第三話 雪の門前 ― 仇討ち ―
雪が降っていた。
白く、重たく、音を吸い込むような雪だった。
桜田門の前には、武士や駕籠が行き交い、街道の石畳もすでに白く染まっていた。
その群れの中を、ひとりの浪士がゆっくりと歩いていた。
野橋雪ノ丈――その胸の奥には、ひとつの名だけが焼き付いていた。
広住秋ノ進。
かつて親友・市原草太郎を背後から斬り殺した男。
今日、この門の前で井伊直弼の護衛として現れると、口入れ屋の親方は言っていた。
雪ノ丈は、手袋の中で刀の柄を確かめた。
冷たい。だが、その冷たさが心を落ち着かせる。
――来た。
遠くから、駕籠の列が見えた。
槍持ちが先を歩き、護衛の侍たちが周囲を囲んでいる。
その中に、見覚えのある姿があった。
広住秋ノ進。
白い雪を背に、秋ノ進はふとこちらを見た。
二人の視線が交わった。
その瞬間、何かが時間を止めた。
「広住――!」
雪ノ丈が踏み込んだ。
雪が弾け、刀が抜かれる音が轟いた。
秋ノ進も応じた。
その刃は迷いなく雪ノ丈に向かう。
だが、次の瞬間、勝負は終わっていた。
雪ノ丈の刃が袈裟に走り、秋ノ進の体が斜めに崩れた。
白い雪に紅が散り、静かに広がる。
雪ノ丈は息をしなかった。
風の音すら止まったようだった。
やがて、叫び声が上がる。
「井伊様が――襲われたぞ!」
「斬られた! 護衛を!」
喧騒が門前を満たした。
別の浪士たちが刀を振るい、駕籠が倒れ、血が飛ぶ。
雪ノ丈は、その渦の中でただ立ち尽くしていた。
(……俺の仇は、果たした)
その瞬間、彼の心に残ったのは、満足でも達成でもなかった。
ただ、空虚。
そして――恐れ。
「逃げろ!」誰かが叫んだ。
雪ノ丈は我に返り、雪道を走った。
血の飛沫が白い地面に細い線を描く。
背後で、怒号と悲鳴が混ざる。
火薬の煙が上がり、空が灰に染まる。
やがて、全ての音が遠のいていった。
雪ノ丈は路地裏に転げ込み、壁に背を預けた。
刀を見下ろすと、刃の半ばに血が残っていた。
「……これで、終わったのか」
誰に言うでもなく呟いた。
だが、その言葉に答える声はなかった。
雪は、まだ降り続いていた。
やがて人々は、この日をこう呼ぶことになる。
――桜田門外の変。




