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第5話 燃えるカーネーション

「何人来る」


 アルファは、砕けた植木鉢を見下ろしながら尋ねた。


 白いカーネーションが土の上に倒れている。その花弁には、投げ込まれた石の破片が食い込んでいた。


 マリアは答えなかった。


 赤い瞳を見開き、今ここには存在しない何かを見つめている。


 夕闇の中で揺れる無数の松明。


 正門へ殺到する人々。


 耳を覆いたくなるほどの怒号。


 踏み荒らされる花畑。


 燃え上がる屋敷。


 いくつもの光景が重なり、互いを塗り潰していく。


「マリア」


「……分からない」


 ようやく、マリアが口を開いた。


「視るたびに数が変わる。三十人ほどの未来もあれば、百人を超えている未来もある」


「いつだ」


「日が沈んでから。それほど遅くはない」


「死者は出るか」


 マリアの喉が小さく動いた。


「君が屋敷に残れば、出る」


「僕が殺すのか」


「それだけじゃない。門が倒れて下敷きになる人がいる。火が回って逃げ遅れる人もいる。君へ剣を向けて、斬られる人も――」


「僕たちが出ていけば?」


「ぼくが教団へ戻る未来がある」


「それは選ばない」


 アルファは迷わず言った。


「まだ最後まで話していないよ」


「聞く必要がない。お前を箱舟教団へ引き渡すという選択肢は、最初から存在しない」


 マリアは、わずかに目を見開いた。


「陛下の命令だから?」


「それもある」


「それだけではないように聞こえるね」


 アルファは、石に巻かれていた紙を拾い上げた。


 乱暴な文字で、たった一言だけ記されている。


 ――悪魔を引き渡せ。


「お前は教団へ戻ることを望んでいない」


「ぼく一人が戻れば、大勢の人が傷つかずに済むかもしれない」


「恐怖に追い詰められて選ばされた答えを、本人の意思とは呼ばない」


「君は、本当に面倒な人だ」


「お前に言われたくはない」


 アルファは紙を握り潰した。


「ほかの未来は」


 マリアは再び、赤い瞳を遠くへ向けた。


「今すぐ東の裏門から屋敷を出る。森へ向かえば、彼らと出会わずに済む可能性がある」


「可能性か」


「確実ではない。ぼくが視た未来では、君は日が暮れるまでここに残っていた。でも今の君は、もう出ていくつもりでいる」


「行動すれば未来も変化するということか」


「たぶんね。新しい未来が増えるたび、古い未来が薄くなっていく」


「ならば、まだ死者の出ない道を選べる」


「何度も言うけれど、確実じゃないよ」


「未来は命令ではない。だが、警告を無視する理由にもならない」


 アルファは屋敷へ向かって歩き出した。


「出発の準備をする。お前も来い」


「ぼくに荷物はないよ」


「だったら、迷子にならない準備だけしておけ」


「それは君の手を握っていればいいのかな」


「好きにしろ」


 マリアは、土の上に落ちた白い花を一輪だけ拾った。


     ◆◆◆


 アルファは騎士礼装を脱ぎ、黒いシャツと同色のズボンへ着替えた。


 腰に剣を差し、机の引き出しから認識疎外のキセルを取り出す。


 その間に、アリスは水や保存食、毛布を鞄へ詰めていた。


「毛布は二枚でよろしいですか?」


「僕の分は必要ない」


「必要です」


「森で一晩過ごすだけだ」


「その一晩で風邪を召されたことが、以前にもございました」


「いつの話だ」


「三年前です」


「よく覚えているな」


「閣下が御自分のお身体を軽視なさるからです」


 アリスは三枚目の毛布を鞄へ押し込んだ。


 その様子を見ていたマリアが、感心したように言う。


「君よりも、アリスの方がよほど騎士に向いているんじゃないかい?」


「否定はしない」


「否定してください!」


 アリスが頬を膨らませた。


 アルファは机の上に置かれていた書類をまとめた。


 箱舟教団が配布しているマリアの人相書き。


 教団施設の調査報告。


 そして、石に巻きつけられていた脅迫文。


 それらを革の筒へ入れ、アリスへ差し出す。


「これを持って宮殿へ行け」


 アリスの表情が固まった。


「わたしだけで、ですか?」


「ああ。東の裏門から出て、川沿いの道を進め。宮殿へ着いたら、陛下か侍従長へ直接渡すんだ」


「閣下とマリア様は?」


「別の場所へ移動する」


「わたしもお供します」


「駄目だ」


「ですが――」


「僕たちが襲撃されたことを陛下へ知らせる者が必要だ。教団が民衆を扇動している証拠も届けなければならない」


「ほかの方ではいけないのですか?」


「お前だから任せる」


 アリスは革の筒を胸元へ抱き寄せた。


「……必ず戻ってきてくださいますか?」


「ああ」


「本当に?」


「僕が陛下の許可なく、勝手に帝都から消えると思うか」


「思いません」


「ならば行け」


 アリスは小さくうなずいた。


「承知いたしました」


 部屋を出ようとしたアリスを、マリアが呼び止める。


「待ってくれ」


「はい?」


 マリアは赤い瞳で、アリスの姿を見つめた。


 今この部屋に立っている彼女の向こうに、いくつもの未来が浮かんでいる。


「橋を渡ったあと、二つ目の角を右へ曲がるんだ。まっすぐ進むと、教団の信徒に会う」


「分かりました」


「それから……」


 マリアは言葉を止めた。


「どうかなさいましたか?」


「いや。何でもない」


「マリア様もお気をつけください」


 アリスは二人へ深く頭を下げ、部屋を出ていった。


 小さな足音が遠ざかる。


 やがて、裏口の扉が閉じる音が聞こえた。


「何を視た」


 アルファが尋ねる。


「宮殿へたどり着いたアリスが、泣いていた」


「理由は」


「分からない」


「死ぬ未来ではないんだな」


「少なくとも、ぼくが視た範囲では」


「ならば行かせる」


「泣くと分かっていても?」


「泣く未来を避けるために、必要なことまでやめるわけにはいかない」


 アルファは鞄を背負った。


「それに、お前は未来を決定事項として扱うなと言った僕の言葉を、さっそく忘れたのか」


「忘れてはいないよ。ただ、君がぼくの予言を信用するとは思わなかった」


「必要なときには聞くと言ったはずだ」


 マリアは穏やかに微笑んだ。


「そうだったね」


 そのときだった。


 遠くから、鐘の音が聞こえた。


 一度。


 二度。


 三度。


 続いて、地鳴りにも似た怒号が風に乗って届く。


 マリアの笑みが消えた。


「早い」


「何がだ」


「ぼくが視たよりも早く来た」


 アルファは窓へ近づき、カーテンの隙間から通りを見た。


 日没にはまだ早い。


 それでも、通りの先には無数の炎が揺れていた。


 松明を手にした人々が、屋敷へ向かって押し寄せてくる。


「悪魔を引き渡せ!」


「大洪水を招く魔女をかくまうな!」


「アヒルどもに国を売った偽帝を許すな!」


「黒騎士を引きずり出せ!」


 アルファはカーテンを閉じた。


「予定変更だ。すぐに出る」


「東の道は」


「もう安全とは限らない」


「君が行動を変えたから、向こうの動きまで変わったのかな」


「考えるのはあとだ」


 アルファは認識疎外のキセルへ火を入れた。


 薄い煙が二人の身体を包む。


 続いて、マリアへ外套を投げ渡した。


「銀髪を隠せ。顔も伏せていろ」


「君の手を握っても?」


「迷子になりたいなら離せ」


「それでは、遠慮なく」


 マリアはアルファの左手を握った。


 細い指が強く絡む。


 アルファは一度だけその手を見下ろし、何も言わずに握り返した。


     ◆◆◆


 二人が馬小屋へたどり着いたとき、正門が激しく揺れていた。


「門を開けろ!」


「魔女を出せ!」


「救済を拒む者も悪魔だ!」


 木材がきしみ、金具が悲鳴を上げている。


 アルファは黒馬へ鞄をくくりつけると、鞍へ飛び乗った。


 マリアへ手を差し出す。


「乗れ」


「こういうときは、ずいぶん紳士的なんだね」


「置いていくぞ」


「照れなくてもいいじゃないか」


 マリアがその手を取った瞬間、正門の方角から大きな破砕音が響いた。


 門が破られた。


「裏へ回れ!」


「悪魔を逃がすな!」


 アルファはマリアを自分の後ろへ引き上げ、馬の腹を蹴った。


 黒馬が馬小屋を飛び出す。


 しかし、裏庭にもすでに数人の男が回り込んでいた。


「いたぞ!」


「あれが赤い目の魔女だ!」


 男の一人が石を投げた。


 アルファは振り返らずに身体を傾け、マリアをかばった。


 石が後頭部へ当たる。


「アルファ!」


「この程度で叫ぶな」


「血が出ている!」


「死にはしない」


 アルファは馬を走らせた。


 前方を塞ごうとした男たちの間を抜け、裏門を突破する。


 細い路地へ入ったところで、新たな石が飛んできた。


 今度は肩へ当たった。


「止まれ、黒騎士!」


「魔女を守るつもりか!」


 路地の先からも、松明を持った人々が現れた。


 アルファの右手が剣の柄へ伸びる。


 だが、抜かなかった。


 手綱を引き、黒馬の進路を脇道へ変える。


 狭い道を駆け抜けながら、積み上げられていた木箱を蹴り倒した。


 追っ手が悲鳴を上げる。


「君なら、あの人たちを倒せるだろう」


 マリアが尋ねた。


「できることと、してよいことは違う」


「君へ石を投げたのに?」


「あれだけでは、臣民へ剣を向ける理由にならない」


「殺されそうになっても?」


「そのときは話が別だ」


 アルファは前方から振り下ろされた棒を腕で受け止めた。


 相手を斬る代わりに、馬の勢いを利用して弾き飛ばす。


「教団が欲しいのは、黒騎士が悪魔を守るために民を虐殺したという事実だ。わざわざ与えてやる必要はない」


 路地を抜ける直前、マリアが振り返った。


「あ……」


 屋敷の方角から、黒い煙が立ち上っていた。


 何者かが投げ込んだ松明が、庭へ落ちたのだろう。


 白いカーネーションの花畑へ、赤い炎が広がっていく。


「アルファ、花が!」


「振り返るな」


「でも、あれは君の大切な――」


「花は植え直せる」


 アルファは前を向いたまま言った。


「屋敷も建て直せる。お前やアリスの命とは違う」


 マリアは何も答えなかった。


 ただ、アルファの身体へ回した腕へ力を込める。


 二人の背後で、白いカーネーションが一輪ずつ炎に包まれていった。


     ◆◆◆


 帝都を抜けた二人は、街道から外れて森へ入った。


 日が沈む頃には、追っ手の声も聞こえなくなっていた。


 木々の間を、黒馬が慎重に進んでいく。


「どこへ向かっているんだい?」


「山小屋だ」


「誰の?」


「陛下と僕が、昔使っていた」


「皇帝陛下と君が?」


「陛下がまだ皇太子だった頃、宮殿を抜け出すたびに使っていた」


「君も一緒に抜け出していたのかい?」


「僕は連れ戻す側だ」


「でも、何度も行っていた」


「何度も迎えに行かされたからな」


「君たちは、本当に仲がよいんだね」


「陛下と臣下だ」


「はいはい」


 木々の向こうに、小さな山小屋が見えてきた。


 古びてはいるが、屋根も壁も残っている。


 アルファは馬を止め、鞍から降りた。


 続いてマリアへ手を差し出す。


 しかし、彼女はその手を取らなかった。


「どうした」


「待って」


 マリアの赤い瞳が、暗い森の奥へ向けられている。


「誰かいる」


 アルファは即座に剣を抜き、マリアの前へ出た。


「出てこい」


 返事はなかった。


 代わりに、森の奥で青白い光が走る。


 地面を這った雷が、一頭の狼の姿を作り出した。


「驚かせてしまいましたかな」


 穏やかな声とともに、木々の間から男が現れる。


 白い法衣をまとった初老の男。


 慈愛に満ちた微笑。


 左手には、金属の留め具で閉じられた分厚い魔術書を抱えている。


「教祖チース」


 アルファが剣先を向けた。


「お会いできて光栄です、皇帝陛下の剣」


 チースは丁寧に頭を下げた。


 敵意を向けられているとは思えないほど、落ち着いた態度だった。


「マリアを連れ戻しに来たのか」


「連れ戻すなど、とんでもない」


 チースの視線が、アルファの背後へ向けられる。


「ワタクシはただ、迷っている哀れな子供へ、帰る場所を示しに来たのです」


 マリアの身体がわずかに震えた。


 チースは優しく呼びかけた。


「あなたがいなくなってから、教団では多くの人々が不安に苦しんでいます」


「……ぼくがいなくても、教団は予言を発表していた」


「あれは、あなたが残してくださった言葉を整理したものにすぎません」


 チースは悲しげに目を伏せた。


「毎日、教団の門前には人々が列を作っています。子供の病を治したい母親。戦地から帰らぬ夫を待つ妻。明日の食事にも困る老人。皆、あなたの予言を求めているのです」


「ぼくには、病気を治す力も、食べ物を生み出す力もない」


「しかし、危険を知ることはできます」


 チースの声は、どこまでも穏やかだった。


「あなたが未来を語ってくだされば、救えた命があったかもしれない。避けられた悲しみがあったかもしれない」


 マリアの指が外套の裾を握る。


「それでも、御自分一人の自由を選ぶのですか?」


「黙れ」


 アルファが二人の間へ割って入った。


「お前が民衆を屋敷へ差し向けたのか」


「差し向けたとは心外です」


 チースは困ったように眉を下げた。


「ワタクシは、帝都の皆様へ真実をお伝えしただけです。大洪水が迫っていること。その危機を知る少女が、皇帝の騎士に連れ去られたことを」


「マリアが魔王の子孫だという話も真実か」


「彼女の赤い瞳こそ、何よりの証拠でしょう」


「根拠になっていない」


「民が何を信じるかは、ワタクシが決めることではありません」


「信じるよう仕向けておいて、よく言う」


 アルファは剣を下ろさなかった。


「門が倒れれば、お前の信徒にも死者が出ていた」


 チースの表情に、深い悲しみが浮かぶ。


「犠牲はワタクシも望んでおりません」


「ならば、なぜ止めなかった」


「目前に迫る大洪水で失われる無数の命を思えば、時として避けられぬ痛みもございます。より多くを救うため、最も損失の少ない未来を選ばなければならない。世界は、それを求めているのです」


 その一瞬だけ、チースの視線がアルファたちを外れた。


 誰もいない宙を見つめ、そこにいる何者かの言葉を確かめるように。


「避けられないのではない。お前が選んだんだ」


 チースの瞳が、わずかに細くなる。


 だが、微笑は崩れなかった。


「あなたは誠実な方だ」


「何?」


「魔力をほとんど持たず、それでも皇帝の剣として生きてこられた。努力と忠誠だけで、今の地位まで登り詰めたのでしょう」


「何が言いたい」


 チースは静かに言った。


「皇帝に与えられた役割を果たすことでしか、御自分の価値を確かめられない」


 アルファの目つきが鋭くなる。


「陛下と僕の関係を、お前に語られる筋合いはない」


「怒らせてしまいましたかな。ですが、ワタクシはあなたを責めたいのではありません」


 チースは右手を差し出した。


「彼女をこちらへ。そうすれば、あなたまで悪魔の共犯者として民から憎まれる必要はない」


「断る」


「皇帝の命令に従うためですか?」


「違う」


 アルファは背後のマリアへ、一度だけ視線を向けた。


「戻るかどうかは、マリアが決める」


 マリアが息を呑む。


「ただし、恐怖や罪悪感で選ばされた答えを、僕は本人の意思とは認めない」


 チースの微笑がわずかに強張った。


「その娘は、まだ自分で正しい判断を下せません」


「だから地下へ閉じ込めたのか」


「保護したのです」


「鎖につないで?」


「力の使い方を誤れば、大勢が混乱します」


「自分以外が使うことを、誤りと呼んでいるだけだろう」


 短い沈黙が落ちた。


 チースは再びマリアを見る。


「聖女よ。よく考えなさい」


 先ほどまでと変わらない、優しい声だった。


「その騎士は、今はあなたを人として扱っているように見えるでしょう。しかし、いずれ理解します。未来を知る力がどれほど便利かを」


「……アルファは、ぼくに予言を強要しない」


「今は、です」


 チースの笑みが深くなる。


「人間は力を前にすれば変わります。皇帝も、この騎士も例外ではありません」


「お前と一緒にするな」


「ワタクシだけが、あなたの苦しみを理解しているのです」


 チースはマリアへ手を伸ばした。


「帰りましょう。あなたが使命を果たせば、人々はあなたを必要としてくれる。役に立つ限り、誰もあなたを捨てません」


 マリアの顔から血の気が引いた。


 その言葉は、彼女が長い間信じ込まされてきたものだった。


 役に立たなければ、必要とされない。


 未来を語らなければ、生きている意味がない。


「役に立つ限り、か」


 アルファが呟く。


「自分で言っていて、異常だと思わないのか」


「あなたに何が分かるのです」


 チースの声から、ほんの一瞬だけ温度が消えた。


 しかし、すぐに穏やかな表情へ戻る。


「これ以上の話し合いは難しいようですね」


 チースが魔術書を開いた。


 風もないのに、頁が凄まじい勢いでめくれていく。


「どうやって、この場所を知った」


「知っていたわけではありません」


 青白い狼がチースの足元へ戻った。


「屋敷の周囲へ、雷の獣を放っておきました。目に見えず、足音も立てず、馬の匂いをどこまでも追う忠実な獣を」


「最初から、群衆にマリアを捕らえさせるつもりはなかったのか」


「混乱の中で、あなた方が屋敷を出てくだされば十分でした」


 チースは微笑んだ。


「民衆というものは便利です。自分たちが正義を行っていると思わせれば、どれほど危険な役目でも喜んで引き受けてくれる」


「先ほどは、善良な民だと言っていたな」


「善良だからこそ、扱いやすいのです」


 チースの仮面に、小さな亀裂が入った。


「聖女を渡しなさい。これは最後の警告です」


「断る」


「そうですか」


 魔術書の頁が止まった。


「残念です」


 言葉と同時に、アルファが地面を蹴った。


 狙いはチース本人ではない。


 左手に抱えられた魔術書。


 魔術師は術式の補助となる書物を失えば、複雑な魔術を維持できない。


 剣が魔術書を切り裂こうとする。


「予想どおりです」


 刃が触れる寸前、チースの身体が青白い雷へ変わった。


 剣が空を切る。


 雷となったチースは、数歩離れた場所で人の姿へ戻った。


「あなたが魔術師と対峙した際、最初に魔術書を狙うことは調べてあります」


 魔術書の頁が再び動く。


「剣を振るう際、右足を半歩深く踏み込むことも」


 チースの右手から雷撃が放たれた。


 アルファは剣を振り、正面から雷を切り裂く。


 刃の左右を青白い光が走り、周囲の木々を焦がした。


「皇帝の剣については、十分に研究しました」


 地面を走る雷が、一頭、また一頭と狼の姿へ変わっていく。


 三体。


 五体。


 八体。


 最後には、十三体の雷狼が二人を囲んでいた。


「一人で戦うあなたは強い。しかし、守るべき者がいれば動きは鈍る」


「マリア、僕の後ろから出るな」


 一頭目が正面から飛びかかる。


 アルファは身を沈め、その首を切断した。


 狼の身体が青白い火花となって消える。


 直後、左右から二頭が迫る。


 一頭を蹴り飛ばし、もう一頭の爪を剣で受け流す。


 背後からマリアへ飛びかかった狼には、振り返らずに剣を突き出した。


 刃が狼の顎を貫く。


「見事です」


 チースは魔術書を抱えたまま、静かに称賛した。


「ですが、それも想定の範囲内」


 消滅したはずの狼が、地面を走る雷から再び形を作る。


 魔術書が存在する限り、何度でも生み出せるらしい。


 四頭の狼が同時に飛びかかった。


 アルファは一頭を切り裂き、二頭目の牙を剣の腹で受け止める。


 三頭目を肩で弾き、地面へ叩きつけた。


 しかし、四頭目までは防ぎきれない。


 鋭い爪が左腕を切り裂いた。


「アルファ!」


「浅い傷だ」


 黒いシャツへ血がにじむ。


「君だけなら、勝てるのか」


 背後からマリアが尋ねた。


「余計なことを考えるな」


「ぼくがいなければ、自由に動ける」


「お前を守るために戦っている。お前が出ていけば、戦う意味がない」


「本当に愚かな方だ」


 チースが首を横へ振った。


「その娘一人のために、命を捨てるおつもりですか」


「人の命を数で比べる趣味はない」


「それでは国は治められません」


「国を治めるのは僕ではない」


「皇帝も同じです。その娘一人を手放せば、帝都の混乱は収まる。それでも手放さないというなら、為政者として失格でしょう」


「混乱を起こした本人が言うな」


 アルファは迫った狼を両断した。


 その死角から、二頭目がマリアへ向かう。


 アルファは身を翻し、進路へ割り込んだ。


 狼の牙が右肩へ食い込む。


「ぐっ……!」


 剣の柄を狼の頭へ叩き込み、強引に引き剥がす。


 肩から血が流れた。


「アルファ!」


「前へ出るな!」


 アルファはマリアの前から動かなかった。


 その姿を、チースは冷ややかに見つめている。


「あなたが倒れれば、聖女は教団へ戻ります」


「戻らない」


 マリアが言った。


「何です?」


「ぼくは、もう戻らない」


「我がままを言ってはいけません」


 チースの声には、子供を諭すような響きがあった。


「あなたがいなければ、大洪水に備えることができない。多くの者が死ぬのです」


「ぼくを閉じ込めても、洪水は止められない」


「それでも、ワタクシにはあなたが必要です」


「ぼくの力が、だろう」


 チースの微笑が消えた。


「同じことです」


「違う」


「違いません!」


 初めて、チースの声が森へ響いた。


「あなたは予言をするために生かされている! 与えられた役割を離れ、世界を乱すことに何の価値があるというのです!」


 静寂が訪れた。


 チース自身も、言葉を発したあとで仮面が剝がれたことに気づいたらしい。


 口元へ微笑を戻そうとする。


 しかし、もう遅かった。


「なるほど」


 アルファが低く言った。


「ようやく本音が聞けた」


「黙りなさい」


「救済も、大洪水も、最初からどうでもいいんだな」


「黙れ!」


 チースが魔術書へ手を叩きつけた。


 十三体の狼が、一斉にアルファへ襲いかかる。


 マリアの赤い瞳に、無数の未来が流れ込んだ。


 アルファが雷狼に食い殺される未来。


 自分が教団へ連れ戻される未来。


 山小屋が炎に包まれる未来。


 帝都の人々が洪水に呑まれる未来。


 チースが皇帝の前で勝ち誇る未来。


 どれほど探しても、確実に二人が助かる未来は見つからない。


 ただ一つ。


 その先だけが、深い霧に覆われたように見えない未来があった。


「アルファ」


「何だ!」


「この先だけ、うまく視えない」


「なら、何もするな!」


「嫌だ」


「マリア!」


「君は言った。未来は命令ではないと」


 アルファの死角。


 地面の下を走っていた雷が集まり、十四頭目の狼が姿を作る。


 チースが隠していた一頭。


 ほかの狼に気を取られたアルファは気づかない。


「ぼくは今まで、視えた未来に従って生きてきた」


 十四頭目の狼が地面を蹴る。


「君が迎えに来ることも、帝国が滅びることも、全部決まっていると思っていた」


 マリアは走った。


 アルファの身体へ飛びつき、強引に押し倒す。


 直後、十四頭目の狼が二人の頭上を通り過ぎた。


「何をする!」


「視えないなら、ぼくが選べる」


 マリアは倒れたアルファの上へ覆いかぶさった。


「この先に何が起きるか、ぼくにも分からない。だから、これは予言じゃない」


「マリア、どけ! 次が来る!」


「ぼくからのお願いだ」


 マリアはアルファの頬へ手を添えた。


「ぼくを信じて、目を閉じてくれ」


「何を――」


 答えを待たず、マリアはアルファの唇へ自分の唇を重ねた。


 熱い魔力が、アルファの身体へ流れ込む。


 炎よりも熱く、血よりも濃い。


 赤い光が、二人を包み込んだ。


「何をした」


 チースの顔が歪む。


「その力は――」


 三頭の雷狼が、倒れた二人へ飛びかかる。


 アルファはマリアの腰を左腕で抱いた。


 閉じた瞼の裏に、見たことのない光景が浮かぶ。


 狼の爪が通る場所。


 牙が届く瞬間。


 まだ起きていない、ほんのわずか先の未来。


 アルファは上半身を起こし、剣を振った。


 一閃。


 三頭の狼が同時に切り裂かれる。


「な……」


 チースの顔から、完全に余裕が消えた。


 アルファはマリアを抱いたまま立ち上がる。


 ゆっくりと、閉じていた瞼を開いた。


 左目は、黒曜石のような黒。


 そして右目は、血よりも鮮やかな赤。


「その眼は……」


 チースの声が震えた。


 驚愕ではない。


 怒りだった。


「その力はワタクシのものだ!」


 森中へ響き渡る声で、チースが叫ぶ。


「ワタクシの許可なく、その男へ渡すな!」


 赤い右目で、アルファは教祖を見据えた。


「やはり、救いたかったのは世界ではないらしいな」


 十三体の雷狼が、一斉にアルファへ牙を剥く。


 だが、そのすべての動きが、今の彼にはすでに見えていた。

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