第5話 初めての朝
朝は、いつもより少し遅く目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに柔らかい。
胸の奥に、昨夜の余韻が残っている気がして、千聖はしばらく天井を見つめていた。
未来は、視なかった。
だから今日がどうなるのか、何が起こるのか、何を選ぶべきなのか、何一つわからない。
けれど不思議と、不安はなかった。
代わりに、ひどく現実的な感覚があった。喉の渇き。布団の重み。遠くで朝を知らせる鳥の声。
(……ちゃんと、朝だ)
それだけのことが、こんなにも確かに思えるのは初めてだった。
リビングへ降りると、母が振り返る。
「珍しいわね、ぼーっとして」
「そう?」
「寝不足?」
未来を視なかったことは、言わない。言葉にした瞬間、なにかが崩れてしまいそうで。
「ううん、ちょっと考えごと」
それだけで十分だった。
食卓に並んだトーストから、小麦の香ばしい香りがする。
ジャムをつけようとして、スプーンを取る。
スプーンを持つ指先が、ほんの少し震えているのに気づいて、千聖は苦笑した。
怖くないと思ったのに、身体は正直だ。
外見や気分は取り繕えても、なんだか落ち着かない。
身支度を整え、鞄の中身をしっかりとチェックして、千聖は家を出た。
学校へ向かう道。いつもなら、角を曲がる前に“未来”を確認する。歩いた先は、危なくないか。誰とすれ違うのか。今日の出来事の輪郭を薄くなぞる。
今日は、それをしない。
ただ、歩く。
風が頬を撫で、髪を靡かせる。セーラー服のリボンが揺れる。小さな石を蹴る。蹴った石は、思ったより遠くへ転がっていった。
(……あ)
未来を視ていなかったからだろうか。自分でも、少しびっくりした。
思ったより石が転がっていったことだけでなく、それに自分が驚いていることに。
未来で何が起きるかを知っていれば、驚くことはそうほとんどない。だから、千聖にとってこの感覚は新鮮で、どこか愛おしかった。
校門の前で、クラスメイトの声がする。
「女神様、おはようございます!」
「おはよう」
いつも通り、挨拶と笑顔を返す。だが今日は、ほんの少しだけ、目を細める時間が長かった。
この何気ない朝が、どれだけの分岐の先にあるのかを、千聖は知っている。けれど、今日は数えない。
教室の窓から差し込む光が机に落ちる。チョークの粉が舞う。ページをめくる音が連なる。
教師の声を聞きながら、千聖はふと思う。
未来を視ないということは、間違える可能性を受け入れることだ。
選択を外すかもしれない。守れないかもしれない。後悔するかもしれない。
(それでも、いい)
昨日の夜、自分で決めた。
“正解”を選ぶのではなく、”自分の道”で進むと。
昼休み。購買へ向かう途中で、偶然、圭と目が合った。
一瞬、胸が跳ねる。
未来を視れば、この瞬間の続きはわかる。何を言えば、どんな表情をするのかも。
けれど、視ない。
視線が合った瞬間、圭はわずかに眉をしかめ、肩をすくめる。
「……何。じっと見てくるとか、ちょっと怖いんだけど」
千聖は、ほんの一歩だけ距離を詰める。しかしそれ以上は踏み込まない。
「ごめん。ちょっと確認したかっただけ」
圭は不思議そうに首を傾げる。
「何を」
千聖は一瞬だけ言葉を探し、そして、少しだけ照れたように笑った。
「……ちゃんと、ここにいるなって」
千聖は、少しだけ笑う。
本当は、他にも言いたいことがあった。昨夜のことも、不安も。
それだけで十分だと、思えるから。
放課後。夕焼けが校舎を染める。
帰り道、ふと立ち止まる。空は、相変わらず広い。
(明日は、どうなるんだろう)
視れば、わかる。視なければ、わからない。
でも今日は、その“わからなさ”を抱いたまま、歩ける。
それが、こんなにも温かくて、面白い。
未来は、確かに怖い。死も、喪失も、取り返しのつかない選択も、そこにはある。
それでも。
視えない明日へ足を踏み出すことが、こんなにも静かな勇気をくれるなんて、知らなかった。
千聖は、夕暮れの中で、そっと息を吐く。
正解を選ぶ女神ではなく、迷いながら歩く一人の少女として。
その一歩は、小さい。けれど確かに、自分のものだった。
こんにちは。椎野陽葵です。「未来が視える女神様ですが、正解は選びません」を手に取っていただき、ありがとうございました!




