第5話 燃えるカーネーション
「何人来る」
アルファは、砕けた植木鉢を見下ろしながら尋ねた。
白いカーネーションが土の上に倒れている。その花弁には、投げ込まれた石の破片が食い込んでいた。
マリアは答えなかった。
赤い瞳を見開き、今ここには存在しない何かを見つめている。
夕闇の中で揺れる無数の松明。
正門へ殺到する人々。
耳を覆いたくなるほどの怒号。
踏み荒らされる花畑。
燃え上がる屋敷。
いくつもの光景が重なり、互いを塗り潰していく。
「マリア」
「……分からない」
ようやく、マリアが口を開いた。
「視るたびに数が変わる。三十人ほどの未来もあれば、百人を超えている未来もある」
「いつだ」
「日が沈んでから。それほど遅くはない」
「死者は出るか」
マリアの喉が小さく動いた。
「君が屋敷に残れば、出る」
「僕が殺すのか」
「それだけじゃない。門が倒れて下敷きになる人がいる。火が回って逃げ遅れる人もいる。君へ剣を向けて、斬られる人も――」
「僕たちが出ていけば?」
「ぼくが教団へ戻る未来がある」
「それは選ばない」
アルファは迷わず言った。
「まだ最後まで話していないよ」
「聞く必要がない。お前を箱舟教団へ引き渡すという選択肢は、最初から存在しない」
マリアは、わずかに目を見開いた。
「陛下の命令だから?」
「それもある」
「それだけではないように聞こえるね」
アルファは、石に巻かれていた紙を拾い上げた。
乱暴な文字で、たった一言だけ記されている。
――悪魔を引き渡せ。
「お前は教団へ戻ることを望んでいない」
「ぼく一人が戻れば、大勢の人が傷つかずに済むかもしれない」
「恐怖に追い詰められて選ばされた答えを、本人の意思とは呼ばない」
「君は、本当に面倒な人だ」
「お前に言われたくはない」
アルファは紙を握り潰した。
「ほかの未来は」
マリアは再び、赤い瞳を遠くへ向けた。
「今すぐ東の裏門から屋敷を出る。森へ向かえば、彼らと出会わずに済む可能性がある」
「可能性か」
「確実ではない。ぼくが視た未来では、君は日が暮れるまでここに残っていた。でも今の君は、もう出ていくつもりでいる」
「行動すれば未来も変化するということか」
「たぶんね。新しい未来が増えるたび、古い未来が薄くなっていく」
「ならば、まだ死者の出ない道を選べる」
「何度も言うけれど、確実じゃないよ」
「未来は命令ではない。だが、警告を無視する理由にもならない」
アルファは屋敷へ向かって歩き出した。
「出発の準備をする。お前も来い」
「ぼくに荷物はないよ」
「だったら、迷子にならない準備だけしておけ」
「それは君の手を握っていればいいのかな」
「好きにしろ」
マリアは、土の上に落ちた白い花を一輪だけ拾った。
◆◆◆
アルファは騎士礼装を脱ぎ、黒いシャツと同色のズボンへ着替えた。
腰に剣を差し、机の引き出しから認識疎外のキセルを取り出す。
その間に、アリスは水や保存食、毛布を鞄へ詰めていた。
「毛布は二枚でよろしいですか?」
「僕の分は必要ない」
「必要です」
「森で一晩過ごすだけだ」
「その一晩で風邪を召されたことが、以前にもございました」
「いつの話だ」
「三年前です」
「よく覚えているな」
「閣下が御自分のお身体を軽視なさるからです」
アリスは三枚目の毛布を鞄へ押し込んだ。
その様子を見ていたマリアが、感心したように言う。
「君よりも、アリスの方がよほど騎士に向いているんじゃないかい?」
「否定はしない」
「否定してください!」
アリスが頬を膨らませた。
アルファは机の上に置かれていた書類をまとめた。
箱舟教団が配布しているマリアの人相書き。
教団施設の調査報告。
そして、石に巻きつけられていた脅迫文。
それらを革の筒へ入れ、アリスへ差し出す。
「これを持って宮殿へ行け」
アリスの表情が固まった。
「わたしだけで、ですか?」
「ああ。東の裏門から出て、川沿いの道を進め。宮殿へ着いたら、陛下か侍従長へ直接渡すんだ」
「閣下とマリア様は?」
「別の場所へ移動する」
「わたしもお供します」
「駄目だ」
「ですが――」
「僕たちが襲撃されたことを陛下へ知らせる者が必要だ。教団が民衆を扇動している証拠も届けなければならない」
「ほかの方ではいけないのですか?」
「お前だから任せる」
アリスは革の筒を胸元へ抱き寄せた。
「……必ず戻ってきてくださいますか?」
「ああ」
「本当に?」
「僕が陛下の許可なく、勝手に帝都から消えると思うか」
「思いません」
「ならば行け」
アリスは小さくうなずいた。
「承知いたしました」
部屋を出ようとしたアリスを、マリアが呼び止める。
「待ってくれ」
「はい?」
マリアは赤い瞳で、アリスの姿を見つめた。
今この部屋に立っている彼女の向こうに、いくつもの未来が浮かんでいる。
「橋を渡ったあと、二つ目の角を右へ曲がるんだ。まっすぐ進むと、教団の信徒に会う」
「分かりました」
「それから……」
マリアは言葉を止めた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。何でもない」
「マリア様もお気をつけください」
アリスは二人へ深く頭を下げ、部屋を出ていった。
小さな足音が遠ざかる。
やがて、裏口の扉が閉じる音が聞こえた。
「何を視た」
アルファが尋ねる。
「宮殿へたどり着いたアリスが、泣いていた」
「理由は」
「分からない」
「死ぬ未来ではないんだな」
「少なくとも、ぼくが視た範囲では」
「ならば行かせる」
「泣くと分かっていても?」
「泣く未来を避けるために、必要なことまでやめるわけにはいかない」
アルファは鞄を背負った。
「それに、お前は未来を決定事項として扱うなと言った僕の言葉を、さっそく忘れたのか」
「忘れてはいないよ。ただ、君がぼくの予言を信用するとは思わなかった」
「必要なときには聞くと言ったはずだ」
マリアは穏やかに微笑んだ。
「そうだったね」
そのときだった。
遠くから、鐘の音が聞こえた。
一度。
二度。
三度。
続いて、地鳴りにも似た怒号が風に乗って届く。
マリアの笑みが消えた。
「早い」
「何がだ」
「ぼくが視たよりも早く来た」
アルファは窓へ近づき、カーテンの隙間から通りを見た。
日没にはまだ早い。
それでも、通りの先には無数の炎が揺れていた。
松明を手にした人々が、屋敷へ向かって押し寄せてくる。
「悪魔を引き渡せ!」
「大洪水を招く魔女をかくまうな!」
「アヒルどもに国を売った偽帝を許すな!」
「黒騎士を引きずり出せ!」
アルファはカーテンを閉じた。
「予定変更だ。すぐに出る」
「東の道は」
「もう安全とは限らない」
「君が行動を変えたから、向こうの動きまで変わったのかな」
「考えるのはあとだ」
アルファは認識疎外のキセルへ火を入れた。
薄い煙が二人の身体を包む。
続いて、マリアへ外套を投げ渡した。
「銀髪を隠せ。顔も伏せていろ」
「君の手を握っても?」
「迷子になりたいなら離せ」
「それでは、遠慮なく」
マリアはアルファの左手を握った。
細い指が強く絡む。
アルファは一度だけその手を見下ろし、何も言わずに握り返した。
◆◆◆
二人が馬小屋へたどり着いたとき、正門が激しく揺れていた。
「門を開けろ!」
「魔女を出せ!」
「救済を拒む者も悪魔だ!」
木材がきしみ、金具が悲鳴を上げている。
アルファは黒馬へ鞄をくくりつけると、鞍へ飛び乗った。
マリアへ手を差し出す。
「乗れ」
「こういうときは、ずいぶん紳士的なんだね」
「置いていくぞ」
「照れなくてもいいじゃないか」
マリアがその手を取った瞬間、正門の方角から大きな破砕音が響いた。
門が破られた。
「裏へ回れ!」
「悪魔を逃がすな!」
アルファはマリアを自分の後ろへ引き上げ、馬の腹を蹴った。
黒馬が馬小屋を飛び出す。
しかし、裏庭にもすでに数人の男が回り込んでいた。
「いたぞ!」
「あれが赤い目の魔女だ!」
男の一人が石を投げた。
アルファは振り返らずに身体を傾け、マリアをかばった。
石が後頭部へ当たる。
「アルファ!」
「この程度で叫ぶな」
「血が出ている!」
「死にはしない」
アルファは馬を走らせた。
前方を塞ごうとした男たちの間を抜け、裏門を突破する。
細い路地へ入ったところで、新たな石が飛んできた。
今度は肩へ当たった。
「止まれ、黒騎士!」
「魔女を守るつもりか!」
路地の先からも、松明を持った人々が現れた。
アルファの右手が剣の柄へ伸びる。
だが、抜かなかった。
手綱を引き、黒馬の進路を脇道へ変える。
狭い道を駆け抜けながら、積み上げられていた木箱を蹴り倒した。
追っ手が悲鳴を上げる。
「君なら、あの人たちを倒せるだろう」
マリアが尋ねた。
「できることと、してよいことは違う」
「君へ石を投げたのに?」
「あれだけでは、臣民へ剣を向ける理由にならない」
「殺されそうになっても?」
「そのときは話が別だ」
アルファは前方から振り下ろされた棒を腕で受け止めた。
相手を斬る代わりに、馬の勢いを利用して弾き飛ばす。
「教団が欲しいのは、黒騎士が悪魔を守るために民を虐殺したという事実だ。わざわざ与えてやる必要はない」
路地を抜ける直前、マリアが振り返った。
「あ……」
屋敷の方角から、黒い煙が立ち上っていた。
何者かが投げ込んだ松明が、庭へ落ちたのだろう。
白いカーネーションの花畑へ、赤い炎が広がっていく。
「アルファ、花が!」
「振り返るな」
「でも、あれは君の大切な――」
「花は植え直せる」
アルファは前を向いたまま言った。
「屋敷も建て直せる。お前やアリスの命とは違う」
マリアは何も答えなかった。
ただ、アルファの身体へ回した腕へ力を込める。
二人の背後で、白いカーネーションが一輪ずつ炎に包まれていった。
◆◆◆
帝都を抜けた二人は、街道から外れて森へ入った。
日が沈む頃には、追っ手の声も聞こえなくなっていた。
木々の間を、黒馬が慎重に進んでいく。
「どこへ向かっているんだい?」
「山小屋だ」
「誰の?」
「陛下と僕が、昔使っていた」
「皇帝陛下と君が?」
「陛下がまだ皇太子だった頃、宮殿を抜け出すたびに使っていた」
「君も一緒に抜け出していたのかい?」
「僕は連れ戻す側だ」
「でも、何度も行っていた」
「何度も迎えに行かされたからな」
「君たちは、本当に仲がよいんだね」
「陛下と臣下だ」
「はいはい」
木々の向こうに、小さな山小屋が見えてきた。
古びてはいるが、屋根も壁も残っている。
アルファは馬を止め、鞍から降りた。
続いてマリアへ手を差し出す。
しかし、彼女はその手を取らなかった。
「どうした」
「待って」
マリアの赤い瞳が、暗い森の奥へ向けられている。
「誰かいる」
アルファは即座に剣を抜き、マリアの前へ出た。
「出てこい」
返事はなかった。
代わりに、森の奥で青白い光が走る。
地面を這った雷が、一頭の狼の姿を作り出した。
「驚かせてしまいましたかな」
穏やかな声とともに、木々の間から男が現れる。
白い法衣をまとった初老の男。
慈愛に満ちた微笑。
左手には、金属の留め具で閉じられた分厚い魔術書を抱えている。
「教祖チース」
アルファが剣先を向けた。
「お会いできて光栄です、皇帝陛下の剣」
チースは丁寧に頭を下げた。
敵意を向けられているとは思えないほど、落ち着いた態度だった。
「マリアを連れ戻しに来たのか」
「連れ戻すなど、とんでもない」
チースの視線が、アルファの背後へ向けられる。
「ワタクシはただ、迷っている哀れな子供へ、帰る場所を示しに来たのです」
マリアの身体がわずかに震えた。
チースは優しく呼びかけた。
「あなたがいなくなってから、教団では多くの人々が不安に苦しんでいます」
「……ぼくがいなくても、教団は予言を発表していた」
「あれは、あなたが残してくださった言葉を整理したものにすぎません」
チースは悲しげに目を伏せた。
「毎日、教団の門前には人々が列を作っています。子供の病を治したい母親。戦地から帰らぬ夫を待つ妻。明日の食事にも困る老人。皆、あなたの予言を求めているのです」
「ぼくには、病気を治す力も、食べ物を生み出す力もない」
「しかし、危険を知ることはできます」
チースの声は、どこまでも穏やかだった。
「あなたが未来を語ってくだされば、救えた命があったかもしれない。避けられた悲しみがあったかもしれない」
マリアの指が外套の裾を握る。
「それでも、御自分一人の自由を選ぶのですか?」
「黙れ」
アルファが二人の間へ割って入った。
「お前が民衆を屋敷へ差し向けたのか」
「差し向けたとは心外です」
チースは困ったように眉を下げた。
「ワタクシは、帝都の皆様へ真実をお伝えしただけです。大洪水が迫っていること。その危機を知る少女が、皇帝の騎士に連れ去られたことを」
「マリアが魔王の子孫だという話も真実か」
「彼女の赤い瞳こそ、何よりの証拠でしょう」
「根拠になっていない」
「民が何を信じるかは、ワタクシが決めることではありません」
「信じるよう仕向けておいて、よく言う」
アルファは剣を下ろさなかった。
「門が倒れれば、お前の信徒にも死者が出ていた」
チースの表情に、深い悲しみが浮かぶ。
「犠牲はワタクシも望んでおりません」
「ならば、なぜ止めなかった」
「目前に迫る大洪水で失われる無数の命を思えば、時として避けられぬ痛みもございます。より多くを救うため、最も損失の少ない未来を選ばなければならない。世界は、それを求めているのです」
その一瞬だけ、チースの視線がアルファたちを外れた。
誰もいない宙を見つめ、そこにいる何者かの言葉を確かめるように。
「避けられないのではない。お前が選んだんだ」
チースの瞳が、わずかに細くなる。
だが、微笑は崩れなかった。
「あなたは誠実な方だ」
「何?」
「魔力をほとんど持たず、それでも皇帝の剣として生きてこられた。努力と忠誠だけで、今の地位まで登り詰めたのでしょう」
「何が言いたい」
チースは静かに言った。
「皇帝に与えられた役割を果たすことでしか、御自分の価値を確かめられない」
アルファの目つきが鋭くなる。
「陛下と僕の関係を、お前に語られる筋合いはない」
「怒らせてしまいましたかな。ですが、ワタクシはあなたを責めたいのではありません」
チースは右手を差し出した。
「彼女をこちらへ。そうすれば、あなたまで悪魔の共犯者として民から憎まれる必要はない」
「断る」
「皇帝の命令に従うためですか?」
「違う」
アルファは背後のマリアへ、一度だけ視線を向けた。
「戻るかどうかは、マリアが決める」
マリアが息を呑む。
「ただし、恐怖や罪悪感で選ばされた答えを、僕は本人の意思とは認めない」
チースの微笑がわずかに強張った。
「その娘は、まだ自分で正しい判断を下せません」
「だから地下へ閉じ込めたのか」
「保護したのです」
「鎖につないで?」
「力の使い方を誤れば、大勢が混乱します」
「自分以外が使うことを、誤りと呼んでいるだけだろう」
短い沈黙が落ちた。
チースは再びマリアを見る。
「聖女よ。よく考えなさい」
先ほどまでと変わらない、優しい声だった。
「その騎士は、今はあなたを人として扱っているように見えるでしょう。しかし、いずれ理解します。未来を知る力がどれほど便利かを」
「……アルファは、ぼくに予言を強要しない」
「今は、です」
チースの笑みが深くなる。
「人間は力を前にすれば変わります。皇帝も、この騎士も例外ではありません」
「お前と一緒にするな」
「ワタクシだけが、あなたの苦しみを理解しているのです」
チースはマリアへ手を伸ばした。
「帰りましょう。あなたが使命を果たせば、人々はあなたを必要としてくれる。役に立つ限り、誰もあなたを捨てません」
マリアの顔から血の気が引いた。
その言葉は、彼女が長い間信じ込まされてきたものだった。
役に立たなければ、必要とされない。
未来を語らなければ、生きている意味がない。
「役に立つ限り、か」
アルファが呟く。
「自分で言っていて、異常だと思わないのか」
「あなたに何が分かるのです」
チースの声から、ほんの一瞬だけ温度が消えた。
しかし、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「これ以上の話し合いは難しいようですね」
チースが魔術書を開いた。
風もないのに、頁が凄まじい勢いでめくれていく。
「どうやって、この場所を知った」
「知っていたわけではありません」
青白い狼がチースの足元へ戻った。
「屋敷の周囲へ、雷の獣を放っておきました。目に見えず、足音も立てず、馬の匂いをどこまでも追う忠実な獣を」
「最初から、群衆にマリアを捕らえさせるつもりはなかったのか」
「混乱の中で、あなた方が屋敷を出てくだされば十分でした」
チースは微笑んだ。
「民衆というものは便利です。自分たちが正義を行っていると思わせれば、どれほど危険な役目でも喜んで引き受けてくれる」
「先ほどは、善良な民だと言っていたな」
「善良だからこそ、扱いやすいのです」
チースの仮面に、小さな亀裂が入った。
「聖女を渡しなさい。これは最後の警告です」
「断る」
「そうですか」
魔術書の頁が止まった。
「残念です」
言葉と同時に、アルファが地面を蹴った。
狙いはチース本人ではない。
左手に抱えられた魔術書。
魔術師は術式の補助となる書物を失えば、複雑な魔術を維持できない。
剣が魔術書を切り裂こうとする。
「予想どおりです」
刃が触れる寸前、チースの身体が青白い雷へ変わった。
剣が空を切る。
雷となったチースは、数歩離れた場所で人の姿へ戻った。
「あなたが魔術師と対峙した際、最初に魔術書を狙うことは調べてあります」
魔術書の頁が再び動く。
「剣を振るう際、右足を半歩深く踏み込むことも」
チースの右手から雷撃が放たれた。
アルファは剣を振り、正面から雷を切り裂く。
刃の左右を青白い光が走り、周囲の木々を焦がした。
「皇帝の剣については、十分に研究しました」
地面を走る雷が、一頭、また一頭と狼の姿へ変わっていく。
三体。
五体。
八体。
最後には、十三体の雷狼が二人を囲んでいた。
「一人で戦うあなたは強い。しかし、守るべき者がいれば動きは鈍る」
「マリア、僕の後ろから出るな」
一頭目が正面から飛びかかる。
アルファは身を沈め、その首を切断した。
狼の身体が青白い火花となって消える。
直後、左右から二頭が迫る。
一頭を蹴り飛ばし、もう一頭の爪を剣で受け流す。
背後からマリアへ飛びかかった狼には、振り返らずに剣を突き出した。
刃が狼の顎を貫く。
「見事です」
チースは魔術書を抱えたまま、静かに称賛した。
「ですが、それも想定の範囲内」
消滅したはずの狼が、地面を走る雷から再び形を作る。
魔術書が存在する限り、何度でも生み出せるらしい。
四頭の狼が同時に飛びかかった。
アルファは一頭を切り裂き、二頭目の牙を剣の腹で受け止める。
三頭目を肩で弾き、地面へ叩きつけた。
しかし、四頭目までは防ぎきれない。
鋭い爪が左腕を切り裂いた。
「アルファ!」
「浅い傷だ」
黒いシャツへ血がにじむ。
「君だけなら、勝てるのか」
背後からマリアが尋ねた。
「余計なことを考えるな」
「ぼくがいなければ、自由に動ける」
「お前を守るために戦っている。お前が出ていけば、戦う意味がない」
「本当に愚かな方だ」
チースが首を横へ振った。
「その娘一人のために、命を捨てるおつもりですか」
「人の命を数で比べる趣味はない」
「それでは国は治められません」
「国を治めるのは僕ではない」
「皇帝も同じです。その娘一人を手放せば、帝都の混乱は収まる。それでも手放さないというなら、為政者として失格でしょう」
「混乱を起こした本人が言うな」
アルファは迫った狼を両断した。
その死角から、二頭目がマリアへ向かう。
アルファは身を翻し、進路へ割り込んだ。
狼の牙が右肩へ食い込む。
「ぐっ……!」
剣の柄を狼の頭へ叩き込み、強引に引き剥がす。
肩から血が流れた。
「アルファ!」
「前へ出るな!」
アルファはマリアの前から動かなかった。
その姿を、チースは冷ややかに見つめている。
「あなたが倒れれば、聖女は教団へ戻ります」
「戻らない」
マリアが言った。
「何です?」
「ぼくは、もう戻らない」
「我がままを言ってはいけません」
チースの声には、子供を諭すような響きがあった。
「あなたがいなければ、大洪水に備えることができない。多くの者が死ぬのです」
「ぼくを閉じ込めても、洪水は止められない」
「それでも、ワタクシにはあなたが必要です」
「ぼくの力が、だろう」
チースの微笑が消えた。
「同じことです」
「違う」
「違いません!」
初めて、チースの声が森へ響いた。
「あなたは予言をするために生かされている! 与えられた役割を離れ、世界を乱すことに何の価値があるというのです!」
静寂が訪れた。
チース自身も、言葉を発したあとで仮面が剝がれたことに気づいたらしい。
口元へ微笑を戻そうとする。
しかし、もう遅かった。
「なるほど」
アルファが低く言った。
「ようやく本音が聞けた」
「黙りなさい」
「救済も、大洪水も、最初からどうでもいいんだな」
「黙れ!」
チースが魔術書へ手を叩きつけた。
十三体の狼が、一斉にアルファへ襲いかかる。
マリアの赤い瞳に、無数の未来が流れ込んだ。
アルファが雷狼に食い殺される未来。
自分が教団へ連れ戻される未来。
山小屋が炎に包まれる未来。
帝都の人々が洪水に呑まれる未来。
チースが皇帝の前で勝ち誇る未来。
どれほど探しても、確実に二人が助かる未来は見つからない。
ただ一つ。
その先だけが、深い霧に覆われたように見えない未来があった。
「アルファ」
「何だ!」
「この先だけ、うまく視えない」
「なら、何もするな!」
「嫌だ」
「マリア!」
「君は言った。未来は命令ではないと」
アルファの死角。
地面の下を走っていた雷が集まり、十四頭目の狼が姿を作る。
チースが隠していた一頭。
ほかの狼に気を取られたアルファは気づかない。
「ぼくは今まで、視えた未来に従って生きてきた」
十四頭目の狼が地面を蹴る。
「君が迎えに来ることも、帝国が滅びることも、全部決まっていると思っていた」
マリアは走った。
アルファの身体へ飛びつき、強引に押し倒す。
直後、十四頭目の狼が二人の頭上を通り過ぎた。
「何をする!」
「視えないなら、ぼくが選べる」
マリアは倒れたアルファの上へ覆いかぶさった。
「この先に何が起きるか、ぼくにも分からない。だから、これは予言じゃない」
「マリア、どけ! 次が来る!」
「ぼくからのお願いだ」
マリアはアルファの頬へ手を添えた。
「ぼくを信じて、目を閉じてくれ」
「何を――」
答えを待たず、マリアはアルファの唇へ自分の唇を重ねた。
熱い魔力が、アルファの身体へ流れ込む。
炎よりも熱く、血よりも濃い。
赤い光が、二人を包み込んだ。
「何をした」
チースの顔が歪む。
「その力は――」
三頭の雷狼が、倒れた二人へ飛びかかる。
アルファはマリアの腰を左腕で抱いた。
閉じた瞼の裏に、見たことのない光景が浮かぶ。
狼の爪が通る場所。
牙が届く瞬間。
まだ起きていない、ほんのわずか先の未来。
アルファは上半身を起こし、剣を振った。
一閃。
三頭の狼が同時に切り裂かれる。
「な……」
チースの顔から、完全に余裕が消えた。
アルファはマリアを抱いたまま立ち上がる。
ゆっくりと、閉じていた瞼を開いた。
左目は、黒曜石のような黒。
そして右目は、血よりも鮮やかな赤。
「その眼は……」
チースの声が震えた。
驚愕ではない。
怒りだった。
「その力はワタクシのものだ!」
森中へ響き渡る声で、チースが叫ぶ。
「ワタクシの許可なく、その男へ渡すな!」
赤い右目で、アルファは教祖を見据えた。
「やはり、救いたかったのは世界ではないらしいな」
十三体の雷狼が、一斉にアルファへ牙を剥く。
だが、そのすべての動きが、今の彼にはすでに見えていた。




