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第6話 未来を斬る剣

 十三体の雷狼が、一斉に地面を蹴った。


 だが、その牙が届くより早く、アルファは動いていた。


 一歩、右へ。


 最初の狼が空を切る。


 身体を沈め、二頭目の顎を切り上げる。


 振り返ることなく剣を背後へ突き出すと、マリアを狙っていた三頭目の額を刃が貫いた。


 青白い光が弾ける。


 消滅した狼の向こうから、新たな二頭が迫ってくる。


 アルファには、その姿がすでに見えていた。


 いや、見えているという表現は正確ではない。


 左目には、今まさに襲いかかろうとしている狼が映っている。


 赤く染まった右目には、その狼が次の瞬間に爪を振り下ろす光景が映っていた。


 現在と未来。


 二つの異なる景色が、同じ視界の中で重なっている。


「ぐっ……」


 アルファの足元が揺れた。


 右目に映る未来は、一つではない。


 右へ避けた未来。


 左へ避けた未来。


 剣で受けた未来。


 避けきれず、肩を食い破られる未来。


 無数に枝分かれした光景が、濁流のように頭へ流れ込んでくる。


「どうしたのです?」


 チースが魔術書を抱え、愉快そうに口元を歪めた。


「力を得た程度で、使いこなせるとでも思いましたか」


 雷狼がアルファの喉元へ牙を伸ばす。


 右目には、それを避ける未来が六つ見えた。


 アルファは、その中から一つだけを選んだ。


 半歩、前へ出る。


 狼の牙が首の横を通り過ぎる。


 すれ違いざま、アルファは狼の胴を真横へ切り裂いた。


「未来が見えるからといって、すべてを見る必要はない」


 アルファは剣を構え直した。


 呼吸を整え、左目に映る現在へ意識を集中する。


 右目から流れ込む無数の光景のうち、自分が必要とするものだけを拾い上げる。


 敵の一歩先。


 剣が届くまでの、ほんの一瞬。


 それで十分だった。


「未来とは、選ぶためにある」


 アルファが地面を蹴った。


 一頭。


 二頭。


 三頭。


 剣が振るわれるたび、雷狼が青白い火花となって消えていく。


 背後から牙を剥いた狼へは、振り向きもしない。


 すでに右目で、その位置を見ていた。


 剣を逆手に持ち替え、脇の下から刃を突き出す。


 狼の喉を貫いた。


 別の二頭が左右から飛びかかる。


 アルファは一頭の頭を踏み台にして宙へ跳び、もう一頭の背へ剣を突き立てた。


 着地と同時に刃を引き抜き、踏みつけていた狼の首を刎ねる。


 雷が森を照らした。


「アルファ……」


 マリアが呆然と、その背中を見つめている。


 先ほどまで押されていたはずの戦いが、完全に逆転していた。


 雷狼は何度蘇っても、アルファへ触れることすらできない。


「なぜだ」


 チースの笑みが消えた。


「なぜ、もう使いこなしている!」


「僕が見ているのは、わずか先の動きだけだ」


「その程度で、ワタクシの術を――」


「その程度で十分だと言っている」


 アルファは迫る狼を切り捨てながら、チースへ近づいていく。


 雷狼が進路を塞ぐ。


 どこへ牙を伸ばし、どの足で踏み込み、次にどちらへ跳ぶのか。


 そのすべてが、攻撃へ移るより先に見えていた。


 アルファは最小限の動きだけでかわし、切り払い、前へ進む。


「マリアの力が強いのではない」


 チースは魔術書の頁を乱暴にめくった。


「あなたが、その娘の力を利用しているだけだ!」


「違う」


 アルファの剣が、雷狼の群れを横一線に切り裂いた。


 四頭の身体が同時に弾ける。


「僕が借りているのは力だ。未来を選んでいるのは僕自身だ」


「屁理屈を!」


 チースが右手を振り下ろす。


 空から幾筋もの雷が落ちた。


 アルファは走る。


 右目に映る、雷が地面を焼く未来。


 その隙間を縫うように進み、一度も足を止めない。


「来るな!」


 チースの声に、初めて明確な恐怖が混じった。


 アルファが間合いへ踏み込む。


 剣が横へ振るわれた。


 チースは身体を雷へ変え、攻撃を避けようとする。


 だが、その逃げ先も見えていた。


 アルファは剣の軌道を途中で変えた。


 雷から人の姿へ戻ったチースの左手へ、刃が迫る。


「なっ――」


 金属の留め具が砕けた。


 分厚い魔術書がチースの手を離れ、地面へ落ちる。


 アルファは返す刃で、その表紙を切り裂いた。


 魔術書から赤い火花が噴き出す。


 森を囲んでいた雷狼の身体が大きく揺らぎ、半数がその場で消滅した。


「ワタクシの聖典に、何ということを!」


「聖典?」


 アルファは地面へ落ちた書物を踏みつけた。


「人を殺す術が記された本を、そう呼ぶのか」


「足をどけろ!」


 チースの顔から、慈悲深い教祖の面影が消えていた。


 目を見開き、歯を剥き出しにしている。


「その書は選ばれたワタクシにのみ許されたものだ!」


「選ばれた?」


「大洪水の後、この世界を導くのはワタクシだ! 世界は秩序を求めている! すべてが正しい役割へ戻り、二度と誤らない世界を! 愚かな皇帝でも、獣の姿をした異民族でもない!」


 チースは、地面へ向かって右手を叩きつけた。


 魔術書から黒ずんだ雷が噴き出す。


 アルファは後方へ跳び、剣を構え直した。


 雷は狼の姿にはならなかった。


 細い筋となって地面を走り、森の奥へ広がっていく。


「何をした」


「ワタクシが何の備えもなく、あなた方の前へ現れたとお思いですか?」


 チースが立ち上がる。


 口元へ、再び笑みが戻り始めていた。


 しかし、それは先ほどまでの穏やかな微笑ではない。


 追い詰められた獣の笑みだった。


「この周囲には、信仰に厚い者たちが待機しています」


「信徒を連れてきたのか」


「彼らには、悪魔の逃亡を阻止する尊い役目を与えました」


 アルファの赤い右目に、新たな未来が流れ込んだ。


 木々の間に立つ人々。


 白い法衣をまとい、祈りを捧げている。


 その首から下げられた金属製の護符へ、地面を走る雷がつながっていた。


 アルファがチースへ踏み込む。


 その未来で、護符が爆発した。


 炎。


 引き裂かれる身体。


 倒れる七人の信徒。


「……人質か」


「何をおっしゃいます」


 チースは両腕を広げた。


「彼らは自ら望んで、この森へ来たのです。世界を救うために命を捧げる覚悟もできている」


「護符に何を仕込んだ」


「浄化の雷です」


「お前を追えば、信徒を殺すつもりだな」


「ワタクシは誰も殺しません」


 チースは楽しそうに首を傾げた。


「彼らが死ぬとすれば、それはあなたがワタクシを追ったからです」


 アルファは剣を握り締めた。


 右目には、チースへ踏み込むたびに異なる未来が映る。


 三人が死ぬ。


 五人が死ぬ。


 七人が死ぬ。


 雷のつながった護符をすべて切断する前に、必ず誰かが犠牲になる。


「追うな、アルファ」


 背後からマリアの声がした。


「ぼくにも視える。今、あいつを追えば人が死ぬ」


「黙っていなさい!」


 チースが怒鳴った。


「誰の許可を得て未来を語っている!」


 マリアの肩が震えた。


 アルファはチースから視線を外さずに答える。


「マリアが自分で決めた」


「その娘に決定する権利などない!」


「ある」


 アルファは、剣先を静かに下ろした。


「マリアの力は、マリアのものだ」


「その甘さが、いずれ帝国を滅ぼす!」


 チースの身体が雷へ変わり始める。


「人を切り捨てられぬ者に、国を守ることなどできない!」


「人を切り捨てて残ったものを、陛下は帝国とは呼ばない」


 チースの身体が青白い光に包まれた。


「後悔しますよ、黒騎士」


「次に会ったときは、逃がさない」


「次に会うとき、あなたの守る帝都は水の底です!」


 雷が弾けた。


 眩い閃光に、アルファは一瞬だけ目を細める。


 光が消えたとき、チースの姿はなくなっていた。


 残された魔術書も、燃え上がり始めている。


 アルファは足で本を開き、剣先を差し込んだ。


 だが、頁は内側から広がる黒い炎に呑み込まれ、次々と灰へ変わっていく。


 最後に一枚だけ、焼け残った紙が風に舞った。


 アルファはそれをつかむ。


 紙には、複雑な水路と河川らしき図が描かれていた。


 端には、箱舟教団の印ではない紋章が記されている。


 波の上に、三枚の羽根を重ねた紋章。


「アルファ!」


 マリアの声に振り返る。


 地面を走っていた雷が、森の奥へ伸びている。


 信徒たちの護符につながった術式は、チースが逃げても消えていなかった。


 むしろ、光が次第に強くなっている。


「あと、どのくらいだ」


 アルファが尋ねる。


「分からない。数分かもしれない。もっと短いかも」


「信徒の位置は」


 マリアは赤い瞳を森へ向けた。


「北に三人。西に二人。南西に二人。それ以外にもいるけれど、雷がつながっているのは七人だけだ」


「案内しろ」


「君の右目なら――」


「今はお前の方が広く見える」


 アルファは剣を鞘へ戻し、マリアへ背を向けて膝を曲げた。


「乗れ」


「走れるよ」


「顔色を見てから言え」


 マリアの顔は青ざめ、額には大粒の汗が浮かんでいる。


 リエゾンによって魔力を渡し続けているためだ。


「でも――」


「時間がない」


 マリアは反論を諦め、アルファの背中へ身体を預けた。


 アルファは彼女を背負い、森の中を走り出す。


     ◆◆◆


 一人目の信徒は、大木の前で跪いていた。


 両手を組み、祈りの言葉を唱えている。


 首から下げた銀色の護符から、青白い雷が漏れていた。


「動くな!」


 アルファの声に、男が振り返る。


「黒騎士!」


 男は立ち上がり、懐から短剣を抜いた。


「悪魔を連れてきたのか!」


「その護符を外せ」


「これは教祖様から授かった聖なる守りだ!」


「お前を守るものではない。殺すための道具だ」


「嘘をつけ!」


 護符が強く光った。


 右目に、男の胸元が爆発する未来が映る。


 アルファは一気に間合いを詰めた。


 振り下ろされた短剣をかわし、剣を抜く。


 刃は男の身体ではなく、護符をつなぐ鎖だけを切断した。


 地面へ落ちた護符を踏みつける。


 雷が弾け、アルファの足元を焼いた。


「な……」


「その場から離れろ。仲間にも護符を捨てるよう伝えろ」


「教祖様は、我々を守ると――」


「お前を置いて逃げた男の言葉を、まだ信じるのか」


 男は何も答えられなかった。


「次は西だ」


 背中のマリアが弱々しく告げる。


 アルファは再び走り出した。


 二人目。


 三人目。


 護符を外すよう命じても、信徒たちは簡単には従わなかった。


 アルファへ襲いかかる者もいた。


 マリアを見ただけで、悪魔だと叫ぶ者もいた。


 それでもアルファは誰一人斬らず、護符だけを破壊していく。


 五人目を救ったところで、赤い右目に激痛が走った。


「ぐっ……」


 視界が大きく揺れる。


 現在と未来の境界が曖昧になり、まだ起きていない光景が現実へ重なった。


 燃える森。


 倒れる信徒。


 泣き叫ぶマリア。


 そのすべてが同時に見える。


「アルファ、止まってくれ」


「あと二人だ」


「君の目から血が出ている」


 アルファの右目から、一筋の血が流れていた。


「問題ない」


「あるよ!」


 マリアの声にも力がない。


 背中へ回された腕が緩み始めている。


「僕にかけた術を解け」


「今切れば、君の右目は元に戻る」


「位置は聞いた。もう未来を見る必要はない」


「でも――」


「切れ」


 マリアはしばらく黙っていた。


 やがて、アルファの背中へ額をつける。


「……分かった」


 身体の中を流れていた熱が消えていく。


 右目を覆っていた赤い光が薄れ、元の黒へ戻った。


 未来の光景が消える。


 アルファの視界には、暗い森と木々だけが残った。


「何をした」


「リエゾン」


 マリアが小さな声で答える。


「ぼくと君の魔力をつないだんだ。ぼくの力の一部を、君へ渡した」


「負担については聞いていない」


「聞かれなかったからね」


「二度と無断でやるな」


「おかげで助かっただろう?」


「お前が倒れると分かっていれば、別の方法を考えた」


「だから言わなかったんだ」


 アルファは足を止めかけた。


 しかし、遠くで雷が鳴った。


「説教はあとだ」


「長くなりそうだね」


「覚悟しておけ」


 残る二人の護符を破壊した直後、森の奥から連続して爆発音が響いた。


 地面を走っていた雷が一斉に弾ける。


 木々の表面を青白い光が駆け上がり、枝を焼いた。


 だが、七人の信徒は全員、術式から解放されている。


 アルファは剣を鞘へ戻した。


「終わった」


 返事がない。


「マリア?」


 背中に回されていた腕が、完全に力を失っている。


 アルファは慌てて彼女を下ろし、抱きかかえた。


 マリアは目を閉じていた。


 呼吸はある。


 ただ、顔色が悪く、身体が異様に冷たい。


「マリア」


 頬を軽く叩いても反応しない。


「おい、目を開けろ」


「……静かにしてください」


 突然、背後から声がした。


 アルファは片腕でマリアを抱いたまま、もう一方の手で剣を抜いた。


 木々の向こうから、複数の人影が現れる。


 月明かりを反射する青い外套。


 揃いの胸当て。


 短槍と、幅の広い盾。


 だが、その者たちは人間ではなかった。


 白や褐色の羽毛に覆われた身体。


 前へ伸びた嘴。


 水かきのある足には、森林を歩くための革製の覆いが巻かれている。


 先頭に立つアヒルは、両手を見える位置へ上げた。


「敵ではありません。ローズ帝国皇帝ローゼス陛下の要請を受け、捜索に参りました」


「アヒル帝国の兵か」


「条約使節団護衛隊です」


 護衛隊長らしきアヒルは、アルファが抱いているマリアへ視線を向けた。


「その少女は負傷を?」


「魔力を使いすぎた」


「医療兵を」


 隊長が命じると、後方から小柄なアヒルが進み出た。


 アルファは剣を下ろさない。


「なぜ、お前たちが来た」


「帝都では暴動が続いています。ローズ帝国軍は市民の保護と消火に追われている」


 護衛隊長は淡々と答えた。


「あなたの従者が宮殿へ駆け込み、事情を伝えました。ローゼス陛下は捜索隊を出そうとなさいましたが、すぐに動かせる兵が足りなかった」


「それで、外国の使節団へ頼ったのか」


「いいえ。我々が申し出ました」


 隊長は胸元から書状を取り出した。


 蝋には、ローゼスの印章が押されている。


「条約を結ぶ相手国の騎士が、我々との友好に反対する者から襲撃を受けたのです。他人事ではありません」


 護衛隊長は少しだけ嘴を緩めた。


「それに、我が皇帝なら『友達になる前でも、困っているなら助ければよいのである』と申すでしょう」


 アルファは印章を確認し、ようやく剣を鞘へ戻した。


「この森で、どうやって僕たちを見つけた」


「我々は水辺に生きる民です」


 隊長が嘴の先を森の奥へ向ける。


「山小屋の近くには小川がある。馬が水を飲んだ跡と、川岸に残った足跡を追いました。夜の森林で人間の騎兵を探すよりは、我々の方が適任です」


 医療兵がマリアの手首へ触れる。


 嘴を彼女の口元へ近づけ、呼吸を確認した。


「命に別状はありません。強い魔力消耗です。保温し、休ませる必要があります」


 アルファの肩から、わずかに力が抜けた。


「陛下は」


「帝都でお待ちです」


 護衛隊長は、周囲にいた信徒たちへ視線を向ける。


 彼らは戸惑い、あるいは恐怖しながらアヒル帝国の兵士を見ていた。


「この者たちも連れて帰りますか」


「ああ。教団に利用されていた。事情を聞く必要がある」


「承知しました」


 隊長は部下へ指示を出した。


 アヒル帝国の兵士たちは、信徒を乱暴に拘束することなく、負傷の有無を確認していく。


 信徒の一人が、怯えた声を上げた。


「獣が……我々を連れ去るのか」


 護衛隊長は、その男を真っすぐ見た。


「我々はあなた方を救出しに来ました」


「嘘だ。教祖様は、アヒルどもが大洪水を招くと――」


「大洪水については、我々も調査しています」


 隊長の声色が変わった。


「我が国には、過去数千年にわたる水位と洪水の記録がある。河川の流れ、降雨量、堤防の決壊地点も記録してきた」


 アルファは、焼け残った紙を取り出した。


「この紋章を知っているか」


 護衛隊長が紙を受け取る。


 波の上に描かれた三枚の羽根を見ると、その目つきが鋭くなった。


「これは、我が国の旧水利院が使用していた紋章です」


「旧水利院?」


「二十年前に解体された組織です。河川調査と治水技術の研究を担っていました」


「なぜ、箱舟教団の魔術書に、その紋章がある」


「分かりません」


 隊長は焼け残った図面を慎重に折り畳んだ。


「ですが、条約使節団の大使に確認していただく必要があります」


 アルファは、チースが逃げた方角へ目を向けた。


 大洪水。


 箱舟。


 マリアの予言。


 アヒル帝国が保有する水害の記録。


 別々に見えていたものが、一本の線でつながり始めていた。


 アルファの腕の中で、マリアがかすかに身じろぎした。


「……静かにしてください。魔力を使い果たしているだけです」


 聞き慣れない声に、マリアがゆっくりと目を開く。


 青い外套と銀色の胸当てを身につけた兵士たちが、森の中に整然と並んでいた。


 白や褐色の羽毛。


 前へ突き出た嘴。


 短槍を握る手と、水かきのついた足。


 マリアはしばらく彼らを見つめたあと、張りつめていた表情を崩した。


「はは。ずいぶんと、かわいい軍隊だ」


 弱々しくはあったが、馬鹿にする響きはなかった。


 久しぶりに見る、心からの優しい笑顔だった。


「マリア」


 アルファがたしなめるように名前を呼ぶ。


 しかし、護衛隊長のアヒルは怒らなかった。


 むしろ楽しそうに嘴の端を上げ、胸を張る。


「ふふふ。この姿だと相手が油断してくれるから、戦いを有利に進められるのだよ。お嬢さん」


「なるほど。それは強い武器だね」


「分かっていただけて何よりだ」


 隊長は短槍を軽く持ち上げた。


「もっとも、油断した相手はたいてい、我々の盾を越える前に後悔することになるがね」


「かわいいだけではないらしい」


「我々は軍人だからな。かわいさは副次的なものだ」


「自分でかわいいとは認めるんだね」


「客観的事実を否定する必要はあるまい」


 マリアは小さく笑った。


 その笑い声を聞いて、アルファはようやく彼女の命に別状がないのだと実感した。



     ◆◆◆


 帝都へ戻ったのは、夜が深くなってからだった。


 宮殿の中庭には、担架と治療道具を用意した者たちが待機している。


 アルファが馬車から降りると、小さな影が駆け寄ってきた。


「閣下!」


 アリスだった。


 彼女はアルファの血に染まった服を見ると、顔を歪めた。


 続いて、兵士たちが運び出したマリアの姿を見つける。


「マリア様……」


「眠っているだけだ」


「でも、こんなにお顔が白く……」


「治療師も、命に別状はないと言っている」


 アリスの目から、大粒の涙がこぼれた。


 アルファは、その姿を見つめた。


 宮殿へたどり着き、泣いているアリス。


 マリアが視た未来の意味は、これだったのかもしれない。


「閣下も、すぐに治療を受けてください!」


「先にマリアを」


「閣下もです!」


「分かった」


「本当に分かっておられますか!」


「お前は泣くか怒るか、どちらかにしろ」


「両方です!」


 アリスは涙を拭いながら、アルファの腕をつかんだ。


「お帰りなさいませ、閣下」


「ああ。ただいま」


 マリアは宮廷治療師のもとへ運ばれていった。


 アルファも傷の手当てを受けたあと、謁見の間へ向かう。


 室内にはローゼスだけでなく、数名の重臣とアヒル帝国の使節が集まっていた。


 白と金の礼服をまとったアヒル帝国の大使が、ローゼスの隣に立っている。


 アルファは玉座の前で膝をついた。


「皇帝陛下。ただいま戻りました」


「顔を上げろ」


 ローゼスの声は平静だった。


 しかし、アルファの傷を見た瞬間、その目に怒りが浮かんだ。


「チースは」


「逃亡しました」


「そうか」


「申し訳ございません」


「謝るな。信徒を人質に取られたのであれば、お前は追わない」


「七人全員を救出しました」


「ならば、十分だ」


 アルファは、チースの魔術書から回収した紙を差し出した。


「こちらを御覧ください」


 侍従が紙を受け取り、ローゼスへ運ぶ。


 アヒル帝国の大使も、横から図面を確認した。


「確かに、旧水利院の紋章です」


 大使は羽毛に覆われた眉間へ皺を寄せた。


「しかし、この図は我が国のものではありません」


「分かるのですか」


「河川の記号が異なります。旧水利院の技術を知る者が、ローズ帝国の水路へ書き換えたのでしょう」


「つまり、教団はアヒル帝国の治水技術を利用している、と?」


 ローゼスが尋ねる。


「その可能性があります」


 大使は図面の一部を指し示した。


「ここは帝都北部の河川。そして、この印は水門を示しているように見えます」


 室内の空気が変わった。


 ローゼスは図面を見下ろしたまま、低い声で言う。


「チースは大洪水を予言しているのではない」


 アルファも同じ結論へ達していた。


「自ら起こそうとしている可能性があります」


 重臣たちがざわめく。


「馬鹿な!」


「一宗教団体に、そのようなことが可能なのか」


「帝都の水門を一つ壊した程度では、大洪水にはならない」


 アヒル帝国の大使が、静かに口を開いた。


「しかし、複数の水門と堤防を同時に破壊し、大雨の時期を選べば、帝都の低地を水没させることは可能です」


「大雨の時期を、マリアの未来視で知ることができる」


 アルファが言う。


「だからチースは、マリアを必要としている」


 ローゼスは玉座の肘掛けへ拳を打ちつけた。


「洪水を予言し、その予言を自ら実現させる。そして生き残った者に、教団だけが真実を知っていたと思わせる」


「混乱に乗じて、帝国の統治権を奪うつもりでしょう」


「やり方だけは、実に教祖らしい」


 ローゼスの声に冷たい怒りが宿る。


 重臣の一人が進み出た。


「陛下。明日の条約締結式は延期すべきです」


「理由は」


「帝都では教団による暴動が発生しております。民衆の反アヒル感情も高まっている。この状況で条約を結べば、さらなる混乱を招きます」


「つまり、チースの狙いどおりに条約を取りやめろと?」


「取りやめるのではなく、延期を――」


「同じことだ」


 ローゼスは重臣から、アヒル帝国の大使へ視線を移した。


「大使殿。貴国としては、どう考える」


 大使は一歩前へ出た。


「我が皇帝からは、ローズ帝国と友好関係を結ぶ権限を与えられております」


「帝都の民がお前たちを拒絶していてもか」


「反対する者がいることは、条約交渉を始める前から承知しています」


「暴動まで起きた」


「脅されたから友達になるのをやめるのであれば、最初から友達ではありません」


 大使は、嘴の端をわずかに上げた。


「我が国では、そう考えます」


 ローゼスも笑った。


「気に入った」


「陛下!」


 重臣が声を上げる。


 ローゼスは片手を上げ、それを制した。


「条約締結式は予定どおり行う」


「しかし、安全の確保が――」


「安全だから条約を結ぶのではない。互いに危機へ対処するために結ぶのだ」


 誰も反論できなかった。


 ローゼスは玉座から立ち上がり、アルファを見下ろした。


「アルファ」


「はっ」


「明日の条約締結式へ出席せよ」


「承知いたしました」


「マリアも連れてこい」


 アルファは顔を上げた。


「陛下。マリアは現在、魔力を消耗し――」


「目を覚まさなければ、無理にとは言わん」


 ローゼスは、旧水利院の紋章が描かれた紙を持ち上げた。


「だが、チースはマリアを悪魔と呼び、余をアヒル帝国へ国を売った偽帝と呼んだ。明日の式典を中止すれば、その物語を帝都中へ認めることになる」


「マリアを民衆の前へ出すのですか」


「隠し続けても、教団の噂は消えない」


「彼女を政治の道具にするおつもりですか」


 謁見の間が静まり返った。


 重臣たちがアルファを見る。


 皇帝へ向けるには、あまりに直接的な問いだった。


 それでも、ローゼスは怒らなかった。


「その点は、お前の言うとおりだ」


 ローゼスは玉座の前から階段を下りた。


「ゆえに、決めるのはマリアだ」


「陛下……」


「出席するか、宮殿に残るか、あるいはアヒル帝国の保護を求めるか。本人へ選ばせる」


 アヒル帝国の大使がうなずく。


「マリア殿が望むのであれば、我が国は保護を検討します」


 アルファは大使を見た。


「チースが追ってくる可能性があります」


「承知しています」


「帝国同士の争いに発展するかもしれない」


「それでもです」


 大使の目に迷いはなかった。


「未来を視る力を持つからではありません。一人の少女が不当な扱いを受けているのであれば、保護を申し出る理由として十分です」


 大使は、少しだけ困ったように続けた。


「本人の意思を確かめずに連れて帰れば、我が皇帝だけでなく、黒衣の相談役からも厳しく叱責されますので」


 アルファは答えなかった。


 マリアがローズ帝国へ残る理由はない。


 この国では、彼女を悪魔と呼ぶ者がいる。


 教団に追われ、屋敷を焼かれ、命を狙われた。


 アヒル帝国なら、安全に暮らせる可能性がある。


 マリア自身が望むなら、アルファが止める理由もなかった。


「夜が明けたら、本人へ聞け」


 ローゼスが言う。


「今度は予言ではなく、マリア自身の答えをな」


     ◆◆◆


 マリアが目を覚ましたのは、夜明けの少し前だった。


 宮殿の客室。


 窓の外では、東の空が薄く明るくなり始めている。


 寝台の脇には、椅子へ座ったアルファがいた。


 腕と肩へ包帯を巻き、目を閉じている。


「……アルファ」


 マリアが呼ぶと、彼はすぐに目を開いた。


「起きたか」


「ずっと、そこにいたのかい?」


「今来たところだ」


「嘘だね」


「なぜ分かる」


「君のことなら何でも分かるよ。キスをした仲じゃないか」


「同意なしのキスは犯罪だ」


 マリアは身体を起こそうとした。


 しかし、腕に力が入らず、すぐに枕へ戻る。


「無理をするな」


「チースは?」


「逃げた」


「信徒たちは」


「全員生きている」


 マリアは目を閉じ、長く息を吐いた。


「そうか。よかった」


「よくない」


「何がだい?」


「リエゾンのことだ」


「もう説教の時間か」


「お前は、自分が倒れると知っていて僕へ力を渡した」


「君が死ぬよりはいい」


「勝手に比較するな」


「君だって、花や屋敷よりぼくの命を選んだじゃないか」


「それとこれは別だ」


「ぼくには同じに思えるけれどね」


 アルファは言葉に詰まった。


 マリアが小さく笑う。


「それで、何があったんだい?」


「陛下から命令がある」


「今度は牢へ入れられるのかな」


「違う」


 アルファは、アヒル帝国の大使が提示した選択肢を説明した。


 条約締結式へ出席する。


 宮殿へ残る。


 あるいは、アヒル帝国の保護を受ける。


 マリアは黙って聞いていた。


「アヒル帝国なら、お前を安全に保護できる可能性がある」


「ぼくに、出ていってほしいのかい?」


「僕の希望は関係ない」


「また、それか」


「お前自身が決めることだ」


 マリアは窓の外を見た。


 朝日を受け、帝都の屋根が少しずつ明るくなっていく。


 遠くには、昨夜の火災で上がった煙がまだ残っていた。


「出席するよ」


「条約締結式にか」


「ああ」


「危険だ」


「だから?」


「教団が再び襲撃する可能性もある。民衆から何を言われるかも分からない」


「それでも行く」


 マリアは、自分の赤い瞳へ触れた。


「隠れていたら、チースの言ったとおりになる。ぼくは悪魔だから、人前へ出られない。ぼくの力は、教団が管理しなければならない。皆が、そう信じたままになる」


「無理に証明する必要はない」


「証明するためじゃない」


 マリアはアルファを見た。


「ぼくが、自分で決めたんだ」


 アルファはしばらく黙っていた。


 やがて、静かにうなずく。


「分かった」


「止めないのかい?」


「お前が自分で選んだ答えならな」


「では、聖騎士様」


 マリアは、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。


「明日ではなく、もう今日だけれど、ぼくを式典まで護衛してくれるかな」


「陛下の命令だからな」


「それだけ?」


「眠れ」


「答えになっていないよ」


 アルファは立ち上がり、窓のカーテンを閉じた。


「式典までに立てるようになってから言え」


 部屋から出ようとする彼の背中へ、マリアが呼びかける。


「アルファ」


「何だ」


「迎えに来てくれて、ありがとう」


 アルファは振り返らなかった。


「礼を言うのが遅い」


「今、言いたくなったんだ」


「そうか」


 扉が閉じる。


 一人になった部屋で、マリアは胸元へ手を置いた。


 式典へ出席した先に何が待っているのか。


 赤い瞳を凝らしても、未来は以前ほど鮮明には見えなかった。


 炎。


 大勢の人々。


 ローゼスと、アヒル帝国の使節。


 自分の隣に立つアルファ。


 そして、帝都を覆い尽くすほど巨大な水の影。


 いくつもの未来が重なり合い、その先は深い霧に閉ざされている。


 それでも、マリアは目を逸らさなかった。


 視えない未来へ進むことを、今度は自分で選んだのだから。


     ◆◆◆


 その頃、世界のどこにも記されていない場所で、未来の分岐を数え続けていた何かが、初めて計算を止めた。


 予定された終末から、二つの存在がわずかに外れている。


 それはまだ、アルファとマリアを敵とは認識していなかった。


 ただ、予測不能な観測対象として、二人の名を記録した。


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