第3話 カーネーションの旗印
「何? このアルファがか?」
ローゼスは、思わず目を瞬かせた。
マリアが指さした先では、アルファ自身も信じられないものを見るように、自分の胸元へ視線を落としている。
「はい。彼は陛下のために、箱舟を造ります」
「待て。僕はまだ、お前の予言を信じたわけではない」
アルファが険しい声で割って入る。
マリアは彼の言葉など予想していたように、にこりと笑った。
少女らしい微笑みのはずなのに、どこか背筋を冷たくさせるものがあった。
「では、少しだけ信じてもらおうか」
「何をするつもりだ」
「今からぼくが三つ数える」
マリアは小謁見室の扉へ顔を向けた。
「三つ数え終わったとき、武装した二人の男がこの部屋へ入ってくる。目的は皇帝の暗殺だ」
アルファの手が、反射的に腰の剣へ伸びた。
「それを先に言え!」
「一つ」
マリアが数え始める。
アルファは息を潜め、意識を扉の向こうへ集中させた。
足音。
複数。
廊下を走って近づいてくる。
「陛下、お下がりください」
アルファはローゼスと扉の間へ立った。
「二つ」
扉の外で、何かが床へ倒れる音がした。
続いて、短くくぐもった声。
警護の兵が襲われたのだ。
アルファは鞘から剣を抜き、扉へ向かって駆ける。
直後、扉が乱暴に開かれた。
武装した二人の男が、剣を構えたまま室内へ踏み込んでくる。
「三つ」
「ローゼス! 異種族に国を売った偽帝め! その首を――」
「遅い!」
一人目の剣が振り下ろされるより先に、アルファの刃がその軌道へ割り込んだ。
金属同士が激しくぶつかる。
アルファは相手の剣を外側へ弾くと、剣の柄頭を男の顎へ叩き込んだ。
男の身体が崩れ落ちる。
二人目がその脇を抜け、ローゼスへ向かおうとした。
アルファは踏み込み、剣を返す。
刃ではなく峰が、男の手首を正確に打った。
剣が床へ落ちる。
続けざまに足を払うと、男は背中から床へ倒れ込んだ。
アルファは、その喉元へ剣先を突きつける。
「動くな」
男は憎悪をむき出しにしてアルファをにらんだが、抵抗はしなかった。
「近衛兵!」
アルファが声を上げる。
隣室に控えていた六人の近衛兵が、すぐさま小謁見室へ入ってきた。
兵たちは鮮やかな赤い上着と帽子を身につけている。整然とした姿は、玩具の兵隊を思わせる。
「二人とも生きている。治療したうえで尋問しろ。外で倒れている者の救護も忘れるな」
「はっ!」
近衛兵たちは男たちを拘束し、室外へ連れ出していった。
静けさを取り戻した部屋に、マリアの声が響く。
「お見事です、ぼくの聖騎士様」
「お前……襲撃を知っていたなら、なぜもっと早く言わなかった」
「早く伝えれば、君は警備を増やしただろう? そうすれば、彼らは襲撃を諦めていた」
「それでよいだろうが!」
「でも、それではぼくの力を信じてもらえない」
アルファの表情から、わずかに温度が消えた。
「人の命を、証明の道具に使ったのか」
「誰も死なないことは視えていたよ」
「お前の視えた未来が、必ずそのとおりになる保証はないと言ったのは誰だ」
マリアは答えなかった。
笑みも、少しだけ薄れている。
「アルファ」
ローゼスの声が、二人の間へ割って入った。
振り返ると、ローゼスは玉座へ腰かけたまま、マリアを注意深く見つめていた。
先ほどまでの楽しげな笑みはない。
「その者の未来視が本物である可能性は高まった。だが、今の襲撃をマリア自身が手引きした可能性も残る」
「陛下のおっしゃるとおりです」
「マリア。違うというなら、いずれ証明してみせよ」
「承知いたしました」
マリアは優雅に頭を下げた。
「アルファ、お前が見極めろ」
「僕が、ですか」
「余の死も、大洪水も、箱舟も、本当かどうか確かめよ。それに、この者を一人にすれば何をするか分からぬ」
「それは僕も同意しますが……」
「マリアには護衛と監視が必要だ。しばらく、お前の屋敷で預かれ」
アルファは、ローゼスを見た。
次に、どこか嬉しそうなマリアを見た。
「陛下。それは護衛というより、僕への罰ではありませんか」
「余の命を救う箱舟を造る者なのだろう? 予言者一人くらい面倒を見よ」
「陛下」
「決定だ」
ローゼスは、ようやく普段の笑みを取り戻した。
「二人とも、下がってよい」
◆◆◆
宮殿の玄関には、すでに馬車が用意されていた。
御者台には宮廷付きの御者が座り、その隣でアリスが二人を待っている。
馬車へ向かう途中、アルファはマリアへ尋ねた。
「お前は、その目で未来を“視る”のか」
「ああ。生まれたときからね」
「どこまで視える」
「何でも、というわけではないよ」
マリアは歩きながら、自分の赤い目へ指を添えた。
「強く結びついた未来の断片が、突然流れ込んでくる。いつ、どこで起きるのか分からないものも多い。未来が枝分かれすれば、違う光景が重なって視えることもある」
「先ほどの襲撃は?」
「あれは、かなり強く視えていた。君が二人を殺さずに倒すところまでね」
「だから黙っていたのか」
「君なら助けられると思った」
「勝手に僕を信じるな」
「無理だね」
マリアは、芝居がかった仕草で両手を広げた。
「ぼくはずっと、君が現れる未来を見て生きてきた。魔王のようで気味が悪いと、あちらこちらをたらい回しにされてもね」
その声から、わずかに明るさが消えた。
「でも、ぼくには分かっていた。いつか聖騎士様が迎えに来ると」
「僕は陛下の騎士だ。お前の騎士になった覚えはない」
「不敬だぞ、と次は言うのかな?」
「それも視えたのか」
「いいや」
マリアは楽しそうに笑う。
「君はとても分かりやすい」
「……」
二人は馬車へ乗り込んだ。
アリスも御者台の隣から車内へ移り、アルファの向かい側へ腰かける。
馬車がゆっくりと走り出した。
窓の外へ宮殿の風景が流れていく。
しばらくして、マリアが小さく息を吐いた。
「そんなにぼくが不安なら、この目を奪ってしまえばいい」
アルファは眉をひそめた。
「未来視の力は、この目に宿っている。目を失えば、ぼくに帝国を揺るがすような力はなくなるだろう」
「なぜ、それを僕に教える」
「君なら、そんなことをしないと盲信しているからさ」
マリアは笑っていた。
だが、それは先ほどまでの余裕に満ちた笑みとは違う。
拒絶されることを確かめようとしているような、不自然な微笑みだった。
「二度と、そんなことを軽々しく口にするな」
アルファの低い声に、アリスが驚いて背筋を伸ばした。
マリアも、一瞬だけ目を見開く。
「怒ったのかい?」
「お前の目を奪って安全になるのは、お前を恐れている者だけだ。帝国が救われるわけではない」
「でも、この目がなければ――」
「力が危険なら、使い方を制限する。嘘をついたなら調べる。罪を犯したなら裁く」
アルファは、まっすぐにマリアを見た。
「だが、何もしていない者の目を奪うことを、安全とは呼ばない」
マリアは何も言わなかった。
ただ窓の方へ顔を向ける。
流れていく景色を見つめる横顔には、今までになかった幼さが浮かんでいた。
◆◆◆
「へえ。ここが君の屋敷かい」
馬車を降りたマリアは、屋敷をじっくり眺めた。
「ずいぶん小さいんだね」
「それは視えていなかったのか」
「何でもかんでも視ていたら、頭が壊れてしまうよ。勝手に流れ込んでくる未来だけでも、十分に疲れる」
「そういうものか」
「そういうものさ」
マリアは軽やかに馬車から飛び降りた。
そしてアルファが止めるより先に、屋敷の庭へ歩いていく。
「おい、勝手に動くな」
アルファは仕方なく、その後を追った。
マリアは庭の一角で足を止めた。
そこには、白いカーネーションが一面に咲いている。
「……綺麗だね」
「アリスが手入れをしている」
少し遅れてやってきたアリスが、誇らしそうに胸を張った。
「毎朝、お水をあげているんですよ!」
「そうか。大切にされているんだね」
マリアは花畑へ顔を近づけた。
銀色の髪が、白い花の上へ柔らかく垂れる。
アルファも彼女の隣に立ち、風に揺れるカーネーションを眺めた。
「カーネーションは、君の旗印だったね」
マリアは屋敷の上に掲げられた二本の旗へ目を向けた。
一つはローズ帝国の国旗。
獅子と赤い薔薇が描かれた、皇帝ローゼスの象徴である。
その隣には、一回り小さなアルファの旗が掲げられていた。
白いカーネーションを抱く、翼のある女性。
「何か理由があるのかい?」
「そういうことは視えないのか」
「ぼくに視えるのは未来だけだ。過去は視えない」
「そうか」
アルファは先に屋敷へ入ろうとした。
だが、監視対象を庭へ残していくわけにもいかない。
仕方なくマリアへ視線を戻す。
血のように赤い瞳。
帝国で語り継がれる魔王と同じ色。
けれどアルファには、その目が不吉には見えなかった。
光を受けて輝く、二つのルビーのようだった。
「『私の愛は生きている』」
「何?」
「白いカーネーションの花言葉だろう?」
マリアは花を傷つけないよう、指先でそっと花弁に触れた。
「君に会う前から、未来の中で何度もこの旗を見た。だから教団の書庫で調べたんだ」
「未来に、僕の旗があったのか」
「ああ」
マリアは笑った。
「たくさんの人が、その旗の下に集まっていたよ」
「箱舟と関係があるのか」
「それは、まだ教えない」
「お前は……」
「それより、なぜ白いカーネーションなんだい?」
アルファは、旗に描かれた女性の姿を見上げた。
「昔、僕をこの国へ導いた人がいた」
「その天使が、白いカーネーションを持っていた?」
「天使かどうかは分からない」
アルファは静かに首を振った。
「ただ、僕にはそう見えた。それだけだ」
「そうか」
マリアは、それ以上問い詰めなかった。
しばらく白い花を眺めたあと、年相応の穏やかな笑顔を浮かべる。
「いつか聞かせてくれ。君のことなら、何でも知りたい」
「尋問を受けるのは、お前の方だ」
「君になら、何でも答えるよ。ぼくの聖騎士様」
「僕は陛下の騎士だ」
「そうだね」
マリアは、何かを続けかけて口を閉じた。
代わりに、意味ありげな笑みを浮かべる。
そして突然、アルファの手を取った。
「おい」
「屋敷へ入るのだろう?」
「手を引く必要はない」
「いいじゃないか」
マリアは、アルファの手を引いたまま屋敷へ歩き始めた。
「君も早く部屋へ戻りたそうにしていた」
「それも未来視か」
「あはは、違うよ」
マリアは振り返る。
「君を見ていれば分かる。ぼくはずっと、君を視てきたんだから」
アルファは、その言葉へ返事ができなかった。
白いカーネーションだけが、二人の背後で静かに風へ揺れていた。




