宝樹遥華その1
宝樹遥華その1
自然拡大を終えても、学園島は開発によって領域を拡大させていた。宝樹グループの所有となってから特に盛んに工事が行われて、今や三つの小学校、十の中学校、一七の高校、三つの大学と、これらの学校生活を支えるための住居と商業、その他の施設があるまでになっている。他の地域では、通常、最も多い小学校がこの島では最も数が少なく、中学、高校と増えていくのは、島の学生の大半が、親元を離れて生活しているからで、小学校に通っているのは、元からの島の住人か、島で働く大人が赴任に当たって伴ってきた家族の就学児だった。
誕生してから長らく自然に任せるままだった島の植生も、宝樹グループの買収後に、街並みとともに整備され、今や学生の街として相応しい景観を有するに至っており、それどころか観光名所としての新たな価値を生み出すまでになっている。
そんな島の中央区画には、高層ビルが聳え立っている。島の住民からは、天守閣、とからかいと愛情交じりに呼ばれているこの建築物は、宝樹グループの中央管理ビルで、生活、交通を始めとする島の機能を担う中枢であった。ビルには、行政と警察の出張所もある。島は特区となった現在でも、宝樹グループの私有地であったが、一方で学生たちの島として発展したことで、居住人口と人の往来が激増しており、これで公権力が何も及ばないのは不都合であると設置されていた。
と言っても、あくまで必要最低限の手続きのため存在しているのであり、治安の維持すらも、宝樹グループが主体とする自治組織によって行われている。世には完全無欠なる体制などなく、現体制にも何かしらの不備はあるのだろうが、一般行政サービスより劣るといった不満は、少なくとも島の住人になって間もない久世奏人は聞いたことも、自身が思ったこともない。
中央管理ビルは、毎日、多くの人が訪れていた。ビルで働く職員は勿論のこと、買い物や各種手続きのために訪れる住民、そして、島外からの旅行者である。
奏人は、正面玄関ではなく、裏手の関係者用の出入り口へ向かう。警備員がじろりと見てくるが、気にも留めないふりをして、身分証を機械に翳してビル内に入る。管理業務の補助やビル内の店舗に学生が働くのは珍しくはなく、学生服姿の奏人が見咎められることはない。
ビルの内部を迷いもせず奥に進む奏人は、一つの扉の前で再び身分証を翳した。開かれた先は、人の気配がずっと少ない。ここからは限られた関係者しか入れない区画だった。
専用のエレベーターに乗り込むと、奏人はビルの階数よりもずっと少ないボタンの一つを押した。目的の階に到着して、ここでも身分証を翳して、区画に入る。手間であるが、そこにいる人物の重要性を考えたら仕方ないのだろう。
それを物語るがごとく、高級ホテルのような内装の中、奏人は臆した様子もなく、とある部屋の前にやってきた。木目調の扉の脇にあるインターフォンを押すと、若い女性の声で応答があった。
「久世です」
「待っていたわ」
返事の直後に扉が開錠して、奏人は室内に足を踏み入れる。
「失礼します」
「いつもごめんね」
席から立ち上がって出迎えてきたのは、扉越しに会話した相手である総裁室長の西岡恵美であった。
「久世君にも、都合や予定があるって分かっているんだけど……」
「別にそんな忙しいわけじゃないし、ついでの用事もありましたから。これも自分なりの役目と言うか、ここでの日常生活なので」
すっかり慣れている奏人は、微苦笑で応じる。
「今日はどうしたんですか?」
「何かのアニメを観たらしいんだけど……」
答えに戸惑いの吐息が混じる。恵美はいかにも仕事ができる才女の印象を与えるが、実際、今の上司を補佐するためにわざわざ本社から転任してきたとのことで、若いながらも日々、室長業務をテキパキと裁いている。
アニメや漫画が大人にも通じる娯楽と認知されて久しいが、彼女は元よりあまり興味がないらしい。それでも、業務に関係するなら抜かりなく把握もするだろうが、上司の個人的趣味というか精神世界の話になると、未だに立ち往生してしまうようだった。だから、自分の出番にされるのは、奏人は困るところもあるのだけれど。
「とりあえず行ってみます」
「ごめんね」
両手を合わせて、恵美は詫びてくる。畏まって礼を言われるよりも、こういう茶目っ気のある態度を彼女からされると、奏人は弱い。
恵美は、廊下に通じるのとは別の扉をノックして、中にいる主に告げる。
「久世君が来られました」
通された総裁室は、やけに広々とした空間であった。
がらんとした部屋の最奥に執務机がぽつんとあり、その向こうで、一人の女性が窓際に佇んでいる。
「こんにちは」
若干の気後れを覚えつつ、歩み寄った奏人は背中を向けている彼女に声をかける。何度となく訪れていて、初めての会話でもないのに、この瞬間だけは未だに妙な緊張が生じる。
「丁度いいところに来てくれたわ。私も連絡しようと思っていたの」
「何かありました?」
「……最近の島の様子はどう?」
「いつも通りですね」
予想できた問いに、奏人はどこまでも安直に答える。
「いつも通り?」
「ええ、いつも通りです。平穏で平安、平和で平常な平日です」
「やっぱり、そう、なのね……」
軽い溜息で肩をわずかに落としてから、女性はようやく振り返った。
大輪の花もかくやという美貌であった。それとともに驚くべきは、その若さである。室長の恵美よりなお若い。お偉い親の不在の間に執務室にお邪魔しちゃったお嬢様と言われた方がまだしっくりくる。それでいて、上品なスーツを見事に着こなした様には王侯のような風格が具わっていた。まぎれもないこの島の支配者である学園島総裁、宝樹遥華その人であった。
支配者とは、決して大袈裟な表現ではない。二十世紀後半以降の怠慢と度重なる失政によって少子高齢化、人口減少、過疎化にあえぐ多くの地方が羨まずにはいられない、人口規模と年齢構成、活気、そして、潜在能力を有している学園島において、島の総裁は実質的な統治者で、下手な行政区の長よりもずっと強力な権限を有していた。
「今日はどうかしたんですか?」
一介の学生からすれば、まさに雲の上の人を前にして、奏人は平素の口調で問いかける。
「恵美が何か言っていたの?」
「いえ、いつにもまして、物憂げな様子みたいなので」
執務机に戻った遥華の怜悧な眼差しを受けつつ、奏人は如才なく答える。高校一年になったばかりでこういう知恵ばかり身についていくのもどうだろうと、我ながら思わないでもない。
途端に、遥華は蕩けた。
直前までの空気の硬質さとの変わりようは、そうとしか表現しようがなかった。といっても、そこに男女の情愛的な意味合いはない。一流の彫刻家の手による精緻な氷像が、炎天下の砂漠に置かれて解けだしたみたいに、遥華はだらしなく崩れて机に突っ伏したのだ。
「カナ君」
顔だけあげて、遥華はいつもの呼び方をしてくる。
「荒野エリナって知っているわよね?」
「はい、アニソン歌手ですよね」
「彼女、好き?」
「ええ、まあそれなりに」
「なら、今週末、彼女が総合ホールでライブをやるのも承知済みよね?」
「宣伝してましたね。クラスにも行くって言ってたのがいます」
総合ホールとは、正式には学園島総合ホールと言って、元々は学園島内の学校の枠組みを越えた催しをするために作られた施設である。近年は島の賑わいとその充実した設備から、島外からプロがわざわざやってきて公演を行うようになっている。
「なら、当然、蒼き天使の最終章オフィーエルも観たのよね?」
奏人は頷いた。歌と踊りばかりで、物語は添え物のプロモーションみたいになるか、自分たちの社会的主張の権利にはやたらと神経質なのに、親和性を抱かない他者の表現や思想にはやたら噛みつく人たちによって毒気が抜かれるかして、最近のアニメはすっかり味気ないものになっているが、そんな中で、二年ほど前に放映された蒼き天使の最終章オフィーエルは久々の衝撃作として高い評価を得ていた。荒野エリナはこのアニメの主題歌でデビューして、一躍有名になった歌手である。人気沸騰のおかげで制作が決定した、間もなく公開予定の劇場版でも、主題歌を担当している。
「彼女が来るっていうから、せっかくの機会に観てみたの」
「今まで観たことなかったんですか? 意外ですね」
少年少女が世界と人類の危機を救うために過酷な運命に立ち向かうという、いわゆるセカイ系のいかにもな内容なのに。
「放映時も気にはなっていたのよ。だけど、あの頃はまだまだ忙しくて、全然、余裕がなくて。それでね、観たら、とーっても面白くて徹夜して全話完走しちゃった」
疲労の気配もなく言うや、遥華は堰を切ったような勢いで、熱のある感想、微に細に入るこだわりと広範な他作品の知識を織り交ぜた考察を語りだした。その深さといい、濃さといい、鬱陶しさといい、まぎれもなく典型的なアニメオタクのそれである。恵美であれば、表向きはともかく内心は引いてしまうかもしれないが、奏人にはそこまでの抵抗はない。アニメは好きだし、身近には似たようなのはいる。あくまで、この次元で留まってくれているならだけど。
「テレビで持ち越された謎が劇場版で解明されるのを期待したいところよね。待ち遠しいわ、公開初日は絶対予定空けとかないと」
「楽しみですよね」
応じる奏人であるが、遥華ほどの期待や熱はない。基本、出不精なので、好きな作品でもレンタルやテレビ放送を待てる人間である。
ふうっと遥華は盛大な溜息を吐く。途端に、まとう雰囲気は、太陽がぎらつく夏空から厚い雲が覆う冬空のような陰鬱なものになる。
「で、思っちゃったのよね……私、何をやっているんだろう……っていうか、この世界何なのかしらって。なんで、こう毎日、刺激的なことが何も起こらないのかしら……ほんと、嫌になるくらい退屈だわ」
またもや突っ伏した遥華のぼやきは、いかにも我儘放題、遊び呆けるばかりの苦労知らずのお嬢様が言いそうな台詞であった。
宝樹遥華が、若くして強大な権力を持つ学園島の総裁の地位にあるのは、世界屈指の大企業宝樹グループの総帥の孫だからなのは無視できない理由である。ただ、その地位が度を越した七光りによってもたらされたかといえば、否であった。
数年前、宝樹グループは未曽有の危機に見舞われた。宝樹家当主にして、グループ総帥の宝樹俊永、息子で後継者と目されていた宝樹景明が、病気、事故によって相次いで長期の離脱を余儀なくされたのである。これだけでも一大事なのに、それを待っていたかのように不祥事が次々と噴出、一族間の内紛まで勃発した。
グループの解体さえ現実味を帯びた危機にあって、敢然と立ち上がったのが、俊永の孫にして景明の娘であった遥華であった。当時、まだ十代の少女であったが、既に飛び級で大学を卒業した上に独自に企業もしていて、一部からその才知を評価されていた。とはいえ、グループ内で広く認知されていたわけでもなかったのだが、遥華は颯爽と本社に乗り込むや、右往左往するばかりの重役を前にして、祖父と父の名代であると宣言したのである。
そうして、グループを掌握した遥華の巧みな式によって、グループは巧みに危機を乗り切り、それどころか幾つかの新事業で目覚ましい成功すら収めた。当初は孫娘というだけで指図してくる小娘を前に、唖然とするか憤慨するばかりだったお歴々も、平伏すしかなかった。
このまま正式にグループの総帥になるのではないか、そんな声すら囁かれるようになったのだが、祖父と父が復帰するや、遥華はあくまで代行だからとあっさりと退いてしまった。周囲の驚きを他所に遥華が次に得たのが、学園島の総裁の地位であった。
「私は相応の努力と覚悟をもって、常に物事に取り組んできました。一方で、今の成功が運や家あってのものであるのも、十分に承知しています。生まれは私にもどうにもできませんけど、それでも、私なりに学生に成長と飛躍の機会を得られる環境を作りたいのです」
とある取材にて、遥華は驚愕の異動の理由について殊勝に語ったものである。嘘ではないだろうけれど、物は言いようだと今の奏人などは思わないでもない。
「カナ君、うちの学校は入ってみてどう?」
「お蔭さまで、そこそこ楽しくやっています」
奏人は宝樹家が運営する私立宝樹学園の新入生であった。
「それで、いそう?」
「いそうって?」
奏人はあえて理解しかねている体で、尋ね返す。
「だから、超能力者や魔法使いや宇宙人、そんなトンデモな奴らよ!」
「いませんよ、そんなの」
「なんでよ、そういう面白いのが一人くらいいたっていいでしょ!」
「一人でもいたら、大騒ぎですよ」
「ボーイミーツガールよ! 何かあってもおかしくないはずでしょ!」
「青春的な何かはあるかもしれませんけど、遥華さんが望むような何かは無理ですよ。それとも、ありがちな創作設定宜しくあの学校は、トンデモ人間の可能性のあるのを、集めていたりするんですか?」
遥華が不機嫌そうに黙ってくれたので、奏人は少し安心する。良かった、自分が通いだした高校はとりあえず普通だったようだ。
「もうっ、それじゃあ意味ないじゃない!! 私が君をわざわざこの島に呼んであげた理由を、よく考えてよねっ!」
「えぇ~、誰が何を望んでのことか、基本的な事実から確認させてもらってもいいですか?」
唐突に自己都合に満ちた論理を突きつけられて、奏人はつい素の反応をしてしまう。
「望んでも欲してもいない事実をわざわざ確認したにもかかわらず、肩書だけは立派な好感情の欠片もない相手から、担当編集になってやったんだから感謝しろと何年も言われ続けて、心身磨耗していった作家みたいな顔になんないでよ!」
「また、やけに生々しい喩えですね」
奏人は呆れるが、否定はしない。
劣勢を悟ったのか、遥華は不貞腐れた顔になって、そっぽを向くや、盛大に嘆いてきた。
「はあぁ……なんでこう何も起こらないのかしら。もうそろそろ世界軸が激変したり、異次元の扉が開いたり、謎の敵の襲来があってもいいんじゃないの?」
「そんなおっかないこと、なくて結構です」
奏人の冷ややかで引いた呟きは、しっかり遥華に届いたらしく不満げに睨んでくる。
不穏で、非常識で、荒唐無稽な遥華の発言は、今に始まったことではない。
宝樹遥華は、まるで世の不公平を体現しているかのような存在である。世界的な財閥に生まれただけでも十分恵まれているだろうに、容姿も才覚も抜群である。それで留まっていればいいのに、彼女に二物以上のものを与えた天は、余計なものまで与えていた。
それが、強い願望である。願望狂とすら言っていい。しかも、その中身たるやハチャメチャで、要するに、漫画やアニメ、特撮の世界みたいな異能や異常が日常茶飯事に起こって欲しい。そして、そんな物語の登場人物のように縦横無尽に生きてみたいと願ってやまないのだ。
「何も、世界を救う鍵を握る主人公やヒロインになりたいなんて、大それたことは思ってないのよっ!! 運命に立ち向かう健気な少年少女たちを、こう腕を組んで、ふふって感じでサポートするというか見守る役どころみたいなのでいいのっ!」
机の上で腕を組んだ遥華は俯き加減になると、いつの間にか取り出してかけた眼鏡を、意味ありげに光らせ、口元に不敵な笑みを浮かべつつ、力説してくる。
「そのための準備だって色々と着々と進めているのよ。なのに、何も起こらないなら、宝の持ち腐れになっちゃうじゃない!」
「防災対策名目でやっている工事も、実はそうなんですよね……?」
「脅威から島の住人の生命、財産を守るという意味では同じでしょ!」
膨らんでいく想像に溺れて現実認識との境を失うのが妄想狂、自身や現実世界に空想的設定を陶酔するのが厨二病だとしたら、それらと願望狂の決定的な違いは、自分の思い描くものが現実化してほしいと真剣に願っている点である。遥華は、その積極性において度が過ぎていた。
表向きの理由はさておいて人型ロボットの製造に熱中し、やはり表向きの理由はさておいて宇宙人との交信や、巨大生物や謎の超文明の痕跡を探し求め、これまた表向きの理由はさておいて秘密基地作りに邁進し、更には表向きの理由がどうにかなるのか異次元世界や魔術の研究にまで支援している。さすがに、オカルト系を直接支援するのは問題があり、グッズ購入などの間接的な方法で行われたのだが、自分が窓口に利用されたのは、奏人にはいい迷惑であった。
「夢に向かって諦めずに歩んでいくのはとても大事よ! 人生一度きりなんだから! 悔いがないよう全力で生きていかないと!」
教育者の発言として、それなりに尊いはずなのに、当人の振る舞いを見ると、物には限度も節度もあると、奏人でも言いたくはなる。
家と会社を救った功績からか、当主の孫娘だからなのか、はたまた経営的に問題ないのか、奏人にはさっぱり事情は分からないけれど、今のところ遥華は誰からの掣肘も受けることなく、己の望むままに総裁の権限を行使できているようだった。だが、いかに権限や金があろうとも、彼女が願ってやまない事柄の大部分は、発展を続ける現代の科学ですら光が未だにささやかにも届かないか、そもそも光が当たる先の存在すら疑うしかない領域である。
そんなどうしようもない現実の壁にものともせずに体当たりを続けられるのが、遥華が願望狂たる由縁であるのだが、それでも、ふと、何かのきっかけで変わり映えのない現実世界を前に、立ち尽くすことがあるらしい。常人には理解しがたい旺盛な意気も消沈し、思考は迷走する。世界系アニメがもたらした衝撃は、いつにもまして過激な神経を過敏にさせながら、ちっとも追いつかない現実世界との対比をまざまざと認識させたようだった。
遥華はやおら机の上に憤然と立った。
「この世界は間違っているわ! 私が生きているんだから、もっと劇的な波乱があってもいいはずよっ! 学生たちがこれほど集まった、これ以上ない、いかにもな舞台が既に用意されているのよ! なのになんでいつまで経っても超能力者も異能者も現れなければ、魔法使いもいないし、宇宙人もやってこないのよ! アニメと漫画とラノベの大部分の否定じゃない!」
どれだけ立派な酒樽を作ろうとも、中身がただの水なら、それこそ奇跡でも起こらなければ、葡萄酒にはならないだろうに。大体、アニメや漫画の存在意義に、奇想天外な事態を現実にもたらすといったものはないはずだ。
「机の上に立つなんて行儀悪いですよ」
今更に、当たり前過ぎる世の道理を、荒れ狂っている相手に面と向かって指摘する無謀さは、奏人も分かり切っている。
「カナ君も、恵美みたいにお小言を言うのね」
遥華は不満も露に、どっかりと腰を下ろした。机にだけれど。
「恵美さんじゃなくても、思いますよ。学校でも教わることですし」
どの段階の、とはあえて言うまい。
むー、と遥華は唸る。
「カナ君、せっかくこの島に来たのに、そんなんで退屈ではないの?」
「おかげさまで、毎日、楽しく過ごせてもらってますよ。僕のような凡人には、それは目まぐるしいほどに」
意図せず皮肉っぽい答えを、奏人はしれっと口にする。自分は他人が思うほどに順応性は高くない。高校進学を機に、それまで縁がなかった学園島にやってきての一人暮らし、これだけでも平々凡々に生きてきた自分には、十分に劇的だ。そこへ来て、戯言の聞き役だろうが、遥華の相手を時々させられる。奏人にしてみれば、超絶お嬢様は、ちょっとした異能者等よりもずっとトンデモな存在だ。彼女の巨大な物差しで、凡人世界の日常を測られても困る。
「カナ君、詰まんない」
「遥華さんから見たら、僕なんて、どこまでもちっぽけな人間です」
「そういうこと言っているんじゃないの!」
遥華はじれったそうに返してくる。
「もっとこう、せっかくの機会なんだからどんどん活かして欲しいの。少年よ、大志を抱けと言うじゃない!」
「そんな大したものなくても、僕は毎日、満足してます」
「もう! オヤジギャグみたいなこと言って! 若いうちからそんなんだと、このままただ年を取るだけの大人になっちゃうわよ。精神の緩みは、肉体にも繋がって、ブクブク太っちゃうんだから!」
今度は腰に手を当てて、お姉さんぶった説教をかましてくる。
「遥華さんは年を取っても、いつまでも変わらなそうですね」
「どういう意味?」
遥華がむっとして肩を怒らせてくると、豊かな胸が強調される形になる。手を当てている腰はきゅっと引き締まっていて、文字通り出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる体型である。扇情的な服装でなくても、青少年には結構、目に毒だ。天はこの点でも不公平だった。しかも、遥華は、太りにくい体質でもあるらしい。常人離れの活力のために、エネルギー消費が激しいだけなのかもしれないけど。ともあれ、年を重ねても、肩書によって肥大化した自我とともに身体のあちこちの肉が弛みだして、異性を前にしても平然とズボンが食い込んだ腰回りをポリポリかく、などといったみっともない未来とは無縁だろう。
「特に深い意味はないです」
想像段階で気分が良くないし、口にして得もない。
ともあれ、宝樹遥華は、ただのお飾りではない、れっきとした学園島の総裁であり、自身が余計な仕事を増やしているせいとはいえ、彼女の執務の停滞は学園島に様々な影響を及ぼしかねない。そもそも、自分ごとき平凡な一学生が、遥華にかくも気軽に会えているのは、遥華自身からは、己の願望を満たすのに協力してくれるであろうとのとんでも期待を寄せられているからだ。それとは別に、恵美からは、そんな厄介な願望を持て余した挙句に低下した遥華の仕事意欲を持ち直す役割を期待されている。
故に、奏人としては、愚痴を聞いても効果がないのであれば、食いつきそうな話題でも提供して、遥華の志気を持ち上げねばならない。
「あ、荒野エリナと言えばなんですけど」
「アニソン歌手ってのは表の顔で、正義の使徒とか、秘密組織の一員とか、ネットの噂話みたいなのは、いらないから。あと、明後日には本人に会うの。ライブに招待されているんだけど、カナ君なんか連れて行ってあげないんだから!」
いつになく荒んでいるなあ。奏人は心中でぼやく。アニメの衝撃が強過ぎたのか、仕事上のストレスが溜まっているのか。どうも症状を軽視したがために、悪化させてしまったらしい。
これはまずい。
「ああ、興味深い話があったんだった」
不意に奏人は思い出した。
「何?」
ぶすっとしたままであるが、それでも遥華は興味を示してきた。
見かけの態度とは裏腹な遥華の食いつきに、奏人は一瞬、躊躇うも、ここでの出し惜しみは彼女の機嫌を悪化させるのは明らかである。
「昨日、女の子が空を飛んでいたそうですよ」




