第17話 世界の「何もなかった」ような顔
観測者との戦いから、三日が経った。
世界は、何も変わらない。
時間の進み方も、空気の硬さも、人の、物の色彩も。
少なくとも、表面上は。
私立慶能高校は、いつも通りのざわめきで満ちていた。
教室で本をめくる音。廊下を走る生徒を叱る声。自販機の前で硬貨を落とす音。
中庭も、同じだ。
噴水は規則正しく水を噴き上げ、ベンチには誰かが忘れたペットボトルが置きっぱなしになっている。
あの日、世界が引き伸ばされ、時空が歪み、観測者と対峙した場所だとは、誰も思わない。
千聖は、中庭の端を歩きながら、ふと足を止めた。
(……何も、残ってない)
歪みもない。圧もない。時間の引っ掛かりすらない。
それが、正しい状態なのだと理解しているはずなのに。
胸の奥に、小さな空白が残っていた。
「千聖」
後ろから声をかけられる。
圭だった。
制服の着こなしも、歩き方も、いつも通り。
ただの男子高校生。
「考え事?」
「……少し」
千聖は、曖昧に答えた。
圭は、それ以上踏み込まない。それもまた、いつも通り。
「授業、始まるぞ」
「そうね」
二人で校舎に向かう。
その途中、千聖は無意識に、空間の未来を読もうとして......やめた。
(……使わない)
(もう、そう決めた)
”空間支配”は、確かにそこにある。
未来視も、できる。
だが、常に世界を握る必要はない。
未来を視て、正解を選ぶ必要もない。
それを理解したことが、神としての成長なのか、ただの逃避なのか――千聖自身にも、まだ分からない。
教室に入ると、視線が一斉に集まる。
「おはようございます!女神様!」
「今日もお綺麗……」
「ノート写させてください!」
女神様。
いつもの呼び名。いつもの距離感。
千聖は、微笑んで応じる。
「おはよう」
「あとでね」
その表情は完璧だ。未来を視なくても、身についている。
だが。
(……違う)
(この距離)
(本当の私じゃない)
ふと、あの日、観測者に言われた言葉がよぎる。
(未来を守る神ではない)
胸が、わずかにざわつく。
「常野、席つけー」
担任の小山が教室に入ってくる。
変わらない声。変わらない態度。
だが、千聖は気づいてしまった。
小山が、自分を”一人の生徒”として見ている。つまりーー”特別に見ていない”ことに。
それが、今は少しだけ、ありがたい。
近くの席の女子は「いくら教師とはいえ、女神様に指図するなんて生意気な」と目上の人に対して非常に失礼な態度をとっていたのでにこりと微笑みかけた。
なぜか千聖のクラスの女子は、ほとんどが微笑みだけで千聖の意図を汲み、口を慎んでくれる。...普通に考えればおかしくないだろうか。
千聖はそんなことを考えながら、はい、と返事して自分の席に座った。
昼休み。
千聖は、圭と並んで中庭のベンチに座っていた。
春の風が、柔らかく吹き抜ける。
校舎の窓がわずかに軋み、遠くで昼練中の運動部の掛け声が聞こえる。
千聖は、弁当の包みをあけ、箸を取り出した。
「……今日、海音は?」
千聖は、箸を持ったまま小さく尋ねる。
聞く前から、答えは分かっている気もした。
「雑誌の撮影」
圭が即答する。
迷いも、考える間もない。
まるで天気を答えるみたいに、自然な口調だった。
「朝、クラスメールにメッセ来てたぞ」
「今日も来れないって」
「……そう」
千聖は、うなずいた。
そして、少しだけ視線を落とす。
弁当の卵焼きが、やけに黄色く見えた。
(あの子は、もう...)
芸能とスポーツの神。
だがそれ以上に、現実を生きる人間。
観測者との戦いも、彼女にとっては“一幕”だったのだろう。
舞台が終われば、次の舞台へ。
スポットライトが当たれば、そこに立つ。
ただ、それだけ。
「昨日もさ」
圭が、何気なく言う。
「テレビ出てたぞ」
「……見てない」
「バラエティ番組」
「なんか、普通に笑ってた」
圭は少しだけ口元を緩める。
「全力で変なゲームやってた」
「ジェスチャーでゴリラやってたな」
「……想像できる」
手をグーにして、自分の胸をポコポコ叩いている海音が目に浮かぶ。
千聖の口元に、わずかに笑みが溢れた。
「楽しそうだった?」
「楽しそうだった」
短い会話。
けれど、それはどこか安心するやり取りだった。
少しの沈黙。
風が、二人の間を通り抜ける。
「……不思議だよな」
圭が言う。
独り言のように。
「終わったはずなのに」
「終わった感じがしない」
千聖は、少し驚いて彼を見る。
「圭も……?」
「ああ」
圭は空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
何も起きそうにない、平和な空。
「否定は、静かになった」
その言葉は、低く。
慎重に選ばれたように響いた。
「でも、消えたわけじゃない」
「……うん」
千聖は、静かに同意する。
確かに、感じていた。
以前のような圧力はない。
世界が歪む気配もない。
時間が止まる感覚もない。
それでも。
どこかに、残っている。
目には見えない。
触れることもできない。
けれど、確かに――
「なあ」
圭が、少しだけ声を落とす。
「もし、また来たら」
言いかけて、止まる。
「……何?」
「いや」
圭は苦笑する。
「変なこと聞くなって思って」
「聞いて」
千聖は、まっすぐ言った。
少しだけ強い声で。
圭は、短く息を吐く。
「もし、また来たら」
「今度はどうする?」
その問いは、軽いようで。
重かった。
千聖は、少しだけ考える。
未来視は使わない。
答えも、用意されていない。
それでも。
「……戦うと思う」
静かな声。
「逃げない」
はっきりとした言葉。
圭は、ゆっくりとうなずく。
「だろうな」
「圭は?」
「同じだ」
迷いのない返答。
それだけで、十分だった。
千聖は、そっと手を握る。
――圭の、ではない。
自分自身の。
指先に、わずかな力が入る。
(……次が、ある)
理由はない。
未来視も使っていない。
それでも。
確信があった。
胸の奥の、
もっと深い場所で。
静かに、しかし確かに、何かが、待っている。
終わりではない。
これは、ただの幕間。
「なあ、千聖」
圭が、ふと呼ぶ。
「ん?」
「弁当」
「……?」
「卵焼き、焦げてるぞ」
「……え」
千聖は慌てて弁当箱を覗き込む。
確かに、少しだけ黒くなっていた。
「今日、寝不足だったから」
「だろうな」
圭は小さく笑う。
「でも」
「普通にうまそう」
その何気ない言葉が、
妙に胸に残った。
日常は、続いている。
戦いが終わっても。
神が去っても。
世界が静かになっても。
それでも。
(……次が、ある)
千聖は、もう一度だけ、
自分の手を強く握った。
放課後。
中庭に、夕日が差し込む。
あの日と同じ光。だが、違う時間。
千聖は、一人で立ち止まり、静かに呟いた。
「……もう、決めさせない」
観測者にでも。神の掟にでも。未来そのものにでも。
世界は、静かだ。
だがそれは、嵐の前の静けさではない。
次の幕が上がるまでの、“準備時間”だ。
千聖は歩き出す。
女神としてではなく。一人の少女として。
その背後でーー
誰にも見えない場所で、観測者にも観測されないはずの領域が、ほんの一瞬だけ、揺れた。
いずれ脅威となる「それ」がーー
世界の異変を語っていた。
こんにちは。椎野陽葵です。以降週2(水、土)での投稿になります。ブックマークや評価いただけると嬉しいです!「未来が視える女神様ですが、正解は選びません」を手に取っていただき、ありがとうございました!




