尾坂直樹その1
尾坂直樹その1
改札を通り抜けて島へと入っていく二人の男女の背中を、少し離れたところから尾坂直樹はじっとりとした目で見詰めていた。
ミステリアスな化粧や衣装はしておらず、帽子と眼鏡というお決まりの変装で、かなり雰囲気が異なるも、自分の目は誤魔化せない。彼女が荒野エリナであるのは間違いなかった。
何より、同行している男は、荒野エリナのマネージャーの椎名だ。エリナ本人がいかに巧みに変装しようが、同行のマネージャーが、普段通りであっては意味がない。もっとも、マネージャーについて把握しているなど、熱心なファンでも少数だろう。アニソン歌手としては有名なエリナではあるが、芸能界全体で言えば、未だそこまで知名度があるわけでもないため、ヘリや専用の高速艇ではなく、個室があれど一般の連絡船を使ったのを含めて、まだまだ脇が甘い。
実際、ここまでに、エリナに気付いた者はいないようだった。ライブは明後日で、会場は近いのに、わざわざ一足早く彼女が現地入りしているとは、自分以外のファンは予想もしていないはずだ。その他大勢のウスノロどもは当日になって、ようやくぞろぞろと島にやってくるのだろう。エリナと一緒に現地入りできたのは、自分だけなのだ。
それを実現できたのは、直樹の母親が、エリナが所属している事務所と契約している大手音楽会社の担当部門の部長で、一般では知ることができない彼女に関する情報を逸早く入手できたからである。
短い船旅の間、エリナは個室から出ず、残念ながらその動静は少しも窺い知れなかった。だが、同じ船に乗っただけでも、直樹は格別な気分になれた。これまでにも、直樹はアイドルや声優のおっかけをしていて、ファン交流イベントなどにも参加したことがある。距離感で言えばその時の方がずっと近かったが、エリナはファンとは距離を置いた売り方をしているので、その満足感は比べようもない。道中、船に穴の一つでも空いてくれないかと夢想していた。そうすれば自分は堂々とエリナの元へ駆けつけ手助けができたのに。
エリナとの劇的なロマンスを想像するだけで、意識が違う世界に飛びそうになる。
いけない、いけない。
直樹は弛んだ頬肉を揺らしながら頭を振って、妄想の沼に突っ込みかけた意識を現実に引き戻す。こんなところで悦に浸っている場合ではないのだ。
まだ新人の範疇にあると言っても、それなりに多忙なエリナが海外でもないのに公演日よりも何日も前に現場入りするなどこれまでなかった。ママ情報によれば、内部には観光目的だと伝えているとのことで、ママ自身もそれを疑ってない。
業界の関係者すら知らないエリナの秘密を、自分は知っている。
この事実が、どうしようもなく直樹を更に興奮させる。
きっかけは本当に偶然だった。
数か月前、彼女が出演したアニメイベントと、その後のファンたちのオフ会に、直樹は参加したのだが、その帰りがけの夜の街で、荒野エリナを発見したのだ。最初は他人の空似と思ったものの、直樹はママの伝手でエリナの貴重なプライベート写真を手に入れており、見掛けた少女は雰囲気がよく似ていた。いずれにしろ、一人夜の街を歩く可愛い少女に興味を覚えた直樹が、何となく後を点いてくと、少女はいかにもな店舗もあった雑居ビルに躊躇いもなく入っていった。
これからどうしようか、と直樹がまごついていると、ビルの屋上からロープを使って隣のビルへと渡る人影が目に入った。はっきりとは視認できなかったが、姿形は先程の少女に似ている気がした。
その場でしばらく様子を窺っていると、今度は隣のビルから雑居ビルへと人影が渡った。
それから間もなく、先程の少女が雑居ビルから出てきた。すぐに、人混みで見失ってしまったのだが、一瞬、見えた横顔はやはり荒野エリナだった。
彼女は一体、何をしていたのか。しかも、あの身のこなしはまるで訓練された特殊部隊員のようだった。
悶々としていた直樹に一つの答えを与えたのは、それから数日後のニュースだった。とある新興企業の悪事が発覚したのである。脱税や詐欺行為のみならず、少女を騙して食い物にしたり、反社組織に資金を提供するなどかなりあくどいこともやっていた。
直樹が驚いたのは、悪行よりも、その企業の所在地だった。あの日、エリナと思しき少女が侵入したビルに入っていたのである。
直樹の中で、それまで点だったエリナに関することがどんどんと線で結びついていった。海外育ちとのことだが、詳細はファンどころかママによれば関係者にすら明かしていないこと、エリナの所属する事務所は彼女のデビュー前後に設立した新事務所で、経営者はそれ以前からの業界人だったわけではなく、どこか胡散臭い人物であること、海外での仕事で銃犯罪に遭遇した際にエリナは少しも動じなかったこと、とある歌番組に出演した際にエリナのリハでスタジオのセットが倒れる事故があって、あわや大惨事になりかけたが、エリナは見事に反応して回避し、無傷だったこと、などなど。
アニソン歌手は仮の姿で、荒野エリナの真の姿は、世にのさばる悪と戦う正義の味方なのだ。
直樹の思考は、荒唐無稽なはずの答えへと、あっさり跳躍した。
その結論は、直樹にとってこれまでにない巨大な興奮と喜びをもたらした。エリナの秘密を知ったことは、連帯感と同義となり、それに基づいた未来図はたちまち拡大していった。とっくに成人して、ママに養ってもらうばかりの世間的にはニートと呼ばれる存在の自分だが、異世界転生せずとも生まれ変われるのだ、と。
「エリナ、俺は同志なんだ!」
今すぐにでも、彼女の元へ駆け寄って叫びたい衝動にすら駆られる。
自重だ自重。直樹は再び己に言い聞かせる。
一人自室で感情の赴くまま、匿名掲示板に文字を打ち込み、画面に向けて叫ぶ感覚でいてはいけない。エリナは闇で戦う聖戦士なのだ。邪魔をしてはならない。
今回、彼女が一足早く現地入りしたのも、観光はただの口実で、真の目的があってのことと直樹は睨んでいた。
自分がエリナの同志に相応しいことを証明するには、この島でライブとは別に起こるであろう重大イベントを見事クリアせねばならない。そのために、その目的を把握する必要があった。
ひどく困難な任務だが、自分ならばできるはずだ。強烈な高揚感に包まれた直樹は、荒い息とともに全身の肉をぶるんと震わせた。




