#16 形態原理という生命の鋳型を生きる動物(蜂)
この眼前にいる金色の若者はタペストリー宇宙を絶えず設計している。
絶えずというのは文字通り”二四時間三六五日”という意味だ。
二四時間三六五日という時間の概念はこの次元空間においてその通りの意味ではない。
地上の時間が出来事の結果を並べる過去から未来への過程を時間として”進んでいる”のだとしているのだとしたら、この宇宙を設計している金人が感じている時間に相当する概念はあらゆる”形態の段階を変形させている流れ”を見ること、とでも言うのが適切だと思う。
植物の種には種の段階で芽吹いてから花を咲かせて散るまでの過程の可能性がつまっているのを、同時に見ることでその流れを可能性ではなく、常に始まりと終わりを含んだ完全に完結した力の作用として眺める。
それが時間の中を進む人間と時間の流れそのものを眺める存在との時間を知覚する立場の違いだった。
設計者たちが映画のフィルム全体をある程度把握して見ることのできる立場なのだとしたら、人間は映画の一コマ一コマを順番に出来事を現在として進んでいきながらパラパラと捲り終わった自分自身を過去とし、まだ見ぬ自分自身の未来を自由に切り開いていく可能性の立場にあるのが地球の人類である。
そのことから個の映画の数だけ時間は存在していて、家族の数だけ物語は存在し、物語の数だけ民族が存在し、民族の数だけ宿命があり、文明があり、盛衰があり、災いがあり、それらを時代史とした歴史の数だけ人間が時間の境界を超える機会創造のため運命の舞台が一つの宇宙となって収まっているタペストリーの設計者である若い仙人はぼんやりと静かに眺めていた。
眺めていた、と言ってもその金色の設計者の姿勢はあくまで祖父の視覚を代替えした視界をそのままあるがままに形容したもので、祖父と設計者が真に共有していたのは金人の顔の額にある閉ざされた第三の瞳とでも呼ぶべき、単眼にして複眼の機能を搭載した無限に存在する時間軸を洞察できる叡智の視覚を一つに束ねて形態化させたものがタペストリーな宇宙として具現化されたものへの働きかけだったのだ。
タペストリーは地球紀と呼ばれる地球を中心に創造された宇宙の青写真とも呼べる鋳型だった。
その地球を軸にした宇宙を出現させるための太陽系規模の鋳型であるタペストリーはすでに完結している。
前次元までのすべての宇宙を内包したシナリオとその目的は明確に存在し、人間の持つ権能を地球環境の整備に準じて行使させていくことで地球紀に残された課題を緩やかに確実に、そして精緻に神々の意志に沿った歩みを遂行させ、人類の可能性を次の形態段階に移行させるべく存在している先行宇宙に相応しいより純粋な思考が可能な人間存在へと導くための宇宙真価がそこにはあった。
つまり、宇宙に究極の進化形態があるように、人間もまた宇宙と同様に並行した究極形態が約束されていた。
よって、そのための地球紀のシナリオの結末は今でも変わらない。
宇宙的にも、設計者にとっても明確な未来である、次代の宇宙に先行している進化環境も変わらない。
だがしかし、その変わらない未来のステージにおけるその立場と役割に応じたその固有性さえ必ずしも不変不朽ではない。
その鋳型で鋳造されるべき青写真の投射に淀みを与えている因子もまた人間存在だからだ。
地球紀の人類は前宇宙紀の課題を純化して地球の人間を選択している。
その傍らで前宇宙紀の課題を遂行しながら得た権能に酔い、その枠の中に固執し、溺れ、その力の行使以外への理解と興味を意志として持つことができず、自ら進んで原始的な前時代どころか前宇宙段階における生命状態を地球紀にまで持ち込んでいる存在がいる。
それが動物だ。
動物たちの行動原理は、本能という個体よりも種や群体が持つ集団的な生命原理が要請する力の作用に非常に強い連続性を持っている生物である点において、人間という段階の一つ下に位置した存在とされている。
かつて人間が自我を獲得することで、自らの内部にあった本能、欲望、群体性、身体的衝動を意志によって再編成しようとした際に、それらの力の一部は人間であることを拒み、人間と共に先へと進まないことで古い生命形式のままに地球紀に残された、ある意味人間が前宇宙紀に脱ぎ捨てるように置いてきた残骸残穢とも言える存在として動物は地球に顕現している。
彼らは前宇宙紀から持ち越された生命の習性を課題にするというより、予めただ与えられていたにすぎない叡智の行使そのものを繰り返す、遅延した進化のなれ果てとも言える姿で地を這い、空を舞い、海を泳ぐ地球の生態系の動物存在としてやり直しを凝固させた過程を生きている。
だからと言って、動物が人間よりも劣った存在であるというわけではないようだった。
見方を変えれば、彼ら動物たちは前宇宙の遺物ではなく、前宇宙の名残を現在も生きている存在とも言えた。
彼らは前宇宙紀において人間とは別の進化を選んだ末に、人間が自我という高度な霊性を帯びた自律的な知性を獲得する過程で、いったん距離を置いた生命原理を今なお純粋な形で生きている存在なのだ。
それは言い換えれば、動物においては生命そのものが意志として働く存在として生きることができている一方で、人間はそんな生命の意志から分離することを選んだ自由意志そのものを生命原理とした、とも言える。
動物にとって生きると行うは分離することなく、飛ぶものは飛び、巣を作るものは巣を作り、群れるものは群れる、そこに”なぜそれをするのか”という問いを挟む余地がない。
生命はすでに答えを体現する完結した存在としてその極限まで高められた古い能力を地球に残し、過去から受け継いだ生命の知をそのまま現在の人間とは別の生命形式であることを保存した姿であり、同時に現宇宙に先行する人間進化の未来のプロトタイプとして存在している動物さえも存在している。
それが蜂である。
蜜蜂をはじめとして、蜂たちは女王蜂を中心にコロニーを構築し、守り、繁殖し、育てることを全体で行っている。
そのことを人間社会の社長と社員の関係のような縦割りの主従支配の構造で考えてはならない。
彼ら蜂の一体一体を個体と考えてはならない、とされている。
なぜなら彼らは全体で一つの意志を共有している集合生命体だからだ。
身体は分離している。
蜜蜂の個体は自己繁殖はせず、女王だけが子を産む。
そのため雄の蜂はひたすら女王と交尾し続ける。
そして、雌の蜂たちがせっせと花粉を持ち帰り、巣を構築し、子供を育て、幼虫を守るまでのタスクをこなしている。
こうして彼らはそれぞれに明確な役割分化をしながら情報を交換共有することで巣全体の維持に奉仕する。
少なくとも働き蜂たちの間で「こうやって巣を作ろう、そのためには…」などという設計意識は存在しない。
ましてや、子育てさえしない女王蜂が蜂の巣のための全設計プランを指示しているのでもない。
彼らは予め巣を構築するための知を肉体に宿したものを行動原理にしている。
その理念は蜂たちの個体にあるのではなく、巣及び蜂たちのコロニー全体が彼らにとっての一つの身体であり、生命であるという形態原理が共通の意志となって蜂たちの間で貫かれている。
例えば生殖を意志しない働き蜂たちは性欲を克服した代わりに全体の生命を生かすための巣を創造するという意志へと変換されて、その力が六角形となって集合的に積み重ねられることで個体には存在しないほどの高度な全体形態が巣として、働き蜂たちの体内から吐きだし産み出したこととなる。
これは蜂が巣を作っているというより、蜜蜂のコロニーという巣の形態原理が蜂たちを通した自己実現でもあることから、形態が個体の上位に存在していることを示唆している。
彼らにとって個体を第一の身体とするならば、巣は第二の身体であり、その心は蜂にしてみれば「自分の身体を持っている」ではなくて、「空間に産み出した巣そのものが自分たちの生命そのもの」というのが彼らの生命原理であり階層構造より生じている。
そういった地上の動物たちを群霊の化身として束ねている存在の活動領域のことをアストラル世界という。




