第9話 波は異変を逃さない
駅前チェーンの喫茶店は、昼下がりの人波でほどよく騒がしかった。
カップが置かれる音、レジの電子音、誰かの笑い声。
すべてが混ざり合って、なんとも心地よい雑音になっている。
千聖は、窓際の席でプラスチックのカップを両手で包み、外を眺めていた。
(……集中できていない)
未来を見ているわけではない。何か差し迫った決断があるわけでもない。
ただ、胸の奥に、理由の分からない揺れがある。
「千聖ちゃん?」
柔らかくて少し高い声。
向かいに座る潮谷田海音は、ストローを指で回しながら、首をかしげていた。
腰まで伸びる水色の髪が照明を反射し、ピンクの毛先がふわりと揺れる。柔和で小さな顔にしつらえられた大粒のエメラルドグリーンの瞳は、わずかな感情の揺らぎさえも見逃さない色を湛えていた。
芸能とスポーツを司る神。人の視線や熱量、集中と緊張の“兆し”を読む存在。
それと同時に、雑誌やテレビでよく見る、大人気天才女優。
けれど今は、ただの同い年の従姉妹、そして親友として、目の前にいる。
「最近、元気ないよ」
「……そう見える?」
「うん」
海音は即答した。
「千聖ちゃんって、考え事してても、もうちょっと綺麗にしてるんだもん」
海音はストローをくるくると回しながら、少しだけ目を細める。
「今の千聖ちゃん、ちゃんと悩んでる顔してる。……それ、私ちょっと好きかも」
千聖は、思わず瞬きをした。
「でもね……」
言葉を探し、海音は少し困ったように笑う。
「なんか、もやっとしてる」
千聖は、否定できなかった。
「私、自分でもよく分からなくて」
「だよね」
海音は、あっさり頷く。
「分からない、って顔してるもん」
その言い方が、なぜか救いだった。
追及されていないのに、理解されている。
「ねえ千聖ちゃん」
海音は、紙カップに口をつけてから言った。
「最近さ、未来の話してる時より」
「何でもない話してる時の方が、疲れてない?」
千聖は、はっとした。
(そんな……)
胸の奥を、見透かされたような感覚が走る。
「だってさ、未来の話してる時の千聖ちゃんって、“準備万端”って感じなのに」
海音は、少し身を乗り出して続ける。
「最近は、“ぶっつけ本番”って感じ。そわそわしてるもん」
正直、あまり自覚はなかった。けれど、思い返すと心当たりがある。
「……どうして、そう思ったの」
「うーん」
海音は少し考え、正直に答える。
「私、舞台に立つ人の顔、よく見るから」
「台詞忘れそうな時とか」
「まだ何も起きてないのに、心だけ先に動いてる時とか」
海音は手元のカフェモカに視線を移す。
「そういう時って、本番が怖いんじゃないの」
「“何をしたいかがわからない”のが一番怖いの」
笑って付け加える。
「職業病、かな」
千聖は、カップを見つめた。
(心が、先に)
「千聖ちゃんさ」
海音は、少し声を落とす。
「未来視、最近使ってないよね」
胸が、きゅっと締まる。
「……どうして、分かるの」
「分かるよ」
海音は肩をすくめた。
「芸能でもスポーツでもさ、」
「調子悪い時って、数字より先に感覚がズレるでしょ」
「千聖ちゃん、今それなんだよ」
海音は、少しだけいたずらっぽく眉を上げた。
別に未来視を使えって言ってるわけじゃないんだけど、と付け足す。
「前はね、“答えを知ってる人の目”だったけど」
「今は、“これから選ぶ人の目”してる」
女優としての感覚。けれど、言葉はどこまでも真っ直ぐだった。
千聖は、はっとした。
その反応を見てか、海音は、慌てて続ける。
「それが悪いって言ってるわけじゃないから」
「ただ……」
一瞬、言葉に詰まる。
「ちょっと、心配になっただけ」
千聖は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(心配……)
海音は照れくさそうに視線を逸らし、ストローを甘く噛む。
「ほら、私たちってさ、女優とか女神様とか色々あるけど」
「それ抜きにしたら、ただの従姉妹で、親友じゃん」
「だからさ……調子悪そうだったら、何かあったのかなって気になるよ」
それだけで、なぜか救われる。
「私ね」
千聖は、ぽつりと言った。
「理由もなく、胸がざわつくの」
「未来を考えてない時でも」
「特定の……」
言いかけて、止まる。
名前を出す勇気が、なかった。
海音は、何も聞かなかった。
ただ、優しく微笑む。
「分からない気持ちってさ」
「無理に分かろうとすると、余計苦しくなるよ」
「私も、そういう時あるし」
その言葉は、神ではなく、女優のものでもなく、同い年の親友のものだった。
「千聖ちゃんが変わってきてるのは、事実だと思う」
「でも、それをどうするかは」
「......千聖ちゃんのペースでいい」
海音は立ち上がり、カップを持つ。
「未来が視えるからって」
「気持ちまで先に決めなくていいでしょ?」
その一言が、胸に静かに落ちる。
海音は軽くウインクして続ける。
「感情くらい、行き当たりばったりでもいいじゃん」
「むしろ、その方が――ドラマになるし」
千聖は、何も言えなかった。
ただ、揺れ続ける何かを抱えたまま、それを否定しなくていいのだと、初めて思えた。
別に海音が特別千聖を元気付けようとして言ったわけではない。
舞台の神として培った感覚と、一人の友達としての優しさで、自然に言葉を選んでいるだけだった。
けれどその言葉は、確かに、今の千聖に必要なものだった。
名前のない揺らぎは、まだ消えない。
けれど、それを抱えたまま進んでもいいのだと、千聖は初めて思えた。
こんにちは。椎野陽葵です。明日以降は21:10投稿になります。「未来が視える女神様ですが、正解は選びません」を手に取っていただき、ありがとうございました!




