124. 井戸 その1
キャロルは、昨日のように一軒一軒回るのではなく、貧民街の広場でやって来た人々を治療していた。
――やっぱり神官って、すごいんだなあ。
次から次へとやってくる人々をどんどん治していくキャロルを眺めながら、トールはしみじみと思った。
今のところ何も起きていなかった。昨日の事が事だけに、ひとまずほっとしてしまう。
広場の周りは、人々の活気でにぎわっていた。水たまりに日の光が反射して、きらきらと輝く。
ちょうど洗濯時だったようで、建物の間に魔法で紐が張り巡らされているところだった。紐が渡されると、建物の窓からふわふわと洗濯物が出てきて紐にかけられていった。
――平和だなあ。
昨日は見なかった光景だった。
ちょうどキャロルに診てもらっていた人が咳き込んでしまっていた。体調が悪そうだった。
「大丈夫ですか」
咳き込む患者の背中を、キャロルはさすってやる。
「この辺りに、井戸か何かはありますか」
「ありますよ。向こうの方です」
「わかりました」
キャロルがトールの方を見る。
「トール、水を汲んできてもらえますか」
「わかった」
トールはうなずくと、住民に案内してもらって井戸の方へ向かう。
仕事中だからなのだろうが、キャロルに敬語で話されるのが違和感だった。
――最初は口の悪さにびっくりしたんだけどなあ。
思い出して、思わず口元がゆるんでしまった。
少し歩くと、小さく開けた場所に井戸がちょこんとあった。
「着いたぞ」
「ありがとうございます」
トールは井戸のへりに置かれた木桶を井戸の中に放り込む。太陽の光を反射したのか、井戸の底の水面はきらめいていた。水を汲み上げ、ビンに水を入れる。ついでに、中身がなくなりかけていた自分の水筒にも入れておいた。
「汲めたか?」
「あ、はい」
どこか苛立たしげな男の声に、トールは急いで桶を井戸のへりに置く。
「なら、とっとと戻るぞ。ここはこの辺の住民が使う井戸なんだ。よそ者に長居してほしくないんだよ」
「すみません…」
井戸は住民の生命線だ。何かあったら非常にまずいことになるのは、トールもよく知っていた。
「ありがとうございます、案内してくれて」
「俺らを治療してくれてる神官様の頼みだからな」
男の声色が少し、柔らかくなった。
「ハリエル様って言ったか?こんなところの奴らを治療してくださる神官様なんて、そうそういないんだよ。まさに女神様だ。俺たちゃ、何かあれば真っ先に切り捨てられるからな」
「…切り捨てられる」
「なんだ、おまえ、知らないのかよ」
つい反復してしまったトールに、男が軽蔑したような目を向けてくる。
「四年前、この街で突然魔物暴走が起きて、市壁に近いところにあった貧民街が真っ先に壊滅したんだよ」
「…っ」
知っていた。王国の誰もが知る、魔王との本格的な戦いの火蓋を切った事件だった。
けれど、真っ先に壊滅したのが貧民街だったとは、知らなかった。
「門から侵入してきた魔物を、貧民街の方に追いやったんだと。貧民街に住んでた多くの人が死んだよ。…地面が真っ赤に染まってて、原型をとどめていない人も多かった」
男はつらそうに顔を歪めた。
「怪我人も多かったが、ほとんどが後回しにされた。助かった人のほとんどはエステル・カルマン様が広範囲で一気に治した人だよ。ハリエル様はカルマン様と同じくらい、いい人だな」
「ええ、キャロルは優しい人です」
キャロルはエステルの弟子として恥じない、立派な人なのだとひしひしと感じた。
と同時に、言い様のない劣等感がじわじわとわき上がってくるのを感じた。
――俺、ちゃんとアーサーさんの弟子、できてるのかな。
広場に戻ると、汲んできた水を患者に渡す。水を飲んだら、少し落ち着いたようだった。
「ありがとうございます、トール」
「ううん、このくらい」
しばらくすると、キャロルのもとに訪れていた住民たちは帰って行った。
キャロルがやってきて、トールの横に座った。
「お疲れ様」
「ありがと」
「だいたい治療は終わったかんじ?」
「たぶんね。まだ、来てない人はいるみたいだけど」
「そっか」
キャロルが来る直前まで水を飲んでいたトールは、水筒の蓋を閉じて鞄にしまおうとする。キャロルがそれを見ながらぼそりと言った。
「喉渇いた」
「キャロル、何か飲むもの持ってきてる?」
「…いや」
「…俺のでいいなら、あげるけど」
「…あんたがいいなら」
「いいよ」
「ありがと」
キャロルはトールから水筒を受け取り、水を飲む。
「あー、生き返った」
「だいぶ話してたもんね」
「それは別にいいんだけど。それより、いちいち詠唱しなきゃいけないのが面倒」
はあ、とキャロルが嫌そうに息を吐く。
「え、でも、詠唱しないと光魔法使えないでしょ?」
「そうらしいね。だるい」
「それ言っていいの?」
ふと、トールは疑問に感じたことを聞いてみる。
「そういえば、治すときの詠唱っていつも同じだけど...。唱えればなんでも治るものなの?」
キャロルはトールにじとっとした目を向ける。
「そんなわけねーよ。詠唱はあくまで光魔法の発動。どこをどう治したいかはこっちが把握して指定しないと、全然効果ない」
「へえ…」
――だから症状を聞いてたのか。
「難しそうだね」
「まあね。だから勉強しないといけないの」
そう言って、キャロルは立ち上がる。
「帰ろ」
トールを見下ろすキャロルが背後から日の光に照らされ、綺麗だった。不意打ちの神々しさに思わず魅入られるトール。昼空の色と対照的なキャロルの夜空のような黒い瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「トール?」
キャロルが怪訝な顔で尋ねてくる。
トールははっと我に返る。
「ごめん」
あわてて立ち上がるトール。
「あんたってそういうとこあるよな」
キャロルにじとっとした目を向けられてしまった。
「はは…」
笑って誤魔化すしかなかった。まさか、キャロルに魅入られていたとは言えなかった。言えば、トールに向けられた視線がさらにじっとりとすることは、目に見えていたから。
トールとキャロルは貧民街をあとにし、家へと戻って行った。
「お疲れ様です。今日は早めに戻ってこれたのですね」
戻ると、エステルが出迎えてくれた。中にはアーサーもいた。
「はい。軽症の方が多めだったので」
「快方に向かっているようでよかったです。さすがはキャロルですね。今日のところはゆっくり休んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
キャロルはエステルにほめられて口元がゆるんでいた。
「まだ、日暮れまであるのか」
窓の外の空の色を見ながら、アーサーが呟く。
「トール、まだ元気ある?」
「?あります」
「稽古、する?今朝、できてないから」
「いいんですか!やりたいです」
「あはは、もちろん」
食い気味に答えたトールに笑いながら、アーサーは立ち上がる。
「じゃあ、行こうか。行ってくるね」
「お気をつけて」
エステルとキャロルに見送られ、トールはアーサーとともに稽古に向かった。
森の中に剣がぶつかる音が響く。
何事もなく動けていたはずなのに、突然、どくん、とトールの心臓が跳ねた。
息が苦しくなる。体が刺すように痛い。
実際に敬虔したことはない。けれど、聞いたことのある感覚だった。
――魔力切れ?…え、なんで?
魔法は使っていないはずだった。
咳き込むトール。
「トール、大丈夫…?」
アーサーが心配そうに言いながら、背中をさすってくれた。
「っ、はい、大丈夫です」
まだ呼吸は苦しかったが。
「ごめん、無理させすぎちゃったね。まだ、完治してないのに…」
「いや、そんな…」
どうにもできないのがもどかしかった。
「とりあえず、一回戻ろう」
「はい」
トールはこくりとうなずいた。
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