第五話 帰郷 ― 再会 ―
霞ヶ沢の里は、昔と変わらず静かだった。
軒並みの屋根には苔が生え、風が吹くたびに竹の葉が鳴る。
人の声が遠くで聞こえる。
それだけで、雪ノ丈は胸の奥が熱くなった。
――帰ってきた。
村道を抜け、家の前に立つ。
板戸は少し歪み、庭の柿の木は枝を伸ばしていた。
けれど、どこか様子がおかしかった。
灯もなく、煙の匂いもない。
雪ノ丈は戸を開けた。
長旅の埃が舞い、空気が重く感じられた。
「……夏絵?」
返事はなかった。
囲炉裏の灰は冷え切っていた。
彼は眉を寄せ、家の奥へと進んだ。
廊下の板がきしみ、懐かしい音が耳に残る。
とりあえず荷物を置こうと、自室へ向かう。
襖を開けたその瞬間、
誰かの気配がした。
部屋の中央――
灯明の前に、一人の女が座っていた。
「……兄さま」
声は、あの日と変わらぬ響きだった。
黒髪が肩に流れ、淡い灯に照らされている。
夏絵だった。
雪ノ丈は言葉を失った。
ただ、手に持っていた包みが落ちる音だけが響いた。
「……夏絵」
「お帰りなさい」
その言葉は、静かな夜の空気に溶けていった。
長い旅の終わり。
けれど、その微笑の奥に、雪ノ丈は言いようのない影を見た。
夏絵は、しばらく雪ノ丈の顔を見つめていた。
夢か現か分からぬように、瞳が揺れていた。
次の瞬間、彼女は駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「兄さまっ……!」
小さな体が、勢いのまま雪ノ丈に抱きついた。
雪ノ丈は、驚いたように目を見開いた。
腕の中に伝わる温もり――
それは、雪の中では決して感じられなかったぬくもりだった。
「よかった……無事に帰ってきてくれて……」
夏絵の声は震えていた。
肩口に顔を埋め、涙が着物に染み込んでいく。
雪ノ丈は何も言わず、そっとその肩を抱き返した。
「……ああ。お前を置いて、死にはしないよ」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
その一言に、夏絵は小さく頷いた。
けれど雪ノ丈の心の奥には、微かな影が差していた。
(……何かが、終わっていない)
刀の重みが、まだ背に残っていた。
旅路の間ずっと追ってきた寒気のように、それは消えなかった。
夏絵は涙を拭き、微笑んだ。
「お腹、すいたでしょう。何か作るね」
「……ああ」
彼女が台所へ向かう足音を聞きながら、雪ノ丈は静かに座り込んだ。
囲炉裏の灰をかき、火を起こす。
ぱち、ぱちと音がして、煤が舞った。
その火の揺らめきの奥に、雪ノ丈は何かの気配を感じた。
背筋に、冷たい風が通り抜けた。
(……まさか)
廊下の向こう、障子の隙間から、一瞬だけ光が反射した。
それは、刃の輝きに似ていた。
――雪ノ丈を探す刺客が、すでにこの村のどこかにいた。
そのことを、まだ誰も知らない。
台所から包丁の音が聞こえていた。
夏絵が湯を沸かし、菜を刻む音が、久しく忘れていた家のぬくもりを思い出させた。
雪ノ丈は縁側に出て、外を眺めていた。
春とはいえ、風はまだ冷たく、竹林の葉がざわめいている。
ふと、背に冷たい気配が走った。
視線の先、畑の向こうの道に誰かが立っている気がした。
だが、次の瞬間には、ただの風が草を揺らしているだけだった。
「……気のせいか」
雪ノ丈は小さく息を吐き、腰を下ろした。
台所から、夏絵の鼻歌が聞こえてきた。
その音に包まれながらも、胸の奥に沈むものが拭えなかった。




