#6 水は液体というよりゼリーのような質感で水面をかすかに揺らしている
水は液体というよりゼリーのような質感で水面をかすかに揺らしている。
驚くほどかすかにだ。
再び時間がゆっくりと流れているからだ。
そしてオレは思考する自分を思考していた。
オレの良く知る時間軸での思考はグラスに注がれた水をただの水として時間がゆっくりになっているなどとは知る由もなく認識しているようなのだが、その思考をさらに思考している思考はオレの良く知る思考の時間とは別の軸に存在しているかのようにゆっくりと流れる時間を通常の意識の感じで水をゼリーのようだと俯瞰している。
さっきの金色の草原にいて自分を見下ろしている俯瞰ではない。
灰色のジジイもいない。
今度のスローモーションは自分の通常の思考を遅くなったものとして俯瞰していた。
つまり、通常の意識による思考と周囲がスローになるくらい加速した意識の思考の二つが同時にオレとして違う時間軸の上で進行しているということだった。
それにしてもさっきから何度も何度も何なんだこの現象は…
水は依然としてゼリー状の挙動のままだ。
世界がスローモーションなのに自分の思考だけがいつもと同じ。
野球でいえば速球の後のチェンジアップがいつまでたってもバットの届くエリアにまで来ないみたいな感じだ。
おかげでもっと速く走りたいのに全く足が動かない、前に進むことができないとかいうあまり思い出したくもない夢にとても酷似した枷に捕らわれた感じ、加速している意識と思考だけが先走っていて肉体が追いつけない、あの焦燥のいつまでも解消されないままにすり減り続ける終わりなき精神の疲弊感に近い体感とでも言えば適当なのか…
とにかく意識が普段当たり前にしてきた思考スピードと鈍くなった時間進行とのズレがひどい。
オレの肉体はもちろん、水を差しだしたラグビーボールも彼女の家のダイニング空間を舞う塵や埃も、まるで時間が停止したかのような進行の鈍った遅延世界の空間を置き去りにした状態でオレは何を考えるべきなのかを考えてみたが、取り立てて何も思い浮かばなかった。
ラグビーボールの微動とゼリー化した水の挙動だけがわずかに進んでいる時間の状態を教えてくれている。
ただそのスローな状態は加速した時間というより空間の変化であるとも言えるのではないかと思った。
ていうか、たとえ時間が加速しようと空間がスローになろうと世界の中心はオレだった。
この自分という中心性はあくまで自分の肉体という唯一無二の座標感覚のことで、人間なら誰もが有してる当たり前の意識感覚のことなんだけど、オレはその自分という当たり前にしている座標意識がどこまで中心なのかの新たな側面を知ることができていた。
知ることができたと言っても、なんとなくわかったことは思考が時空間を割と平気で無視して、自由にマイペースに自分を常に中心に据え続けるという想定上の貫通力があるという発見があっただけで、なぜ自分の思考が加速していて、スローになっている自分の意識を冷静に観察できているのかはわからないままだし、それがどうしてまるで二つの意識を同時に同じ自分として思えているのかもわからない。
この現象が自分だけに起こっていることなのか、ラグビーボールにも起こっているのかもわからない。
そして、この現象がどう始まって、どうすれば終わるのかもわからない。
だからといって、この訳の分からないイレギュラーな事態にも関わらず不思議と恐怖や不安のネガティブな心配事はほとんどなくて、ただ引き延ばされるように加速している意識の中で現象の限り、ほぼ無限にその瞬間についてのことをひたすら考えることしかできないこの状況をどう解釈するのかで、オレ自身のネガとポジの在り方の可能性も無限なのだろうということをなんとなく察していた。
単純に短時間に何度もスローになる景色を繰り返し眺めている中で自分の意識こそスローに巻き込まれながらも、自分が思考する感覚のペースは何も変わらないことが今のところ共通しているという見解の感想を持っているに過ぎない。
こうして、限りなく時間停止にも等しい無限思考をもらったところでわからないものはわからないままだから、もしもこの境遇が永遠に続くようなことがあればシンプルに今ある思考の範囲の水準からの進歩的な展開がないまま堂々巡りの周回をし続けるのかもしれないと思ったとき、思い出に浸るしかなくなるってことだよなぁ、つまり、とか思っていた。
そして、オレは”やがて考えるのをやめた”的なセリフで終わる、ある有名漫画のラスボスのことを思い出していた。
あれがどのくらい死ねなかった末の結論なのかは不明だが、オレたちの思考はそんなに都合よく自分の意思で、無駄だから、飽きたから、つまらないから、疲れたからといって考えるのをやめることができるものなのかをオレは疑っていた。
仮に考えるのをやめることができる機会があるのだとしたら、それは眠ることであり、死ぬことなのだが、あの作品のラスボスは究極生命体であることから不死にして、肉体はあらゆる生物の素養へと変化し、その柔軟にして変幻自在を担うのは自らの意思と直結した治癒再生機能であり、霊長を超越した高い知能をも搭載していることから、眠りと死が存在しない。
そのことから彼は生きて活動している限り、地上という宇宙で思考し続けることとなる。
では、究極生命体である彼に眠りは必要なのかを考えた時、必要はないけど眠るという行為を行うことはできるとは思った。
なぜなら、あらゆる生命体の機能を備えているからだ。
だがしかし、眠りと死は同じではないから目が覚めた時には再び思考が再開される。
だから彼の最後は無限とされる宇宙空間の中での”そうして考えるのをやめた”という永遠の孤独の中で思考することをも自らやめることができるという完璧超人ぶりをオレたちに示して物語から去るわけだが、考えることをやめた先の彼というか、その魂みたいなものはどうなるのかに今のオレは興味があった。
たぶん、この”今スローモーションだ”と認識しているのは脳という自分ではない。
あくまでたぶんだけど、肉体の生命活動と密接に結びついている頭の中にある脳に意識があるのだとしたら、自分が時空間のスローモーションを体験しているなどという自分に気づかないまま、目の前に出されたグラスに注がれている水を水と認識した次の展開にも何事もなかったかのように矛盾なく身体を時空間にフィットさせるのだと思う。
でも、実際にこうした時間停止に限りなく近い状況の中で、ナチュラルに考えることのできている自分は、肉体の生命活動とは切り離された別の機能によって思考という活動を行っていると考えざるを得ない。
だって、スローモーションの世界にいることを認識できているからだ。
それは自らがスローの世界の中にいる身体と空間と時間とは違う何かになっているからだという考えに至っていた。
その違う何かが何かと言えば思考そのものだと言わざるを得ない。
確かにオレはまだ自分という肉体からスロー化した世界の中に閉じ込められたかのような状態にいる。
その思考する自分が魂なのか、脳なのかの確証はまだないが、一つ確かなことはいつまでたってもチェンジアップとして投げられたボールはまだオレの方に到達していないし、今すぐにでも動き出したい気持ちはあるのにまったくそのために感覚が肉体とリンクしない感じにあっても、何も怖くないはないし、不安も心配もない状態なのに、いつまでたっても思い通りにならないストレスだけが続いている関連には何らかのつながりがあるという直観だけはあった。
つまり、この思考する自分というのはオレの身体由来の物ではないのかもしれない仮説から、あのラスボスの”考えるのをやめた”の奥行きは少なくとも究極的に簡単なことではないし、むしろ不可能なことの一つなのかもしれないとオレは考えていた。
ただ今のところ、いつまで終わるのかもわからない時間遅延の状態がまぁまぁ続いていることから、暇つぶしにあれこれとこの状況についての考えを自分一人の中で思うがままにあくまで仮説だがという言い訳をしながら考察を巡らせていて最終的に思ったことは、あまり安易な仮説を妄想して、受け入れて、下手な思い込みを強めるとネガ側に寄ってしまうこともあるかもしれないから余計なことを考えるのは避けられるのであれば避けた方が良いのかもしれない…とは思ったものの、その余計なことを考えないというのもまた考えるのをやめようとするのと同じくらい困難なことのように思えたことから、オレは余計なことを考えるのをやめようとするのをやめた。
すると「それって光速度絶対法則とほぼ同じこと考えてるわ…キミ」という彼女の言葉でオレの現実は再び再生を始めたのだった。




