第4話 白い花と黒い翼
マリアがアルファの屋敷へ来た、翌日の午後だった。
「まったく似ていないね」
執務机の向かい側で、マリアが一枚の紙を眺めながら言った。
そこには、赤い瞳と長い髪を持つ少女の似顔絵が描かれている。
絵の下には、大きな文字が添えられていた。
――魔王の血を引く悪魔。
――発見した者は、ただちに箱舟教団へ知らせよ。
「問題は絵の出来ではない」
アルファは、マリアから人相書きを取り上げた。
「お前の存在が、すでに帝都中へ知られ始めていることだ」
「ぼくが予言者であるとは書かれていない」
「教団も、それだけは公にできないのだろう。未来を視る少女を閉じ込め、その予言を利用していたと知られれば、教団の正当性が揺らぐ」
「だから、ぼくを魔王の子孫に仕立て上げた」
「そちらの方が、民衆を動かしやすいからな」
アルファは人相書きを二つに破り、机の隅へ置いた。
同じものが帝都に何百枚も出回っている以上、一枚破いたところで意味はない。それでも、目の前に置いておく気にはなれなかった。
執務机の上には、ほかにも数多くの書類が積み上がっている。
箱舟教団の施設と信徒数をまとめた報告書。
帝都各地で発生した騒動の記録。
そして、数日後に予定されているアヒル帝国との会談資料。
ローゼスは箱舟教団の排除を命じる一方で、予定どおり外交を進めるつもりらしい。
本来なら、アルファも帝都へ出て教団の動きを調べるべきだった。
しかし今、彼は屋敷から動けない。
「暇そうだね」
マリアが言った。
「これが暇そうに見えるのか」
「さっきから、同じ頁を三度読んでいる」
アルファは手元の資料へ目を落とした。
確かに、アヒル帝国の使節団名簿から先へ進んでいない。
「それも未来視か」
「違うよ。君を見ていれば分かる」
マリアは昨日と同じ答えを返し、楽しそうに笑った。
「お前を監視しながらでは、仕事に集中できないだけだ」
「アリスに任せればいいじゃないか」
「お前を魔王の子孫だと信じている者は、兵の中にもいる。誰にでも任せられるわけではない」
「つまり、君はぼくを他人へ預けたくないんだね」
「都合よく解釈するな」
アルファがにらんでも、マリアの笑みは崩れなかった。
マリアは椅子へ深く腰かけると、机に積まれた会談資料へ手を伸ばした。
「アヒル帝国との会談か」
「勝手に触るな」
「結果を教えてあげようか?」
アルファの手が止まった。
「もう視えているのか」
「断片だけならね。誰が何を言うのかも、少しは分かる」
「なら、言わなくていい」
マリアが意外そうに目を瞬かせた。
「知りたくないのかい?」
「外交まで予言に頼るつもりはない」
「失敗する未来を避けられるかもしれないよ」
「お前の言葉を聞けば、その未来を避けようとして、僕の発言も行動も変わる」
「当然だろう?」
「それでは、僕の言葉が僕自身のものなのか、お前の予言によって言わされたものなのか分からなくなる」
アルファは資料をマリアの手から取り戻した。
「未来は命令ではない。少なくとも僕は、そう考える」
「……変わった人だね」
「お前に言われたくはない」
「未来を知りたいと願う人は大勢いる。でも君は、知ることを拒む」
「必要なら聞く。だが、必要もないのに先のことを知り続ければ、今を自分で決められなくなる」
マリアはしばらく黙っていた。
いつものように笑ってはいたが、その赤い瞳はアルファの顔を注意深く観察している。
「昨日、ぼくが目を奪えばいいと言ったときも、君は怒ったね」
「あれは怒って当然だ」
「教団の者たちは違ったよ」
マリアの声から、わずかに明るさが消えた。
「ぼくの目を恐れながら、予言だけは欲しがった。自分たちに都合のよい未来が視えれば神の啓示と呼び、都合が悪ければ、もう一度視ろと命じた」
「……」
「君は、未来そのものを拒むことがあるんだね」
「拒んでいるのではない。選んでいるだけだ」
「選ぶ、か」
マリアはその言葉を確かめるように繰り返した。
「ぼくには、あまり馴染みのない言葉だ」
アルファは何かを尋ねようとした。
だが、その前にマリアは椅子から降り、話題を変えるように窓辺へ歩いていく。
窓の外には、白いカーネーションの花畑が広がっていた。
「それより、昨日の話を聞かせてくれ」
「昨日の話?」
「君をこの国へ導いた天使の話だよ」
「それなら、昨日話しただろう」
「白いカーネーションを持った者に導かれた、としか聞いていない」
マリアは窓辺で振り返った。
「君がどこから来たのか。どうしてアルファという名前なのか。どうやってローゼスと出会ったのか。何も聞いていない」
「尋問を受けるのは、お前の方だったはずだが」
「ぼくは君になら何でも答えると言ったよ」
「ふわりとした答えばかりではないか」
「なら、君が先に手本を見せてくれ」
マリアは両手を背中へ回し、期待するようにアルファを見つめた。
昨日と同じ、年相応の笑顔だった。
アルファはその笑みに弱い。
本人も、少しずつ自覚し始めていた。
「長い話ではないぞ」
「構わない」
アルファは諦め、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「僕が最初に覚えているのは、砂漠のオアシスだ」
◆◆◆
幼いアルファは、水辺に横たわっていた。
照りつける太陽。
肌を焼く砂の熱。
風に揺れる椰子の葉。
それらが何であるのかは分かっても、自分自身のことだけは何一つ思い出せなかった。
名前も、家族も、なぜ砂漠にいるのかも分からない。
身体には目立った傷がなかった。
空腹でもなければ、喉も渇いていない。
ただ、自分の中身だけがきれいに抜き取られていた。
少年は水面へ映る自分の顔を眺めていた。
黒い髪。
黒い瞳。
見覚えのない少年が、同じようにこちらを見返している。
どれほどそうしていたのかは分からない。
やがて、頭上から白いものが落ちてきた。
羽だった。
少年が空を見上げる。
青い空を背に、白い翼を持つ女性が舞い降りてきた。
長い髪も、身にまとった衣も、光を集めたように白い。
その右手には、一輪の白いカーネーションが握られていた。
女性は少年を見ると、困ったように眉を下げた。
『こんなところへ放置するなんて、ルシフェルも何を考えているんだか』
女性は少年の顔をしばらく見つめ、誰かと比べるように目を細めた。
『それにしても、やっぱりぜんぜん似ていないわね』
少年には、その言葉の意味が分からなかった。
それでも、女性が自分を知っているらしいことだけは理解できた。
『あなたは、誰?』
少年が尋ねると、女性は少し考えた。
『今は、知らなくていいわ』
『ぼくは、誰?』
『あなたは――』
女性は少年の前へ膝をついた。
白いカーネーションを持った手で、少年の黒い髪へ触れる。
『アルファ』
『アルファ』
『そう。それが、あなたの名前』
少年は、与えられたばかりの名前を繰り返した。
何もなかった自分の中に、初めて一つのものが生まれた。
『ここから北へ向かいなさい』
女性は砂漠の向こうを指さした。
『道をまっすぐ進めば、あなたの運命が待っているわ』
『運命?』
『あなたが守るべき人よ』
『あなたは、一緒に来ないの?』
女性は寂しそうに微笑んだ。
『わたしが導けるのは、ここまで』
白い翼が広がる。
吹き起こった風に、少年は思わず目を閉じた。
次に目を開いたとき、女性の姿は消えていた。
残されていたのは、一枚の白い羽だけだった。
少年はそれを拾い、女性に教えられた道を歩いた。
どこまで進めばよいのか。
何が待っているのか。
何も分からないまま、ただ歩き続けた。
やがて砂漠を抜けた少年は、街道の先で剣戟の音を聞いた。
数人の男たちが、一台の馬車を襲っていた。
護衛の兵はすでに倒れ、金髪の少年が一人、血のついた剣を握って立っている。
後に皇帝となる、皇太子ローゼスだった。
刺客の一人が、ローゼスの背後から剣を振り上げた。
アルファは地面へ落ちていた剣を拾い、その男へ向かって走った。
なぜ、そうしたのかは分からない。
ただ、天使の言葉を思い出していた。
――あなたが守るべき人。
その日、アルファはローゼスの命を救った。
そしてローゼスは、名と記憶以外の何も持たない少年へ手を差し伸べた。
『余の騎士になれ』
それが、二人の始まりだった。
◆◆◆
「それだけだ」
話を終えたアルファは、机の上の資料へ視線を戻した。
「陛下を救った褒美として宮殿へ迎えられ、剣と礼儀を教わった。今の僕があるのは、陛下のおかげだ」
返事がない。
アルファが顔を上げると、マリアは窓辺に立ったまま、何かを考え込んでいた。
「どうした」
「……その天使は、本当にルシフェルと言ったのかい?」
「ああ」
「聞き間違いではなく?」
「そこまで何度も確認されると、自信がなくなってくるな」
アルファは記憶をたどる。
「だが、そう言ったはずだ。『ルシフェルも何を考えているんだか』と」
マリアの表情が強張った。
「お前は、その名を知っているのか」
「この国の古い伝説に出てくる」
「どんな伝説だ」
「ルシフェルは、魔王の傍らにいた天使だよ」
「魔王の?」
「ああ。魔王と共に国々を滅ぼしたとも、魔王を裏切ったともいわれている。伝承によって話は違うけれど、魔王と深い関わりがあったことだけは共通している」
「では、僕を導いた天使が、そのルシフェルだったのか?」
「違うと思う」
マリアはすぐに否定した。
「君が見たのは白い翼の女性だろう? 伝説のルシフェルは、漆黒の翼を持つ天使だ」
「なら、あの天使はルシフェルを知っていたことになる」
「そうだね」
マリアは、自分の腕を抱くように手を添えた。
いつもの余裕に満ちた態度は消えている。
「君の過去には、魔王と関わりのある天使がいる」
「お前の赤い目といい、ずいぶん魔王に縁のある話が続くものだな」
「……ぼくと一緒にしないでくれ」
「それほど嫌か」
マリアは答えなかった。
その沈黙が、アルファには意外だった。
いつもなら、魔王の子孫と呼ばれても笑って受け流す。だが今は、何かに怯えているようにも見える。
「なぜ、そんな伝説を知っている」
「教団の書庫で読んだ」
「一般には知られていない伝説なのだろう?」
「教団には、普通の図書館にはない本もあったからね」
「書名は?」
「……忘れたよ」
マリアは窓の外へ視線を戻した。
明らかに、何かを隠している。
アルファがさらに問いただそうとした、そのときだった。
窓の外で、何かが割れる音がした。
アルファは椅子を蹴るように立ち上がり、剣を手に窓へ駆け寄る。
庭の石畳に、一つの植木鉢が落ちていた。
白いカーネーションを植えていた鉢だ。
塀の外から投げ込まれた石が当たり、砕けたらしい。
土の上へ倒れた白い花のそばに、石へ巻きつけられていた紙が落ちている。
アリスが屋敷から飛び出そうとした。
「待て、アリス!」
アルファが制止する。
窓を開ける前に外の気配を探ったが、すでに人の気配は遠ざかっていた。
アルファは庭へ出て紙を拾い上げる。
そこには、乱れた文字で一言だけ書かれていた。
――悪魔を引き渡せ。
「閣下……」
後ろから紙をのぞき込んだアリスが、不安そうな声を出した。
「戸締まりを確認しろ。今夜は門を開けるな」
「はい」
「馬には十分な水と餌を与えておけ。それから、僕の荷物をいつでも持ち出せるようにしておいてくれ」
「どこかへ行かれるのですか?」
「念のためだ」
アルファは屋敷を見回した。
ローズ帝国の皇帝に与えられた、小さな屋敷。
自分とアリスだけで暮らしてきた場所。
ここへ民衆が押し寄せれば、戦うことは難しくない。
だが、相手は帝国の臣民だ。
皇帝の命令もなく、彼らへ剣を向けるわけにはいかない。
「マリア」
アルファは振り返った。
マリアは窓辺から動いていなかった。
その赤い瞳は、砕けた植木鉢ではなく、何もない空間を見つめている。
「どうした」
返事がない。
「何か視えているのか」
マリアの肩が、小さく震えた。
赤い瞳の奥を、いくつもの光景が流れている。
夜。
松明。
怒号。
破られる門。
割れる窓。
踏み荒らされる白いカーネーション。
そして、炎に包まれる屋敷。
「マリア!」
アルファの声に、マリアはようやく現実へ戻った。
彼女は息を整えると、アルファをまっすぐに見つめた。
昨日、未来を証明するために襲撃を黙っていたときとは違う。
今度は、すぐに口を開いた。
「アルファ」
その声には、いつもの冗談めいた響きがなかった。
「今夜、大勢の人間がここへ来る」
風が吹き抜ける。
砕けた鉢のそばで、土に汚れた白いカーネーションが静かに揺れていた。




