尾坂直樹その3
尾坂直樹その3
物陰に潜んで、尾坂直樹は怒りに全身を震わせていた。
彼の視線の先には、荒野エリナの後姿がある。ホテルから出てきた彼女の後を密かにずっとつけていた。
誰も彼女を荒野エリナと気付いていない。それこそ自分以外は。自分とエリナ、二人だけの秘密の共有であり、それは甘美な時間だった。
ところがだ。
エリナと一緒にいるあの野郎は何なのか。今のエリナは特殊な任務中であると直樹は思っていて、その時を逸る心を抑えて待っていた。
それで、エリナは事故でもあったらしい閉店中のファミレスの前までやってきたところで、モブみたいな男に話しかけたのである。最初、直樹はその男がエリナの協力者と思ったのだが、すぐに異なるとの結論を下した。どう見ても男は高校生くらいのガキにしか見えなかったし、エリナに話しかけられ明らかに戸惑った様子になっていたのである。そこで直樹は思い出した。男は、昨日、エリナと馴れ馴れしていた奴だった。そんな野郎に、どうしたことかエリナの方から話しかけているのだ。しかも、二人して近くの雑居ビルに入っていったではないか。幸い、十数分ほどで出てきたけれども、二人は、そのまま人通りが少ない方向へ歩き出してしまう。
これは一体、どういうことなのか。目にする事態に、直樹は混乱するも、それも数瞬で、すぐに憤激に取って代わった。
あのガキ、調子に乗りやがって。再び制裁を食らわしてやる必要があるようだった。エリナとの関係が気になるが、恐らくエリナには何かしらの目的があり、周囲の目を欺くために偶々、手近にいたあの野郎を利用しているに違いない。きっとそうだ。であれば、エリナの隣にいる役目は自分でいいのではないか。匿名掲示板で自慢するようなクズ野郎より、エリナの正体すらも知っている自分の方がずっと相応しい。
気持ちが固まると、途端に我慢できなくなった。
あのガキに誅罰をくれてやる時だ。
鼻息荒く、直樹が物陰が飛び出した正にその時だった。
「君、ちょっといいかな」
不意に後ろから肩をがっしりと掴まれた。
「なんだよ、俺は重要ミッションを遂行中なんだぞ。邪魔するなっ……!?」
振り向き様に罵声を飛ばしかけて、直樹は絶句した。
二の句が継げないわずかな間に、直樹は通りの物陰に引きずり込まれて壁に押し付けられる。
「お、お前は、エリナのマネージャー……」
その状態になってやっと出た直樹の驚愕の呟きに、椎名は口元に笑みに似たものを浮かべた。
「俺のことなんか知っているのか。光栄と言うべきかな。この業界に入って、まだ日が浅くてね。いやはや、君らのような人種の偏執的熱心さってものを甘く見ていた」
「な、なんだよ、何の用だよ」
「自分でよく分かっているんじゃないのか? 重要なミッションがどうとか言っていたが、どういうことか詳しく教えてもらえるかな?」
「あんたには関係ないだろ。これは俺とエリ……」
獰猛な猪の勢いで直樹は反発しかけたが、見かけによらない腕力で締め上げられ、途端に養豚が喘ぐような悲鳴に変わった。直樹は暴れて抵抗しようとするが、びくともしないどころか、椎名は落ち着いた表情を崩しもしない。
「まともに答える気がないなら、質問を変えようか。君はホテルを出てから、ずっとあの子を尾行しているね?」
「い、言いがかりだ。偶然、行く方向が、偶々、同じなだけで……」
「下手な言い訳はやめた方がいい。彼女たちの様子をずっと窺っていただろ。朝から後を尾けていたのも、それ以前に、こういうことが今日に始まったことでもないのも、こちらは分かっている」
「お、お、俺は全然そういうのじゃなくて……」
「だから、言い訳は結構だ。とりあえず、身元が分かるものを出してくれないか?」
「なんでだよ!? 俺は、何も、何もしてないだろ?」
「この期に及んで、理由を言ってほしいのか? どうしても嫌なら、警察、いや、この島だと保安局だったかな、そちらに対応してもらわないといけなくなるが」
「なんで、なんでだよ…」
「大人しく応じてくれるなら、こちらとしても、徒に騒ぎ立てるもつもりはない」
一切、聞く耳を持とうとしないマネージャーの態度に、腹立たしさが頂点に達した直樹は切り札を使うことにした。
「だから、違うって言ってるだろっ! 俺にこんなことやっていいと思っているのか!? 俺のママはなぁ、お前らの事務所と契約している音楽会社の部長なんだぞ! 俺がママにこのことを言ったら……」
「嘆かわしいな。母親のキャリアを傷つける不肖の息子も、公私混同をする管理職も」
相手が平伏すと期待した直樹の反撃は、椎名に何の動揺も与えなかったばかりか、却って締め上げる力を強めさせる結果を招いただけだった。
骨だが筋だかが軋む苦痛に、直樹は汗どころか涙も出てきた。
「……す……せん」
「なんだって?」
「す、すみません、勘弁してください」
「こちらが求めているのは、謝罪の言葉ではなく、身元が分かるものなんだけどね」
「だ、だ、だから、それを勘弁してくださいって……反省してるんで」
「応じられないな。君がやっているのは、紛れもなくストーカー行為だ。マネージャーとしては、タレントを守らないといけないんだよ。早くしてくれないか。これ以上、痛い思いをするのは嫌だろう?」
このままでは、腕をもぎ取られるのではないか。苦痛と恐怖に、すっかり抗う気力はとっくに霧散した直樹は必死になってポケットをまさぐり、財布ごと差し出した。
財布を受け取った椎名は、やっと直樹を解放して、中身を確認する。
「尾坂直樹君か……」
椎名は、直樹の身分証を携帯で撮影して財布に戻すと、荒い息をして這い蹲る直樹に向かって放り投げた。
「明日のライブにも参加するつもりだったのかな?」
財布をしまう直樹は無言でかくかくと頷いた。
「あくまで一ファンとしての節度を守ってくれるのなら、こちらも、これ以上、何かをするつもりはない。ライブに観客で来るのも拒まないよ」
椎名から見下ろされた上での露骨な線引きは、潮が引いたようだった直樹の心中に再び激しい波を呼び戻させた。
直樹は立ち上がるや、憤激の感情を憎き男にぶつけようとする。
「お、お、俺を、この俺を、こ、こんな扱いして、いい、と思ってるのかっ!? 俺、俺は知ってるんだぞ。エリナの秘密だ。ばれてもいいのか! エリナが……」
最後まで言うより先に、直樹はぞっとするような寒気に襲われた。
椎名が右手を伸ばして直樹の首元を掴んできていた。腕を固めていた時のような強さはなく、ただ触れてきただけであったが、直樹を見据えてくる椎名の雰囲気は、先程までなかった硬質な鋭さがあった。
「お前は、エリナの何を知っているって?」
問いかけの声も、一段と低い。
自分に向けられているものが、何なのかを直樹は本能で悟った。これまで彼がネットや腰の低い店員に向けて、容赦なくぶつけてきた数多の「殺すぞ」を束ねたとしても、到底、太刀打ちできない明確な殺意がそこにあった。
「な、何も……」
「ないわけじゃないだろう? 何か知っていることを、言いたげだったじゃないか」
「た、た、ただの口から出任せです。何も、何も知らないです……」
「本当か?」
「本当に、本当です」
恐怖で掠れそうな声を絞り出して、直樹は繰り返し否定する。
数秒の沈黙の後、椎名はようやく直樹を解放した。
「もし、何かを思い出しても、今後、不用意なことは口走るなよ、尾坂直樹君」
思わせ振りに名前を持ち出されての念押しに、再び這い蹲る形になった直樹は卑屈さと従順さでひたすら応じたが、そこで緊張の糸がぷつりと切れてしまった。
唸りとも喚きともつかない声を上げて、逃げ去り出す。
遁走ならぬ豚走だな。遠ざかっていく無様な姿に椎名は毒づくが、抱いた感情は、侮蔑以外のものもあった。
あの豚が、ファン行為が行き過ぎたただのストーカーではなく、明らかにエリナの正体を知っていた。だから、エリナに歌手活動に支障が出るような余計なことはさせたくないのだ。考えを改めない頑固な組織のお偉方への不満もあるが、それよりも、あいつだ。脅しはしたが、安心はできない。今、この場で殺さなかったことにいくらかの後悔も早々に覚える。ここが学園島でなければ容赦しなかったが、今は突発的な事態を不用意に抱え込む余裕もない。とりあえず身元は抑えてはいるので、数日だけでも、あの豚を静かにさせておくことで納得するしかなかった。
路地の先で、あの男の罵声と、少女の小さな悲鳴が聞こえてきた。
道路上で尻もちをついた少女を、あの豚が見下ろしている。
どうやら出会い頭で人と衝突したらしい。
どこまでの迷惑な奴だ、と思いつつ椎名がその場から立ち去っていると、携帯にエリナが伝言を送ってきた。
「用事は済んだ?」
自分の背後で、何が起こっていたか察していたらしい。歌手デビューして、人に囲まれる状態が増えたせいで、気配を察するのが鈍くなったとぼやいているが、まだまだ大したものだ。歌手として活躍していくには、決して有用ではない技能であるけれど。
「害虫は駆除した」
椎名が簡潔に伝えると、すぐにエリナから返信が来た。
「これからどうればいい? 切り上げる?」
「どっちでもいい。オフと思って、好きに過ごしてくれ」
目的の一つは果たせたし、なんだかんだと言って、忙しい身のエリナである。大事なライブの前に、貴重な休みを与えてやりたかった。
「大事なライブがあるんだ」
椎名は独白すると、エリナとは別の相手に本業のための連絡をした。




