第35話 王妃の出産
王妃の出産の報せが届いたのは、初雪の降った翌朝。
「無事、お世継ぎが生まれられたとのことだよ」
早馬で届いた報せに、薬草園全体がほっと胸を撫で下ろす空気に包まれた。
「何よりです」
「ああ。……だが、これで気を抜くにはまだ早いようだね」
ベルタは続く書状に目を通しながら呟いた。
「産後の肥立ちのための、滋養の良い食事の選定について薬草園の知見を借りたい、との勅命だ。表向きはごく通常の依頼ということになっているが……本当のところは、あんたたちの調べ事と無関係ではないだろうさ」
ベルタはそう言って、書状をミリィアとアシュレイに向けて差し出す。
「久しぶりにあたし自身にもお呼びがかかったよ。今回はあたしも同行する」
「ベルタ様も」
「ああ。……当時はあたしもそれなりに宮廷で意見を求められる立場だったからだろうな」
改めて、ベルタが単なる辺境の薬草園の長ではなく、かつては宮廷の内側にいた中心人物なのだと実感させられる瞬間だった。
こうして、ミリィアとアシュレイは、ベルタと共に再び王都へと向かうことになった。
王宮に到着した一行は、以前とは違う一角。
王妃の離宮とは別の、こぢんまりとした離宮の一室に滞在先をあてがわれた。
「ここは」
「俺の私室がこの離宮にあるんだ。……近くに、君たちの部屋を用意させた」
アシュレイがそう説明する。
「王弟としての正式な立場を得た以上、もう身分を偽って市井に紛れる必要はない。少なくとも、この滞在の間はな」
与えられた部屋は、以前泊まった部屋よりもはるかに豪奢な造りで、しかもアシュレイの私室からは目と鼻の先である。
「随分と近い場所ですね」
「何か不都合でもあるか?」
「いえ、そういうわけでは……」
アシュレイの、逃げ道を塞ぐような静かな眼差し。
彼から漂う微かな香木の匂いに包まれ、ミリィアは鼓動がわずかに早まるのを感じた。
何となく居心地の悪さを感じながらも、それ以上は深く追及しなかった。
★
滋養食の選定作業は、思いのほか順調に進んだ。
陽の射し込む仮初の執務室には、古紙の乾いた匂いと、ミリィアたちが持ち込んだ薬草の青い香りが満ちている。
ベルタの豊富な知識とミリィアの緻密な分析が組み合わさることで、産後の体を労わるための献立が、乾いた羊皮紙の上に次々と形になっていく。
「さすがは師匠の目利きですね」
作業の合間、書物の埃を払いながら姿を見せたジオーグが、ベルタに向けて声をかけた。
「よく言うよ。あんたも随分と腕を上げたじゃないか」
「師匠に比べれば、まだまだです」
気安いやり取り。
ふわりと綻ぶジオーグの目元には、二人の間にある長年の師弟関係の確かな温かさが感じ取れる。
だが同時に、ミリィアの胸の奥には冷たい氷の欠片が刺さったままだ。
先日ベルタから聞かされた『ジオーグがアシュレイの母の担当医だった事実』や、セイレイン家との繋がりが、嫌でも頭の片隅から離れない。
「ジオーグ殿」
作業が一段落した頃、ミリィアは、それとなく話を切り出した。
「宮廷医師団に加わられた経緯について、伺ってもよろしいでしょうか」
その問いに、ジオーグは少し意外そうな顔をした。
「今更、そんなことを」
「単に興味がありまして。随分とご苦労もあったと伺いましたので」
「まあ、確かに苦労はしましたね」
ジオーグは、窓枠に溜まった冬の陽だまりに懐かしむように目を細めた。
「私の生家は、それほど身分の高い家ではありませんでした。宮廷医師団に加わるにはそれなりの後ろ盾が必要で。当時、世話になっていたセイレイン家の口利きで、ようやく道が開けたのです。……もう、随分と昔の話です」
セイレイン家。
その名を本人の口からあっさりと聞かされたことに、ミリィアは内心で僅かに動揺した。
指先が微かに冷たくなるのを自覚しながら、それを表には出さず相槌を打つ。
「今も、そのご恩義は」
「さて、どうでしょうね」
ジオーグは曖昧に笑う。
乾いた紙が擦れるような、静かな笑い声だった。
「昔のことです。今更、何かを義理立てするような立場でもありませんが」
返答にこれといった不自然さは感じられない。
彼の表情のどこにも、嘘をついているような陰りは見えなかった。
だが、ミリィアの心の底には、払拭しきれない黒い澱のような引っかかりが沈殿したままだ。
(本当に、それだけの関係なのでしょうか)
執務室のひんやりとした空気の中で、彼女はその答えをまだ掴みきれずにいた。
西日が深く差し込む離宮の渡り廊下は、しんとした静寂に包まれていた。
冷たい石畳の上を歩くミリィアの耳に、規則正しい足音が近づいてくる。
角を曲がって姿を現したのは、アシュレイだった。
「お疲れ様です」
「ミリィアもな」
短い労いの言葉を交わし、二人並んで歩き出す。
窓枠から切り取られた茜色の光が、歩みを進める彼らの足元に長く濃い影を落とし、隣のアシュレイからは上質な生地の衣擦れの音が、静謐な廊下に微かに響く。
王弟としての威儀を隠す必要がなくなった彼の所作には、血筋がもたらす生来の気高さがごく自然に滲み出ていた。
「こうして隠さずにいると、随分と楽なものだ」
アシュレイが、窓外の黄昏色をした空に視線を向けながら漏らす。
「窮屈ではなかったのですか」
「窮屈だったよ。だが、それに慣れることもある種の処世術だったから」
吐き出された息は、冬の冷気を孕んで白く淡く輪郭を成し、すぐに消えた。
斜光に照らされた彼の横顔を、ミリィアは隣を歩きながらそっと見上げる。
整った目鼻立ちに落ちる影の深さが、彼の抱える孤独や重責を雄弁に物語っているように見えた。
(この人の本当の姿を、まだ私はすべて知らないのかもしれません)
どこか遠くへ行ってしまいそうな錯覚。
けれど、彼から漂う微かな香木の匂い、薬草の青々しい匂いが隣で混じり合う時。
この数ヶ月隣で過ごしてきた時間そのものは確かに本物だったのだと、ミリィアは改めて実感する。
「アシュレイ様」
「どうした?」
「いえ。お疲れのようでしたので」
その気遣いに、アシュレイは歩みを緩め、振り返って口元を綻ばせた。
王族としての完璧な仮面が外れ、あの辺境の温室で見せていた柔らかで温度のある笑みが戻る。
「君も、あまり無理はしないでくれ」
二人の距離は、以前よりも確かに近い。
だがその物理的な近さの分だけ、まだ明かされていない謎という分厚い闇の重さも、夕暮れの廊下で二人の間に横たわっている。
★
王妃への正式な拝謁は、以前よりもずっと穏やかな空気の中で行われた。
「よく来てくれました」
寝台の傍らに横たわる王妃は、産後の疲れを滲ませながらも、その顔には確かな安堵と喜びが浮かんでいた。
傍らの揺り籠には、小さな産着に包まれた赤子がすやすやと眠っている。
「姫様でいらっしゃるとか」
「ええ。……随分と元気な産声を上げてくれたのですよ」
王妃は愛おしそうに、揺り籠へと目をやった。
「貴女たちが整えてくれた食事のおかげもあってか、思っていたよりも随分と体の戻りが早い気がします」
「それは何よりです」
ミリィアはそう応じながらも、いつもの調子で部屋の様子に目を配ることを忘れなかった。
以前とは違い、寝室の窓は適度に開かれ空気が淀んでいない。
厚すぎた寝具も季節に見合った程よい重さのものに替えられている。
強すぎる香も、今は控えめな量に留められていた。
(環境改善の指示、きちんと守られているようですね)
それだけでも以前とは明らかに違う。
だがミリィアの視線はさらに、部屋の隅々にまで注意深く向けられていた。
(花瓶――今は何も生けられていません。……蜂蜜も卓上には見当たりませんね)
贈り物として届いていた例の植木鉢も、今はどこにも見当たらない。
ひとまずは目に見える形での「嫌がらせ」は鳴りを潜めているようだった。
「何か、気になることでもありましたか?」
王妃が尋ねると、ミリィアは首を振った。
「いえ。以前より随分と環境が整えられているようで、安心しております」
微笑みで返す王妃の顔に、以前のような翳りのある疲労はもう見られない。
拝謁を終え、離宮の廊下を戻る途中、ミリィアは前方から歩いてくる一団に気づいた。
回廊の向こうから、重苦しい足音とともに現れたのは大臣ゴーシュだった。
今日は見舞いの品らしい包みを、供の者に持たせている。
傍らには、以前と同じように、彼の娘が寄り添うように控えていた。
すれ違いざま、冷たい風が吹き抜けたような錯覚を覚え、ミリィアは娘の様子に思わず目を留める。
以前見た時よりも、その横顔には明らかに濃く、生気のない影が落ちていた。
俯きがちな様子は変わらないが、その俯き方には単なる内気さや恥じらいではない、今にもその場に崩れ落ちそうなほどの深い疲れきった色が滲んでいる。
蝋のように蒼白な肌に、いくらかこけて見える頬。
上質なドレスの衣擦れさえ、彼女には重すぎる枷のように見えた。
「薬草園の。……また会ったな」
立ち止まったゴーシュが低く声をかけてきたが、以前ほどの底知れない余裕は声音からも感じられない。
焦燥感に急き立てられているような、ひどく張り詰めた響きだった。
「王妃様のご出産、おめでとうございます」
「ああ。うん、実に……めでたいことだ」
返答はあまりにも素っ気い。
ゴーシュはそれ以上言葉を交わすこともなく、青ざめた娘を伴って薄暗い離宮の奥へと歩み去っていく。
石畳に反響する足音が遠ざかるのを見送りながら、ミリィアは胸の奥を冷たい手で掴まれたような悪寒を感じていた。
(あの異常なまでの憔悴は、一体……)
「どうした?」
隣に立つアシュレイが、ミリィアの険しい横顔を覗き込んで尋ねる。
「いえ。あのお嬢様の様子が、気になっただけです」
アシュレイは、しばらく黙り込んだ。
彼もまた、その鋭い観察眼で娘の異変を正確に捉えていたのだろう。
「……彼女のあの力が、何らかの形で酷使されているのだとすれば」
「分かってる。君が考えているのは、本人の意思とは関係なく力を使わされているんじゃないか、ってことだろ?」
二人の間に、鉛のように重く冷たい沈黙が落ちた。
(あの娘もまた、大臣の思惑に利用されているだけの『駒』に過ぎないのだとしたら)
権力の盤上で、ただ使い潰されるためだけに生かされている命。
恐ろしい可能性に、ミリィアは単純な敵意だけでは片付けられない、底冷えのするような虚しさと痛みを覚えていた。




