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第四話 ――帰路 ― 雪の果て ――

 風の音が、耳の奥で遠く響いていた。


 野橋雪ノ丈は、倒れ込むように山道を登っていた。


 振り返ると、江戸の町が白く霞んで見えた。


 背の袋の中で、刀が微かに鳴った。


 抜きもせず、握りもしない。


 ただ、その重みが確かに自分の中に残っている。


 山の中腹に、崩れかけた寺があった。


 屋根は落ち、柱は傾いていたが、雨風を凌ぐには十分だった。


 雪ノ丈はそこに身を寄せ、焚き火を起こした。


 火の粉が舞い上がる。


 その光に照らされて、雪ノ丈は刀を抜いた。


 刃に映る自分の顔は、見慣れぬものだった。


 目の奥が、何も映していない。


「……終わった、のか」


 刃についた血はすでに乾いていた。


 しかし、広住の断末魔が耳の奥で離れなかった。


 仇を討ったはずなのに、胸の中に残ったのは、重く沈むような痛みだけだった。


 雪が寺の隙間から舞い込んできた。


 白い粒が火に落ち、音もなく消える。


 雪ノ丈は刀を鞘に納め、火の傍に身を横たえた。


 数日の間、寺を出なかった。


 人の声を聞くことも、鳥の影を見ることもなかった。


 食べ物は持っていなかったが、腹の空きよりも眠りの深さが勝った。


 夜明け、山の霧が晴れた頃、雪ノ丈は立ち上がった。


 寺の前には、雪が厚く積もっている。


 彼はその上に足跡を残しながら、ゆっくりと山を下った。


「……帰るか」


 小さく呟いた声は、風にさらわれていった。


 江戸の喧騒も、血の匂いも、遠くに消えていく。


 その足は、故郷・霞ヶ沢へと向かっていた。


 そこに、もう二度と戻れぬものが待っているとも知らずに――。


 野橋雪ノ丈は、ただ歩いていた。


 雪が溶け、ぬかるんだ街道を、足音も立てずに進んだ。


 行き交う人々は、誰も彼を気に留めない。


 蓑をかぶった旅人のひとりに過ぎなかった。


 途中の茶屋で湯をもらい、耳にした噂に、雪ノ丈は静かに箸を止めた。


「桜田門外で、大老が斬られたんだと」


「えらい騒ぎさ。犯人は皆、討たれたらしい」


「お上はまだ探してるそうだ」


 湯呑みの湯気がゆらゆらと揺れる。


 雪ノ丈は湯を飲み干し、黙って立ち上がった。


 その名が、どこにも出てこなかった。


 誰も、野橋雪ノ丈という浪士のことを知らなかった。


(……俺は、いなかったことになったのか)


 安堵とも、虚しさともつかぬ感情が、胸の奥で揺れた。


 あの雪の日、自分は確かに刀を振るった。


 しかし、世の誰の記録にも残らなかった。


“斬った者”は死に、

“生きた者”は、存在を失った。


 雪ノ丈は歩き続けた。


 日は昇り、沈み、また昇った。


 野宿の夜、焚き火の煙の向こうで、草太郎の笑い声を幻のように聞いた。


――「剣は、呼吸の間で斬るものだ」


 耳の奥に響いた声に、雪ノ丈は微かに笑った。


「あのときの呼吸は、今も止まっていないぞ、草太郎」


 やがて、遠くに霞ヶ沢の山並みが見えてきた。

 幾度も夢に見た故郷の稜線だった。


 夕日が山肌を染め、鳥の声が聞こえた。


 雪ノ丈は立ち止まり、深く息を吸った。


 冷たい空気が肺を満たす。


 何日もかけて、彼はようやく村の入口にたどり着いた。


 道端には見覚えのある祠。


 幼い頃、妹とよく手を合わせた場所だった。


「……帰ってきた」


 誰に言うでもなく呟くと、雪ノ丈は帽子を脱ぎ、頭を下げた。


 村の上には、春の雲がゆっくりと流れていた。

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