#31 群霊を吐き出す人間とレムリアに猿人を招いた黒魔術によるルシファー原理の災厄
猿をはじめとした地球に生きる動物たちには自我がない代わりに「群霊」を背後にしている。
群霊とはアストラル世界に君臨する各動物種の大元であり、独自の自我を持ちながら地上の動物たちを束ねる根源にして集合的な魂の主である。
人間の人体でいえば脳のような機能を有した霊体が魂の世界に存在しているようなものだ。
脳と言っても、その群霊と地上の動物たちはカタツムリのナメクジと殻の関係で自らを分霊化できる中級神霊の固有能力を介していることから、地球の動物の個体が死を迎えた際にはその魂は群霊のもとへと戻るのである。
分霊には個体として完成されていて個性もないので転生しても進化することがない。
彼ら動物の個体が変化した際には群霊そのものが何らかのサインに適応したことを意味する。
そのことから群霊は地上の動物の魂が集まってできた集合魂ではなく、群霊の魂を宿した形態が分化して地上に散らばった群霊の細胞がごとく生命活動を一律の本能とした動物たちは群霊から分離している群霊の魂の断片なのである。
それが私たちの良く知る動物存在なのである。
また彼ら群霊と人間が袂を分けたのは地球紀ではなく月紀だ。
月紀にてアストラル体を獲得した私たち地球紀の人間はまだ動物たちと同じ段階にいた。
動物たちと同じ段階とは、まだ自我を持たずアストラル体の獲得を目指していた点からも月紀の宇宙段階においては地球紀の動物存在と人間を目指す私たちは同じ階層にいたとも言える。
しかし、その階層内が太陽紀の休息期から尾を引く神々の戦場となる。
アストラル体の正統進化を導くべく自らの「殻」を捧げた運動の神霊デュナミスとアリマフィック原理の水平的な保存と固定化による「殻」そのものであり続けようとする意志の遅延停滞作用を受けた力の神霊ヴァーチュテスとの闘争が月紀のアストラル世界の「体」を二つに引き裂いた。
そうして生まれたのが植物の群霊と動物の群霊とその中間存在としての群霊とがアストラル世界の環境を更なる階層を創り出すことによって、火の霊と当時人間段階を通過していたピトリとの関係がそれぞれの階層を変容させる因子となっていく。
その因子が「波」となって月宇宙は人間の進化の場としてアストラル体獲得のための環境が洗練されていった。
その洗練とは浄化、蒸留、霊化、あるいは抵抗といった類の選別とも言える階層化のことだ。
月紀の流動する魂の世界には様々なメッセージがグラデーションとなってその色彩の密度と音階を奏でていた。
流れの躍動と衝動にのみ従う者もいれば、色とりどりの自分以外の意志に夢想的に従う者もいれば、どこからともなく届けられる音のリズムに意味を見出す者もいる、それらの「波」の位階には月紀を形成するあらゆる神霊の関与があることを示す影であった。
火の霊に寄り添った存在はピトリへと、人格霊に近づいた者はアルカイへと、形態の神霊モルフィオンに迫った高次元の存在は形態の分霊ディヤニへと、そして運動の神霊デュミナスと共鳴できた存在は「時間の回転の霊」である周期霊クロノスと邂逅することでそれぞれの「波」に準じた進化の道に選ばれて行く。
一方で、アルカイではなくアーリマンの色や音の作用による夢の圧倒的本能の力と絶対的生命による知性を過剰に摂取した月の動物的群霊たちは、月紀に得た暴力にも等しいアストラル的な衝動を捨てることを拒んだことから、月の流動作用と同一化することを自らとした意志は正統的な進化の道から逸脱していく。
現状維持の硬直化は進化への対極にあたることから宇宙において堕落を意味する。
堕落とは単純に宇宙のカタツムリの「殻」側の存在であることを自ら厭わないということだ。
ナメクジが創造側の精神サイドだとしたら、「殻」サイドはその精神の断片及び生命器官を空間化した被造物側にあたる。
そのことから月紀では”流動する魂”の断念体が「水(液体の原基)」となって月の人間段階が進化するための礎となったように、地球紀では”考える自由の魂”の断念体が「物質(霊体の原基)」となって人間にも、動物にも、植物にも、鉱物にも元素という物言わぬ「自然霊」の化身が生命の境界の役割を果たし、各階層の精神の「殻」の輪郭を形成することで”考える自由の魂”が進化していくための礎となっている。
だから、人間以外の元素生命体及び生態系は考えることをしない。
なぜなら、地上の器に考えるための主体を降ろす器官を人間以外の生物は持たないからだ。
例えば私たち人間が”生きている”と実感できるのは”自分が世界を感じている”という「自分(自我)」という主体が魂と生命と身体に降りて思考しているからで、逆に眠っている時の人間も死んではいないのに私たちが”生きている”と実感しないのは「自分(自我)」と魂が睡眠中の不在によって生じている。
これを動物に置き換えると、自分を持たない彼らの主体であるはずの自我がいない人間のようなもので、彼ら動物たちは魂と生命と肉体だけで世界を感じている。
その感じた世界環境で動物たちを如何に振る舞わせるかの設定と秩序を思考しているのが地上に降りていない群霊なのである。
ちなみに動物の睡眠中も世界を感じる魂が身体を出ていくことで群霊の世界に帰っている。
そして、彼らが帰って安らいでいる群霊たちの星々が太陽系の惑星なのである。
太陽系には水星から冥王星を除いたいくつかの惑星があるからと言ってその惑星の数だけしか動物種が存在しないわけではない。
太陽系の惑星はかつて地球紀以前の宇宙を創造してきた第二ヒエラルキーである叡智の神霊キュリオテテスと運動の神霊デュナミスの世界観が反映された宇宙形態の秩序と軌道で、その秩序と軌道と惑星のサイズや質量に性質が地球との関係を決定づけていて、その決定が何かというと動植物の形態、器官、生活様式のための動物固有の能力等が太陽系惑星から派生されている。
群霊は各惑星を拠点にアストラル的存在として地球動物の個体を統一的している超個体体系の主体をしている。
その彼ら群霊が見上げている存在が第二ヒエラルキーの居する黄道十二宮なのである。
太陽系は天の川銀河に属している。
一般に知られているのは太陽系の惑星は太陽の周りを周回している軌道が規則正しい円であることによって、私たちの地球環境の周期が生物にとって好ましいものとして絶妙に機能していると認識されているわけだが、実際は太陽が天の川銀河を周回しているスピードに各惑星が太陽の引力に引きずられるようにして、あるいは惑星たちが追いかけるようにしてその速度に相応しい存在形態を維持し続けている。
その太陽と惑星の進行による恩恵のすべてが噛み合って、地球の生態系は太陽系が巡る宇宙の季節と思い出の暦を刻印することが適っている。
その刻印の履歴が地球の天球である黄道に投影される幾重にも重なった無限遠点の方角を貫く一二の星座として夜空に展開されている。
その一二の宇宙的な方向から異なる性質を各周期ごとに太陽系の惑星秩序に働きかけているのが第二ヒエラルキーの権能を象徴する黄道十二星座なのである。
太陽系が銀河を巡る過程で太陽を追う地球の天球は二憶三千万年の周期を私たち人間は何度も転生を繰り返しながら見上げることのできる夜空のもとに一定期間存在するための形態とデザインの調和による固有特性の原型を黄道が描く星座の世界より齎されている。
主に骨格にあたる人間の人体構造も動物同様に星座が由来だ。
しかし、人間の自我はその星座からの光を土星を境界にした太陽と月と地球が複合した太陽系すべての惑星諸力をその臓器器官に宿したものを統合させた神的器官として搭載している。
つまり、動物と人間の違いはどの惑星を貫いた光を「自分」としているかにある。
だから人間の中には動物とさして変わらない人間的特性を放棄した肉と魂のみを人間とした生き方を選択した自分を採用している動物のような人間も存在する。
特定の惑星諸力が働きかける魂の作用に人間の自我が引きずられているのである。
だがしかし、人間はかつて一度たりとも”地球の動物”であったことはない。
少なくとも地球紀ではない。
地球の人間と動物は前宇宙の月紀の神霊と群霊との引き合いにおいて進化系統を別にしている。
ただ、レムリアの人間が動物という種の通り道だったことがある。
地球の動物たちは人間が自我を有して魂の活動をしようとした際に吐き出された存在たちと呼んで過言ではないからだ。
これがいわゆるレムリア人による生殖操作である。
ゼラチン質の半透明な輪郭にサメのような軟骨が竜のような形態を支えながら中空を舞うように人間の根源的原型存在たちはピトリスによる魂の受肉と選別がレムリアの様々な時代で段階で行われていた。
人間の魂の形成に不要とされた部分を次々に切り離していくことで魚類や爬虫類に魚竜といった巨大な生物をも生み出していく。
地を這い、水にも潜る魚竜はイルカの顔にクジラのような大きなヒレを有したまま進化した彼らはやがて恐竜の類へと姿を変えて地球を闊歩する存在として、レムリアからアトランティスを経て、現代ではその進化の分岐を鳥やカメやワニにその片鱗を残している、というのが恐竜の根である群霊の意志の継続的な反映である。
それらの進化経過は地球の硬質化と共に緩やかにではあるが環境の変化というより、もっと宇宙的な太陽系と地球の周期的な星間移動に伴った自然淘汰的な経過によって人間の根源形態もまた著しくその姿を変形させていく。
それが半人半魚の「魚人間」のような姿の根源形態である。
人魚伝説の原型だ。
まだ肺に浮袋を有していたレムリア晩年の未完成人間はイルカやクジラの祖先を吐き出す。
彼ら海洋哺乳類の祖先が地上に生まれることによって哺乳類の先駆け的な存在が「魚人間」から分化していく。
そのことで地上を目まぐるしく駆け回ることのできる馬や牛にシカやライオンに猫に犬といった四つ足の動物たちが大きい個体から小さい個体の順でその起源的な存在が未完成の人間の肉体から吐き出されるよう分岐していった。
こうしたピトリスによるあまりに過剰な動物的要素を含有した巨大で集合的な群霊の魂を高い次元のピトリスから排出を行っていくことで、竜のようだった根源人間のサイズはどんどん小さい形態へと変容していく。
そして、ピトリの受肉の末端で人間化した不完全なピトリスたちの魂がレムリア人の身体から吐き出した動物存在に群霊から一部切り離された進化を辿って生まれた動物たちがいた。
それが「猿」である。
彼ら猿たちは群霊から個体の身体へと流れ込んだものの一部がその身体構造の複雑さゆえに群霊に戻れなくなるという境界と境遇に巻き込まれる。
その複雑さとは黄道星座からの動物形態の諸力を人間同様にいくつもの惑星を経由させていることに由来する。
では、郡霊から切り離された存在である動物である「猿」が人間のように転生を繰り返して発達進化することのできる自我へと到達する資格を持っているのかと言えば、無い。
なぜなら不完のピトリスの魂に働きかけていたルシファー原理が人間の霊を宿した魂に仮初にして低次の自我を「早熟」的に吐き出させる対価として「猿」の原型は吐き出された被造物に過ぎないからだ。
確かに「猿」たち類人猿の原型存在は不完ピトリスによる神への階段への試みであったかもしれないが、魂の低次の自我の芽生えの前倒し程度の逸脱は正統進化を守護する神々の秩序と調和の想定の範囲内であったことから、「猿」の原型は類人猿として現代にまでそのルーツを特殊な群霊の括りの中で進化の輪の中に組み込まれている。
だから、確実に人間は猿からの進化のルートを通ってはいないのである。
また人間と猿の形態が似ているのは単に猿が人間に近づこうとしているからでもないということだ。
その起源はむしろ退化存在として吐き出された者の末路という言うべき分岐だった。
だがしかし、ルシファー原理が齎らした災厄の火は「猿」の原型の排出的創造に留まらなかったことに起因する。
レムリア晩年であってもレムリア人たちの魂と自我はまだ私たち現代人が想起する「自分」とは程遠い自己認識の創生段階ではあったが、自らの魂で感じる知覚を自分のものとして認識するかすかな作用である反射にルシファーによる「自由」「自己強化」「早熟」の三つ権能が同時に不完のピトリスの魂に投影されることで、レムリアのアダム人間の「火の力」が黒魔術となる。
「魔術」がアダム人間から動物を産み出す神々の創造行為への参与だとしよう。
すると「黒魔術」は動物を人間に換える越権的な神々にも似た人工的な、というより魂的にして感情的な好奇心による初めての創造行為といえた。
その魂の在り様はまるでアダム人間の意志で自ら行っているかのような利己的な「火の力」の乱用であり、それを可能としていたのが不完のピトリスとレムリア人との直接的な魂の結びつきに加えて、いくつもの惑星の複雑な作用を掻い潜って一部の群霊たちに神からの自由への誘惑の光であるルシファー原理が刺さっていたことに起因していた。
つまりは動物から人間を産みだす神々が想像だにしない「逸脱した自由」と「勝手な自己的活動」と「早すぎる創造行為」による汎用的な拡散がレムリア晩年の「猿」の原型からより人間に近しい存在の誕生を招いたのである。
猿人である。
アウストラロピテクスやホモエレクトスとして知られる私たち新人類の祖とされる存在だ。
猿たち類人猿は”群霊の働きが個体へ強く流れんだことからアストラル世界の群霊から分離した状態でレムリア晩年の人間に受肉した不完全なピトリスの魂を通過して創造された存在だった。
人間の肉体に魂と自我が地上に降りてきているように、猿たち類人猿には群霊の一部が猿という種全体に降りてきたことでその群霊の固有能力がゴリラやオラウータンや各種猿の亜種として彼らが分岐してきた末端を私たちは今日認識しているわけだが、その今日の認識する世界にアウストラロピテクスやホモエレクトスといった猿人と呼ばれる人類の祖と呼ばれる進化存在は含まれていない。
彼らの進化経過を示す存在の痕跡は現代の生物にはいないのである。
なぜなら、人類は一度として人間以外で在ったことはないからである。
彼ら猿人及び原人は類人猿とは違い人間のように直立はした。
ピテカントロプスに関してはアトランティスの大地を闊歩していたことが確認されている。
しかし、獣だった。
彼ら猿人及び原人の類は私たち自我を有する人間とはまた別の存在だったのである。
彼らもまた「黒魔術」が進化した被造物として創造された化石化した存在なのである。
そんな彼らを化石にしてレムリアの大陸を沈めたのが第一ヒエラルキーの神々だった。




