可能性を信じること
「……これは、どういう状況なんだ?」
困惑し、赤ん坊に問いかけても返事はない。シロロンも完全にフリーズしていた。
異様な雰囲気に飲まれるように尻尾の毛が逆立っている。
「…………魔法。魔力の臭いが残っている。君に教えた自然の力ではなく……固有の、何をしたかは見当もつかないが……」
血の量からして相応に死人が出たのだろう。それも直近数日以内に。誰もいないような密林のなかで。
警戒するように建物の外も見回ったが、他に人の痕跡もなかった。
魔族の、否、ただ尻尾や角が生えているだけの赤ん坊が一人いるだけだ。
「……っ、シロロン。状況として間違いなくこの子は――見殺しにすべきだ。リスクが高すぎる上に、……目に見えて厄介者だ」
「そんなことをワタシに言うということは、見殺しにできないのだろう? もう何もできないのは嫌なんだろう? それならそれで構わない。また目を背けては、ユミフネはここでより良い生活なんてものは二度とできなくなる」
シロロンは呆れるような、清々しいような、少し脱力した様子で笑みを浮かべると、地べたで蹲る赤ん坊をゆっくりと抱き上げた。
瞬間、押し殺していたものが堰を切ったように泣き始めた。密林のなかで聞くはずもない赤子の声が耳を劈いていく。
「最善を尽くしたいなら手伝ってやるから、もっとワタシを頼れ。とっくに知ってると思うが、ワタシ達はもうお互いを敵兵だなんて思っちゃいないだろう? ふふ、ワタシだって、見て見ぬふりはしたくない」
ぶんぶんと尻尾が揺れていく。誇らしげにピンと立った狼の耳は愛らしかった。
「それで実際のところ……この子はどうすればいいんだ? 赤ちゃんって何なら食わせて大丈夫なんだ?」
助けたくはあったが、ユミフネは無力なぐらい何もわからなかった。
「バナナと魚を過熱してペーストにしてみるとかかね? 少なくとも燻製肉だのは食べさせないほうがいいとは思うが……あるもので試してみようかね」
どのみち今日はもう食料を探す余裕も時間もない。
集会所の掃除をシロロンに任せ、ユミフネは土間の竈に火をつけた。
村には畑の痕も多く残っていたおかげでバナナの類は手軽に収穫できた。
皮ごと茹でたバナナを割り、柔らかくなった果肉を背で丁寧に潰していく。湯を少し加え、舌で押せば崩れるほど滑らかなペーストにした。
「これなら食えるんじゃないか? どうだ?」
指に乗せてシロロンの口元に押し付ける。彼女も何自然と指を咥えて、しばらく静止してから、我に返っていたずらな指を強く噛んだ。
「問題ないとは思うがなぜワタシにもこんな食べさせ方なのかね? ワタシを赤ちゃんかなんかだと思ってないかね?」
「冗談だったんだ。常識的に考えたら咥える側にも問題があると思うが?」
そして肝心の赤ん坊は小さく唇を開いたもののの、舌へ触れた瞬間、顔をしかめて首を背けて、口へ入った僅かな分も、べっと押し返すように吐き出してしまった。
「……駄目か」
「もう一度試してみたまえ」
シロロンが抱き直し、もう一度だけペーストを口元へ差し出すも、今度は口を固く閉ざしたまま、小さく首を振るだけだった。
やがて堪えていたものが溢れるように泣き始める。無力なくせに、甲高く鳴き声を張り上げて密林のなか自分の存在を誇示していく。
ユミフネは無力感を覚えるように眉間をおさえた。
「……母乳しか飲んだことがないのかもしれないね。もしくはまだ離乳していないか」
……この子の育ての親はどこに行った? あの血だまりがそうなのか? だとすれば彼女は助からないかもしれない。
「そんなの、俺たちにどうしろって言うんだ……」
絶望的な沈黙が広がって、泣き声だけが響いていく。不安は、この子にも伝わっているらしい。ユミフネは誤魔化すみたいに、苦難を鼻で笑った。
「シロロン、なんとかしておっぱいからなんか出せないのか? 乳とか」
「しばくぞ?」
シロロンは許可を取ってからユミフネを強く肘打ちした。
鈍い殴打のなか方法を考える。
過去の村の様子を必死に思い出して、かつてこの密林を彷徨ったときのことを思い出して、自分が死ぬわけでもないのに、走馬灯のように過去の記憶を巡っていく。
「…………家畜がいた。旋角獣だ。ある程度は軍が侵略したときにそのまま屠殺したが逃げたのもいた。逃げた魔族を狩るほうを優先したから」
旋角獣についてはシロロンも知っていた。
イノシシみたいな牙を生やした山羊の仲間で、角を回転させることができる魔法を種全体が持つモンスターの類だ。
「野生化している個体がいれば……」
「そうだ。乳を回収できる可能性がある」
だがこんなものは机上の空論だ。無茶苦茶な理想だ。
この広大で危険な密林のなかで、逃げ出した家畜の群れが野生化した可能性を祈り、見つけられることを祈り、雌の個体が子連れであることを祈り、そしてどんな方法かでそれらを捕まえなければならないのだから。
シロロンも、そんな無茶だと理解してか、引きつった様子で笑みを浮かべた。
「……無茶苦茶だね。けれどワタシ達はそうやって生きてきた。いがみ合いながらも火を起こし、窮地を逃げ延び、水を探し、川へたどり着き、寝床を作り、酒を造り、大きな魚も捕まえた。ワタシはそれでいいと思う。それに賭けたい。闇ばかりの夜に放り出されたというならば、我々は光を作らなければ、君の望む、良い生活になりえないと思うのだよ」
彼女の決然とした言葉を前に、ユミフネはしばしじっと、青い双眸を見つめた。目と目が合う。少し彼女は恥ずかしそうにしていたけれど、誇らしげなしたり顔はそのままだった。
「……俺はお前ほど、そんな能天気にはなれないが」
ユミフネは苦く笑った。
「でも、お前がそう言うなら信じられそうだ。何とかなる気がする。……シロロン、お前はなんていうか……そんな力がある気がする」
「そうだとも。翼竜に乗ったつもりでいたまえ」
――――それは墜落したはずだが。
「ああ。そうさせてもらうよ」
墜ちるところまで落ちたならば、あとは這い上がっていくだけだと。そんな風に捉えて夜を過ごすことにした。




