれるなら、偉大な目的のための犠牲は許されるのではないか。
そして――。
自分は、踏み越えられる人間なのか。
それを確かめるために、実際に老婆を斧で殺した。
端的に言う。
やばいやつだ。
思想実験を斧でやるな。
しかも、なんか上から目線でムカつく。
そして信じられないことに。
原作のソーニャは――。
こいつを好きになる。
「…………正気?」
「何か?」
「いえ」
自分に言ったんです。
私は原作の自分に早くも幻滅していた。
ラスコーリニコフは帰り際、自分の持っていた金を置いていった。
二十ルーブル。
私はそれを見る。
「…………二十ルーブル」
大金だ。
少なくとも、今の私たちにとっては。
「いい人……?」
いや。
老婆を殺してる。
危ない。
金で好感度を上げようとするな。
◇
問題は、ここからだった。
私は娼婦である。
しかも正式に登録された娼婦。
いわゆる「黄色い札」を持っている。
つまり、普通の娘として働いて普通に生活する道から、ほとんど弾き出されている。
そして父は、今死んだ。
残ったのは、病気のカテリーナと三人の子供。
「…………詰んでない?」
私は二十ルーブルを前にして考えた。
この時代、コペイカ単位の金で食べ物を買う。
数ルーブルでも生活を左右する。
売春で客を取って、1ルーブルいかないくらい。
二十ルーブルは大金だ。
だが、永遠にはもたない。
私はこれまで、自分の身体を売って家族を養っていた。
しかも、それを続ければいいという話でもない。
病気。
妊娠。
暴力。
最悪の場合、死ぬ。
さっき実際に危なかった。
「無理無理無理無理」
現代日本人にはハードルが高すぎる。
かといって、普通に就職しようにも黄色い札が邪魔をする。
社会保障?
そんなものは期待できない。
教会に逃げる?
黄色い札持ちには厳しいし、入るのにまとまった金がかかる。
それに、家族四人を養ってくれるわけではない。
「どうすりゃいいの……」
私は頭を抱えた。
そこで。
ふと思い出した。
「…………待てよ」
金。
このあと、金が入る。
しかも、とんでもない額が。
「三千ルーブル……!」
スヴィドリガイロフ。
アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ。
裕福な地主階級の男。
ラスコーリニコフの妹ドゥーニャが家庭教師をしていた家の主人で、彼女に執着している。
何を考えているのかよく分からない。
妙に気前がいい。
そして変態。
かなり危険な変態。
だが、そいつが最終的にソーニャへ三千ルーブルを渡す。
「三千……!」
私は震えた。
今、目の前にある二十ルーブルですら大金。
その百五十倍。
勝った。
原作知識チートだ。
スキルも魔法もないけど、私には『罪と罰』の知識がある。
あとは原作イベントを無難にこなして、スヴィドリガイロフから三千ルーブルを受け取る。
それまで生き延びればいい。
「いける……!」
希望が見えてきた。
ただし。
「そこまで私、もつかな……」
だいぶ先だった気がする。
◇
翌日。
ラスコーリニコフが来た。
「…………」
私は扉の前に立つ青年を見て固まった。
あ。
これ、覚えてる。
原作の重要イベントだ。
ラスコーリニコフは部屋へ入ってきた。
相変わらず顔色が悪い。
そして、とんでもなく面倒くさい会話が始まる。
「カテリーナ・イワーノヴナは長くないだろう」
「…………」
始まった。
「君一人で、あの家族をいつまで支えられる?」
「なんとかします」
「もし君が病気になったら?」
「ならないよう努力します」
「それで済む問題ではない」
ああ。
うざい。
原作を読んでいたときも面倒な男だと思っていた。
実際に自分が相手すると、三倍くらいうざい。
でも我慢。
三千ルーブル。
三千ルーブル。
三千ルーブル。
ものすごく嫌な予感がする。
「ポーレチカだって――」
ラスコーリニコフが言った。
「このままなら、いずれ君と同じ道を歩むことになるかもしれない」
「…………」
私は顔を上げた。
「今、なんて?」
ラスコーリニコフがこちらを見る。
「現実を言っているんだ。ポーレチカも――」
「聞こえてます」
私は笑顔で答えた。
落ち着け。
原作イベントだ。
この男は今、精神的にかなり追い詰められている。
殺人を犯した罪悪感と、自分は非凡人ではなかったという敗北感と、自己正当化がぐちゃぐちゃになっている。
だからソーニャを、自分と同じ「一線を越えた人間」として見ようとしている。
理屈は分かる。
文学的にも重要な場面だ。
でも。
うちの妹を勝手に娼婦にするな。
「そして、神など――」
ラスコーリニコフが言った。
「いないかもしれない」
「…………」
お前。
この状況でそれ言う?
ソーニャの最後の精神的支柱だぞ。
原作知識のある私は分かる。
ここからだ。
確かこいつ、突然――。
ラスコーリニコフが立ち上がった。
そして私の前に跪いた。
「え」
足に口づけされた。
「ぎゃあああああああ!?」
私は飛び退いた。
「な、何するんですか!?」
「君に跪いたのではない」
ラスコーリニコフは真顔だった。
「人類すべての苦しみに跪いたのだ」
「知らんがな!」
思わず素で返した。
怖い。
この人怖い。
いきなり足にキスしておいて、人類とか言い出した。
「君もまた、大罪人だ」
「なんで!?」
「君は自分自身を犠牲にした。自分を殺したも同然だ」
「家族養ってただけなんですけど!?」
何なんだこいつ。
全部自分の思想に取り込もうとするな。
「ソーニャ。聖書を」
「嫌です」
「ラザロの復活を読んでくれ」
「自分で読んでください」
「読んでくれ」
「嫌です」
ラスコーリニコフがこちらを見る。
私も見る。
沈黙。
机の上に聖書がある。
その横に。
パラソルがある。
私はパラソルを手に取った。
「…………何を?」
「帰ってください」
「明日、また来る」
「来ないでください」
「リザヴェータを殺したのが誰なのか――」
バシッ。
「…………」
パラソルがラスコーリニコフの肩に当たった。
「帰って」
「ソーニャ、君は――」
バシッ。
「帰って」
「だが――」
バシッ。
「帰れ!」
殺人犯は帰った。
◇
「…………はぁ」
扉を閉める。
鍵をかける。
念のため椅子も置いた。
「やっと出ていった……」
疲れた。
原作主人公、想像以上に面倒くさい。
あんなのとシベリアまでついていく原作ソーニャ、どういう精神構造してるんだ。
「…………」
そこで。
私は重要なことに気づいた。
スヴィドリガイロフ。
三千ルーブル。
あいつは、どうやってソーニャと関わるんだっけ。
確か――。
ラスコーリニコフの妹、ドゥーニャに執着していて。
ラスコーリニコフを追って。
それでソーニャの隣の部屋にいて。
ラスコーリニコフとソーニャの会話を盗み聞きして……。
「…………」
私は閉めたばかりの扉を見る。
ラスコーリニコフはもういない。
「…………あれ?」
冷や汗が出てきた。
私。
今。
もしかして。
三千ルーブルにつながる重要イベントを――。
「…………」
パラソルを見る。
「私、なんかやっちゃいました?」
転生二日目。
原作ルートが壊れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『罪と罰』を読み返していたら、
「現代人がソーニャだったら、ラスコーリニコフに耐えられるのだろうか」
と思って書きました。
たぶん耐えられませんでした。
続くかどうかは、ソーニャとラスコーリニコフ次第です。
(あと三千ルーブル)




