第九話 余燼 ― 新たなる影 ―
夜風が、血の匂いを運んでいた。
野橋雪ノ丈は、倒れ伏す本間の亡骸を見下ろしていた。
その手の中の刀は、まだ微かに震えていた。
(……終わった、か)
吐く息が白く揺れた。
月の光が、刃に滲む血を鈍く照らす。
そのときだった。
背筋をなぞるような、微かな視線を感じた。
雪ノ丈は反射的に身を翻し、刀を構える。
闇の向こう、松の木陰にひとりの男が立っていた。
背は高く、黒羽織をまとい、腰の刀に手をかけてはいない。
ただ、鋭い眼光だけが夜気を裂いていた。
「……誰だ」
雪ノ丈の声は低く、静かに響いた。
男はゆっくりと歩み寄り、手を上げた。
「待て、はやまるな。俺は本間に用があった。だが……死んだようだな」
雪ノ丈は目を細め、構えを崩さぬまま問うた。
「俺は野橋雪ノ丈。あんたは?」
男は口の端を僅かに上げた。
「切原善蔵――そう名乗っておこう」
「本間に、何の用だった」
「連れ戻しに来た」
雪ノ丈の眉が僅かに動いた。
「……連れ戻す?」
「本間は任を外れ、上意を無視してここへ来た。
上からは命じられていた――“従わぬなら斬れ”とな」
切原の声には、怒りも悲しみもなかった。
淡々とした語り口が、かえって重かった。
「……だが、俺の出る幕はなくなったようだ」
切原は亡骸のそばに膝をつき、そっと瞼を閉じさせた。
「すまんな、本間」
短く呟くと、立ち上がった。
雪ノ丈は刀を納めず、低く問うた。
「このまま帰すわけにはいかんな」
切原は薄く笑った。
「やめておけ。俺とお前が刀を抜けば、どちらかが死ぬ。
……今夜はその時ではあるまい」
風が吹いた。
草が揺れ、二人の衣がはためく。
「広住の件、上には報告せぬ」と切原は言った。
「確たる証もなく、死人の名を出す意味もない」
雪ノ丈は黙って見つめた。
切原は刀の柄に軽く手を添えたが、抜くことはなかった。
「いつか、機会があれば――その腕、確かめさせてもらう」
それだけ言い残し、切原は本間の亡骸を背負い、闇の向こうへ歩いていった。
その背は真っ直ぐで、迷いがなかった。
雪ノ丈はただ、黙ってその姿を見送っていた。
夜空の月は雲に隠れ、風がまたひとつ、血の匂いを運んでいった。
切原善蔵の背が闇に溶けていくのを、雪ノ丈は黙って見送っていた。
夜風が頬を撫で、血の匂いだけがいつまでも残っていた。
――生き残ったのは、また自分だけか。
呟きは声にならず、吐く息だけが白く揺れた。
雪ノ丈は刀を拭い、ゆっくりと鞘に納めた。
その手の震えが止まるまで、長い時間がかかった。




