二 恒の父
帰り道の途中、一人暮らしをしている小町が食糧を買うために市場に寄った時には、もう陽は山影に沈み始めていた。
「大分遅くなっちゃたね」
「そうやねぇ」
夕闇とともに浮かび始めた人魂に照らされながら、恒は小町の食糧を半分ほど持って屋敷へと向かう街道を歩いた。小町の家は屋敷に向かう途中にある。
「小町ちゃん、恒ちゃん」
後ろから声をかけられ、恒が振り向くと長身の男の姿があった。良介だ。どうやら彼も市場からの帰りらしく、野菜やら肉やらを包んだ風呂敷を片手に下げている。
「良介さん」
黒い着流しを着た良介が歩いてきて、からかうような笑みを浮かべ、言う。
「二人でデートかい?」
「はい」
恒が否定する前に、小町が笑顔で肯定した。恒はどう返せばよいか分からず、押し黙る。
「若いってのは良いねえ」
言いながら、良介は煙管に火を付けた。それを咥えて、「家で吸うと朱音に怒られるんだよなぁ」と小さな声で愚痴を言った。
「良介はんもこれからお帰りどすか?」
「そう、夕食の買い出しさ。どうだい小町ちゃん、今夜はうちで晩飯食べて行かないかい?いっつも自分で作ってるんだろ?」
「あら、良いんどすか?ではお言葉に甘えようかしら」
「良いって良いって。恒ちゃんも年の離れた俺たちばかりと一緒より、小町ちゃんがいた方が良いだろ?」
「たまにはいいかもしれないですね」
祖父母の家に一人で住んでいた時には、たまに小町が夕食を作りに来てくれたことを思い出す。まだ数カ月しか経っていないのに、遥か昔のことのように思える。
夕食の約束をした後、良介とは小町の家の前で一度別れた。先程買ってきた食糧を含め、今日の荷物を置くためだ。
「恒ちゃん、それはそこに置いといて。あとは私がしまうから」
「分かった」
土間の奥の棚に食糧を入れる小町を見ながら、恒は一段高くなった居間の淵に座った。茅葺屋根で土壁の小町の家は、美琴の屋敷に比べれば小さく、また庶民的であるが、色褪せた畳や居間の中心にある囲炉裏などは祖父母の家を思い出させて恒には心地よかった。部屋は居間の奥にもう一つあり、一人暮らしには十分なようだ。
「はいお待たせ」
ぱんぱんと手を叩きながら小町が歩いて来た。買ってきた食糧以外の小物を畳みの上に乗せ、両腕を伸ばす。
「なんか落ち着くね、この家」
「そう?人間の世界の家とは全然違うやろ。ここは良くも悪くも変わらないから」
小町はそう言い、少し嬉しそうに微笑む。
「ほな行こうか。良介はん待たせても悪いし」
「そうだね」
恒は居間から腰を浮かせ、立ち上がる。家の扉を開けると、赤と青の火の玉がゆったりと目の前を横切って行くのが見えた。その後を追うように、二人は遅い足取りで歩きだす。
この黄泉国は人間界に比べ、時間がゆっくり流れているように恒は思う。
小町の家を出て、数分も歩けば山の斜面に設置された長い石段に到着する。一番下からでは到着点の見えないその階段は、夕闇に沈んでいることもあり、どこか神秘的だ。
屋敷に入ると朱音が出迎えてくれた。
「小町さんいらっしゃい。恒君もお帰りなさい」
「おじゃまします」
「ただいま帰りました」
そろぞれ挨拶をして、履物を脱ぐ。
「夕食はまだなので、居間でテレビでも見ていてくださいな」
そう言って、朱音は足首まで伸びた長い総髪を揺らしながら早足で歩いて行った。彼女はこの屋敷では料理意外のほとんどの家事を担っている。まだ色々とやることがあるのだろう。居候の身で朝から遊んでいたことを考えると、申し訳なくなる。
居間には誰もいなかったが、明りは点いていた。小町は早速ちゃぶ台の上にあったリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。先程までいた黄泉国の古い街並みから帰ってきてすぐにテレビというのも不思議な気分がするが、美琴はあまりこだわりなく便利なものは取り入れる主義らしい。皆携帯電話も持っているし、良介の部屋にはパソコンがあるのを見せてもらったことがある。
「あんまおもろいのやってないねぇ」
ぽちぽちとチャンネルを変えながら小町が言った。横座りをして卓袱台の上に肘をついた格好はだらしないが、それだけこの屋敷に慣れているのだろう。
しばらくぼんやりとバラエティ番組を見て過ごした。内容は夏定番のオカルト番組で、都市伝説の検証というよくあるものだった。「呪われた村」というテロップを画面の右上に映し、アイドルらしい若い女性と芸人らしい男二人組が暗い山の中を歩いている。
「近頃、この周辺で行方不明者が多発しているという。噂によれば、彼らは杉沢村と呼ばれる異世界に連れて行かれ、生け贄とされるようだ。はたして、その噂は本当なのだろうか。そして、探検隊が見たものとは!」
そんなナレーションと、何かを見つけて驚いている芸能人の顔を映した後、番組はコマーシャルに入った。
「今でもこういうのって人気あるんやろかね」
「あるから作られてるんじゃない?」
「興味本位でこういうことすると、危ないんやけどねえ」
それには恒も同感だった。世の中には人間が知らない世界がたくさんある。恒はこの数カ月でそれを身を持って知っていた。そして知らずにその世界に踏み込めば、どうなるか分からない。だが、それを言って信じる者はほとんどいない。それは、仕方がないことなのだろうか。
その日の夕食は、お客がいるためかいつもより少し豪勢に焼き肉だった。部屋に匂いがつくという朱音の声で、五人全員中庭に出て腰掛け火鉢を置き、肉を焼いた。
「焼き肉なんて久しぶりやわぁ」
嬉しそうに言いながら、小町が肉をつついている。
「どんどん食べなさい。たまには栄養付けないとな」
良介は笑いながら言って、網の上に食材を乗せる。恒は火鉢から少し離れたところに座って、その様子を見ていた。初夏とはいえ夜はまだ肌寒いが、火の側なのであまり気にならない。美琴と朱音は縁側に座って、何やら話している。
「そういえば、美琴様。絹江ちゃんがたまに店に来て欲しいって言ってましたよ」
美琴が食べ物を取りに火鉢の傍に来た時、小町が言った。
「そう?そういえば最近行ってなかったわ。今度行こうかしら」
「そうしてくださいな。絹江ちゃんも喜びます」
「分かったわ」
そう微笑んで、美琴は縁側に戻る。昼間もよくあそこに座っているから、お気に入りの場所なのかもしれない。
そういえば、明日どこへ行くのかまだ聞いていない。そんなことを思いながら恒は肉を網に乗せる。美琴が自分から誰かを誘って外出するのは珍しい。何か重要な用事でもあるのだろうか。まあ、明日になれば分かることか。
そう思い直し、恒は焼けた肉を口に入れた。少し焼き過ぎたようで、苦い味がした。
翌日の朝、恒は美琴とともに木久里駅にいた。朝ではあるが、休日のためかあまり混雑はしていない。
「電車に乗るのは久しぶりだわ。便利になったわよね」
言いながら、美琴は券売機で二人分の切符を買った。一つを恒に渡す。
「市川駅ですか」
「そう。知ってるでしょ?」
「まあ……」
市川は千葉県の地名だ。東京の小岩と江戸川を県境として隣合っている。それに記憶にはないが、恒は昔そこに住んでいたと祖母から聞かされたことがあった。まだ父と母が生きていたころの話だ。それに関係があるのだろうか。
電車に乗り込むと、客はまばらだった。空いている席に二人腰掛ける。考えてみれば、美琴と二人きりで行動する機会はほとんどなかった。そもそも女性と二人きりという機会が小町以外にない。少し緊張しながら美琴を見る。
美琴はぼんやりと向かいの車窓を見ながら言う。
「黄泉国での生活にはもう慣れた?」
「もう大丈夫ですよ。皆親切にしてくれますし」
「昨日も小町と一緒に出かけてたものね。人間界とは違うけれど、良いところでしょう?」
「そうですね。何か歩いていると懐かしい感じがします」
そういうと、美琴は微かに笑った。
「それは良かったわ。ずっと人間界で育ってきたあなたには、もしかしたら合わないかもしれないって心配だったの。あなたを連れてきた私にも責任はあるから」
「でも美琴様が拾ってくれなかったら僕もあのまま宿なしだった訳ですから」
恒は美琴と初めて会った時のことを思い出す。巨大な二体の鬼に襲われた恒を、美琴は助けてくれたのだ。
「あんなことがなくても、いつかは私の家に呼び寄せる予定ではあったのよ。お父さんのことを知らないままで行かせる訳にもいかないしね」
「そういえば、僕の父はどんな妖怪だったんですか?」
恒は、疑問に思っていたことを口に出した。美琴は声も思い出せないような幼いころに死んだ父のことを、自分よりも知っている。
「熱血漢ていうのかしら、少し血の気が多い性格だったけど、正義感が強かったわ。あなたはどっちかというと母親似の性格みたいだけど。彼、明長はね、昔は良介や朱音のように私の下で働いてたの。あなたの母、麻衣さんと結婚してからは危険な仕事はしないで、彼女と一緒に人間界で暮らすようになったのだけど」
「やっぱり、戦ってたんですか」
「ええ。槍の名手でね、それなりに名の知れた妖怪だったのよ」
美琴は懐かしそうにそう言った。
「なんでそんな父が、人間だった僕の母と出会ったんですか?」
「単純な話よ。ある仕事の時に偶然、明長が麻衣さんを助けたの。助けられた麻衣さんもそうだけど、明長も彼女に一目惚れしてね、それで正体が分かっていても付いて行くと言ってくれた麻衣さんと一緒になることに決めたのよ」
聞いたことのない話ばかりで新鮮だった。祖父母は人間として生活していた父のことしか知らなかったのだから、当たり前かもしれない。だけどそんな父がどうして死んだのだろう。祖父母には交通事故で死んだと聞かされていたが、父が妖怪だと知った今では信じ難い。そうなると答えは限られてくる。
それを問うと、美琴は表情を曇らせた。
「そうね。予想はついているかもしれないけれど、あなたのお父さんとお母さんはね、殺されたの。昔、私や明長と戦って敗れたものたちの生き残りにね。私の側から離れたせいで狙われたのよ。報復のつもりだったのでしょうね」
驚きはしなかったが、やはり美琴の口からそれを聞くと気持ちは沈んだ。恒には父と母の記憶がほとんどない。それを得ることができる前に誰かによって奪われてしまったのだ。実感も怒りもあまり湧かなかった。ただ、どうしようもなく虚しくなった。
「恒、大丈夫?」
心配そうな声で話しかけられ、恒は慌てて笑顔を作った。
「大丈夫ですよ。予想はしていました。でも思い出したくても父も母も、誰かに聞いた話と写真ぐらいしかないから、実感が湧かないんです」
「そうね……。でも、あなたの両親はあなたのことを大切に思っていたのは確かよ。最後にあなたを私に託していったわ。だけど、一応人間として生まれたあなたをいきなり異界に連れて行くこともできなくてね。おじいさんおばあさんもいたし、時期が来るまでは人として育ってもらうことにしたの」
「そうだったんですか」
自分の話なのに、知らないことばかりだった。ここ最近はそんな話ばかり聞いている。暗い話は嫌になって、恒は話題を変えた。
「そういえば小町さんは、どうして僕の側に?」
「ああ、あの子はね、自分からあなたの側にいるって言ったのよ。私としても、誰かにあなたのことを見ていて欲しいと思っていたし」
今まではただの幼馴染だと思っていたが、偶然ではなく、小町は自分を守るために近くにいてくれたのだ。それが誰かに命じられたのではなく、自分から言ってくれたということを思うと、少しだけ嬉しかった。
「僕の知らないところで色々あったんですね」
「あの子の兄も半妖怪だしね。色々思うことがあったのでしょう。そういえばこの前小町がね、恒が最近一緒にいてくれなくなったって愚痴を言っていたわ」
「それは……、だって高校生にもなって子供のときみたいにあんまりべたべたする訳にもいかないでしょう」
そう言うと、美琴は可笑しそうに小さく笑った。
「高校生だってまだ子供じゃない。でも、あなたのことを一番考えているのは小町だから、仲良くしてあげてね」
「分かってますよ」
そういえば最近は、小町と何かする時はあちらから誘ってきたときばかりだ。今度自分からも何か誘ってみようか。そう思った時、電車が市川駅に止まった。
市川駅からは一度バスに乗り、それからは徒歩だった。江戸川の側の土手を流れとは逆の方向に歩く。空は晴れており、水面が白い光を乱反射させている。川の近くの広場を見下ろせば、野球をしている子供たちや散歩をしている親子連れなどが見える。
「平和ねぇ」
河原の方を見ながら、口元を緩ませて美琴が言った。
「そうですね」
「あなたが昔住んでいたのは、ここをもう少し行ったマンションだったのだけど、覚えてる?」
「いえ、あんまり」
「まだ小さかったものね。今ではもう、そのマンションも無くなってしまったみたい」
昔は自分も、この河原で父や母と遊んでいたのだろうか。恒は思い出そうとして頭の中を探るが、やはりだめだった。脳に溜めてある記憶が、ビデオのように自由に再生できたらと思う。
「そういえば、小町さんも言ってましたけど、美琴様は黄泉国の皆に慕われているみたいですね」
「そうだったらうれしいわ」
そう言って美琴ははにかむ。その彼女に、恒は前から疑問に思っていたことを口にした。
「ならどうして、あまりお屋敷から出ないんですか?」
「そうねぇ、賑やかな場所が苦手なのもあるんだけど、あまり私と親しくなりすぎるのも、良くないのよ」
それ以上は美琴は何も言わなかった。恒も何か聞きづらい感じがして、それ以上は尋ねなかった。
後十分ほど歩くと、やがて小さな山が見えてきた。道らしいものはないが、急斜面というほどでもない山肌を指して美琴が言う。
「登るけど、大丈夫よね?」
ロングスカートに長袖のTシャツという斜面を登るのには不釣り合いな出で立ちの美琴に尋ねられ、恒は頷く。彼女の場合普段は和服なのだし、動くのに服装は関係ないのだろう。
美琴は周囲に人がいないのを確認するように一度左右を見てから、身軽に跳躍した。五メートルほどの高さで着地すると、両足で立ち、手で恒に来るよう促す。
恒にはあんな真似はできないため、彼は地道に斜面に足を突き立て、ときには両手で体を支えながら進んだ。しかし、急だったのは最初だけで、次第に山肌は平らになって行き、やがて普通に歩ける程度の勾配になった。
美琴の後ろに従い、木々に囲まれた柔らかい土がそのままの舗装のない山道を進んだ。緑色の景色の中では、さっきまでの喧騒は嘘のように車の音も人の声も聞こえず、風で葉が擦れる音や鳥の声が耳に届く。
やがて木々が開け、広い場所に出た。すぐ向こうには眼下に市川の街並みと、江戸川らしい大きな川が見える。
「恒、少し危ないから下がっていてね」
そう言って、美琴は腰の部分に手を当てた。すると、紫色の妖気とともに日本刀が現出する。美琴は左手で鞘を持つと、右手で刃を抜いて軽く一振りした。
恒の目には、その刃の軌道の通りに一瞬空気が収縮したように見えた。その直後、ぱっくりと空間に裂け目が開き、異界の景色が宙に浮くようにして現れた。
「普段は開いていないけれど、ここは境界なの。目的の場所はこの先にあるわ」
境界と呼ばれた空間の裂け目は、二メートルほどの縦に細長い穴になってから拡張を止めた。その中に入って行く美琴の背に、恒も続く。黄泉国以外の異界に入るのは初めてだが、美琴と一緒ということもあり不安はなかった。
境界の先には、ただ広い砂浜と海が広がっていた。恒と美琴以外に生き物の気配はなく、波と風だけがかろうじて音を発している。
「ついて来て」
美琴が言って、砂の上を海とは逆の方向に歩き出す。五分も歩くと砂浜は消え、地面に緑が混じり始めた。固くなった土の上を歩き、尚も進むと向こうに小さな丘が見えた。その頂上に一本だけ木が生えている。青空を背景にしたその景色は、環境保護を訴えるCMにでもでてきそうだった。
木の側まで来ると、根元に何か細長い棒状の物が刺さっているのが見えた。白色で何やら浅く彫られた模様が刻まれている。
「これはね、あなたの父親のものよ」
尋ねるより先に美琴が言った。
「これが?」
「そう。明長の槍よ。彼が残したものといえばこれぐらいしかないから」
美琴は静かに明長の形見握り、引き抜いた。土の中から針葉のような穂が現れる。
「明長はね、この異界が好きだったの。あなたの母とよくここに来ていたわ」
言いながら、美琴は槍を恒に渡した。自分の身長よりもずっと長いそれは予想したよりも重く、恒は両手でそれを支えた。
「これが僕の父の槍、ですか」
「そう。ここはお墓の代わりなの。妖である彼が人間と同じ場所に入ることはできないし、妖には基本的にお墓を作る文化はないから」
話しながら、美琴は昔を懐かしむように木を見上げる。
「だけど、彼もあなたに何か遺したかったのね。いつかあなたが大きくなったとき、その槍を渡して欲しいと言われたわ。ちょっと貸してくる?」
美琴に槍を手渡すと、彼女は槍の中心にある模様をなぞった。その瞬間、槍は淡く白い光を纏い、三十センチほどの横笛に変わった。
「普段はこの状態にしておきなさい。槍の状態にしたいときには妖力を送れば良いんだけど、それはまだ無理よね」
恒は頷いて、白い横笛を見た。顔も覚えていない父親だが、こんな形見を遺してくれていた。初めて父親を身近に感じた気がして、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
「これ、僕が持って行ってもいいんでしょうか」
「いいのよ。ここは誰も住んでいないから。この異界は明長が見つけたものなの。他に知っていたのは私とあなたの母ぐらいよ。だから、あなたにこの場所を教えれば私の役目は終わり。その槍はあなたのものだし、この場所もいつでも来れば良い」
美琴はそう静かに言って、優しく恒の肩を叩いた。
「ありがとうございます」
「お礼なんて必要はないわ。それは元々あなたのものなんだから。でも槍を振う必要はないけどね」
そう冗談ぽく笑うと、美琴は丘を下り始めた。恒も白い横笛をしっかりと握り、その背に続く。
芝生を横切り、砂浜を踏み、やがて開いたままの境界が見えてくる。その空間の裂け目を潜ると、再び木々に囲まれた世界に戻ってきた。
美琴が袖を振ると、空間の裂け目が閉じ、周りの風景と同化した。これならここに異世界への扉があるとは誰も思わないだろう。
「さて、少し暗い話になっちゃったわね」
道とは言えそうもない雑草だらけの斜面を下りながら、美琴が言った。
「いえ、僕は父親の話が聞けて嬉しかったです。それに、僕は父のものなんてひとつも持っていませんでしたから」
「そう言ってくれると嬉しいわ」
舗装された道路が見えてきて、美琴は軽く五メートルほどの斜面を飛び降りた。恒は滑るようにして斜面を下る。
「恒、お腹は減っていない?お昼でも食べに行きましょう」
スニーカーの土を払っていると、美琴が言った。
「お昼ですか?」
「ええ。たまにはあなたも外食したいでしょう?今から帰っても遅くなっちゃうしね。お金のことなら大丈夫よ、私が払うから」
そう軽く首を傾げて口元を綻ばせる。その表情はどこか小さな子供に笑いかける母親を思い起こさせたが、子供扱いされているとは思わなかった。そもそも恒は母がどんな表情をしていたのか知らない。それにどうせ、見た目には分からなくとも美琴とはずっと歳が離れているのだ。気にすることはない。




