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第10話 視えない兆しは、すでに始まっている

 千聖(ちせ)が最初に異変を感じたのは、未来視そのものではなかった。

 千聖は、朝の教室で席につきながら、ほんのわずかな違和感を覚えていた。窓から差し込む光、クラスメイトのざわめき、黒板の前に立つ教師。すべては、昨日までと変わらない。

 それなのに。


(……静かすぎる)


 音がないわけではない。むしろ、普通に騒がしい。いつもよりもうるさいくらいだ。

 けれど、未来が沈黙している。

 未来視を使っていないのに、“未来がこちらを見ていない”感覚があった。


「おはよ」


 隣の席に、(けい)が腰を下ろす。

「……おはよう」

 返事をしながら、千聖は自分の声が少しだけ(うわ)ずっていることに気づいた。

(なんで)


 圭は、いつも通りだ。特別な変化はない。

 なのに、彼が視界に入るだけで、胸の奥が、わずかにざわつく。

(……集中しなさい)

 未来視を使えば、理由は分かるかもしれない。けれど、千聖はそれをしなかった。

 なんだか最近、未来を“視たくなる機会”が、減っている。そう感じた。


 放課後。屋上へ向かう途中、千聖は立ち止まった。

 視界の端が、ほんの一瞬、歪んだのだ。


(……今のは)


 未来視ではない。時間操作でもない。

 それでも、確かに“何か”が重なった感覚。

 ――観測者(クロノス)

 その単語が、脳裏をよぎる。


 前回の対峙から、しばらく経っている。直接的な干渉はない。

 だが、世界の側が、再び整えられ始めている。

(来る……)

 理由は分からない。未来として視えていないのだから。

 それでも、神としての直感が告げていた。

 ――次は、前よりも近い。



 同じ頃。別の場所で、海音(うみね)はスマートフォンを握りしめていた。

 撮影の合間。控室のソファに座りながら、画面に映る自分のスケジュールを眺める。

 ……異常はない。

 仕事は順調。体調も問題なし。

 それでも。

(……変)

 理由は説明できない。

 芸能とスポーツを司る神として、海音は「流れ」を感じ取る。

 観客の視線が集まり始める前。選手が勝敗を意識する前。

 空気は、必ず先に変わる。

 そして今。

(多分、千聖ちゃんの“流れ”が、動いてる)

 連絡を取ろうとして、手を止めた。

(……今じゃない)

 根拠はない。ただ、今は“待ち”の時間だ。

 舞台に上がる前の、あの一瞬の静けさ。あれに、よく似ている。



 夜は、思ったより静かだった。

 窓の外では、街灯が淡い光を落としている。遠くを走る車の音が、一定の間隔で途切れては戻り、部屋の中には時計の針の音だけが残っていた。

 千聖は机に向かったまま、手を止めていた。

 教科書は開いたまま。

 ノートの上には、途中まで書きかけた数式。

 だが、視線はそこにはない。

観測者(クロノス)……)

 その言葉を、心の中で何度も繰り返す。

 口に出したことは、ほとんどない。

 言葉にすると、存在が近づいてくる気がして。

 形を持ってしまう気がして。

 けれど考えないわけにはいかなかった。


 あれが何者なのか。

 なぜ現れたのか。

 何を望んでいるのか。


 そして――次に、いつ現れるのか。


 千聖は椅子の背にもたれ、小さく息を吐いた。

 未来視を使えば、わかる。

 ほんの少し意識を集中させれば、次の接触の兆候も、危険の位置も、回避すべき選択肢も、すべて見えるはずだ。


 けれど、視ない。

 それは意地ではなく、約束のようなものだった。

 誰かに命じられたわけでも、縛られているわけでもない。

 ただ、自分で決めた。

 “視ない”という選択。

(……でも)

 指先が、わずかに震える。

 視なければ、不安は消えない。

 むしろ増えていく。

 形のない影のように、じわじわと広がっていく。

 観測者(クロノス)は、未来を外さない。

 それが、これまでの印象だった。


 無理をしない。

 無駄を打たない。

 感情に流されない。


 まるで、最悪を避けるためだけに存在しているかのように。

 その姿は、どこか自分に似ていた。


 いや。


 似ているというより――先にそこにいた。

(私が選んできた“正解”の先に、あれはいる)

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。

 もし観測者(クロノス)が、未来を見ているのだとしたら。

 もし観測者(クロノス)が、自分と同じように“最悪を避け続けた存在”なのだとしたら。

 そこに、どんな終わりが待っているのか。


 千聖は目を閉じた。

 暗闇の中で、いくつもの未来の断片が浮かび上がりそうになる。

 だが、それを押し戻す。


 今は、視ない。

 代わりに、考える。

 観測者(クロノス)は、敵なのか。

 その問いは、何度も浮かんでは消えた。


 人を殺したわけではない。

 街を壊したわけでもない。

 世界を滅ぼそうとしているようにも見えない。

 むしろ逆だ。

 被害が広がる前に、動く。

 衝突が起きる前に、止める。

 最悪の選択がなされる前に、別の道を用意する。


 それは、救済に近い。

 だが――

(優しさじゃない)

 千聖は、はっきりとそう思った。

 あれは、優しさではない。

 計算だ。

 損失の最小化、被害の制御、結果の管理。

 そこに、人の温度はない。

 だからこそ、怖い。


 人間なら迷う。

 人間なら、立ち止まる。

 人間なら、誰か一人を選んでしまう。


 けれど、観測者(クロノス)は選ばない。

 ただ、()()()()()()

(それって……)

 そこまで考えて、言葉が止まる。


 もし。

 もし、観測者(クロノス)が本当に“正しい”のだとしたら。

 もし、その選択がすべて合理的で、必要で、世界を守るためのものだとしたら。


 自分は、何を否定することになるのか。

 胸の奥が、じわりと重くなる。

 千聖はゆっくりと立ち上がり、窓の前へ歩いた。

 カーテンを少しだけ開く。


 夜の空は、静かだった。

 雲がゆっくり流れ、星がいくつか瞬いている。

 未来は、そこには書かれていない。

 ただ、広がっているだけ。

観測者(クロノス)は……)

 何を守ろうとしているのか。


 人か。

 国か。

 世界か。


 それとも――


 もっと小さな、何かか。


 ふと、圭の顔が浮かぶ。

 無口で、少し不器用で。

 けれど、危険な場面では必ず前に出てくる。


 未来を知らないくせに、迷わない。

 彼は、正解を選んでいるわけではない。

 ただ、守りたいものを守っている。

 それだけだ。


(……いいな)


 小さく、心の中で呟く。

 未来を知らないまま、立てる強さ。

 正しさに縛られない勇気。

 それは、ずっと自分が持てなかったものだった。


 机の上に置いたスマートフォンが、わずかに光る。

 通知はない。

 ただ画面が反射して、天井の灯りを映している。

 千聖はそれを手に取り、しばらく眺めた。

 連絡を取ろうと思えば、すぐにできる。

 声を聞こうと思えば、今すぐにでも。

 けれど、指は動かなかった。

 代わりに、胸の奥にある感覚が、ゆっくりと形を持つ。

 それは恐怖だった。


 観測者(クロノス)への恐怖。

 未来への恐怖。

 そして...一人で立つことへの恐怖。


 これまでずっと、一人で立ってきた。

 未来を視て、選び、守り、背負ってきた。

 それが当然だと思っていた。

 女神だから。

 選ばれた存在だから。

 できるから。


 でも。


(違う)


 静かに、首を振る。

 できることと、耐えられることは別だ。


 未来を視ることはできる。

 正解を選ぶこともできる。

 世界を守ることだって、きっとできる。


 けれど。

 そのすべてを、一人で背負い続けることは――

 できない。


 窓の外の夜は、変わらず静かだった。

 だが、その静けさの奥に、何かが潜んでいる気がする。

 次に現れる時も、観測者(クロノス)は、きっと迷わない。

 最悪を避けるための手を、ためらいなく打つ。

 必要なら、誰かを切り捨てる。

 その瞬間、自分は何を選ぶのか。


 正しさか。

 守りたいものか。


 答えは、まだ出ていない。

 けれど一つだけ、確かなことがあった。

 胸の奥に、静かに沈んでいく理解。

 逃げ場のない現実。

 それは、未来視を使わなくても見えてしまうほど、はっきりしていた。

 次に観測者(クロノス)が現れた時、千聖は一人では立てないということが。

こんにちは。椎野陽葵です。「未来が視える女神様ですが、正解は選びません」を手に取っていただき、ありがとうございました!

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