第15話 舞台はすでに仕組まれている
数日後
私立慶能高校の朝は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
チャイムの音。
廊下を走る足音。
教室から漏れる笑い声。
「やば、遅刻だって!」
「ほら走れ走れ!」
「先生もう来てるって!」
そんな焦った声さえ、どこか日常の一部として溶け込んでいる。
久しぶりの海音の登場に歓喜する声。
「え、海音ちゃん来てる!」
「ほんと!?仕事もあるのに学校も来て、すごいなあ...!」
「うお、相変わらず目立つなあ……」
――すべて、正常。いや、最後のは正常ではないかもしれないが。
それが逆に、千聖には少しだけ落ち着かなかった。
(……本当に、何もなかったみたい)
風が吹く。
制服のスカートが、わずかに揺れる。
校舎の窓ガラスに反射する朝日が、まぶしいほどに穏やかだ。
(こんなに、普通でいいの……?)
「おはよー、千聖ちゃん」
背後から、軽やかな声。
振り向くと、
同じ制服を着た海音が、手を振っていた。
毛先まで手入れされた水色の髪は今日は、結ばずに下ろされている。
ピンクに染めた毛先も、校則ギリギリの範囲に収まっている。
リボンの結び方まで、やけにきちんとしていた。
「……おはよう、海音」
「眠そうだね」
海音は、じっと千聖の顔を覗き込む。
距離が近い。
「クマ、ちょっと出てるよ」
「……少し」
嘘ではない。
昨日起きた出来事が忘れられず、寝不足になったのだ。
「そっか」
海音は、特に深く突っ込まずに歩き出す。
その横顔は、どこか楽しそうにも見えた。
「今日は平和そうだよ」
「……そうね」
「少なくとも、朝の台本は“日常回”」
「……台本?」
「気にしない気にしない」
くるりと回って、海音は笑う。
まるで舞台の上の役者のように、自然な仕草だった。
「一区切りついた次の日ってさ」
「だいたい、平穏な回になるじゃん?」
「……何の話?」
「物語の話」
軽く肩をすくめて、教室の扉を開ける。
ガラッ。
「おはよー!」
「海音ちゃん!」
「久しぶりー!」
教室の空気が、一気に華やぐ。
圭は、すでに席に着いていた。
いつもと同じ姿勢。
いつもと同じ、少し眠そうな顔。
頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を見ている。
「……おはよう」
千聖が声をかけると、
圭はゆっくりと視線をこちらに向けた。
「おう」
それだけ。
たった一言。
それだけで、
千聖の胸の奥が、わずかに緩む。
(……どうして)
(圭を見ると、安心するんだろう)
理由は、やっぱり分からない。
「顔色、悪くないか?」
圭が、少しだけ眉をひそめる。
「寝不足か?」
「……少しだけ」
「無理すんなよ」
短い言葉。
けれど、それは不思議と重みがあった。
海音は、二人を交互に見て、
何か言いたげに口を開き――
「……ふーん」
意味ありげに笑って、
結局、何も言わなかった。
授業は、問題なく進んだ。
「次の問題、解ける人」
「はい」
千聖は、自然に手を挙げる。
数式は正しく解ける。
英語の長文も、意味を取り違えない。
「Excellent」
「その通りです」
教師の声が、教室に響く。
未来視を使わなくても、
千聖の成績は揺るがなかった。
ただ。
(……読めない)
次の瞬間が。
一時間後が。
放課後の光景が。
これまで当たり前のように見えていた未来。
未来視を使わずとも、感覚的になんとなくわかる。でも、霧の向こうに隠れてしまったかのように、読み取ることすらできない。
それが、不安ではなく。
どこか、奇妙に新鮮だった。
(……初めて)
(本当に、“今”を生きている気がする)
昼休み。
三人は、中庭へ向かっていた。
「なんで中庭?」
圭が首を傾げる。
「教室でもよくないか?」
「だってさ」
海音が、当然のように言う。
「昨日の“本番前”の空気」
「確認しとかないと」
「……何の?」
「舞台装置」
「だから何の?」
「世界の」
圭は、ますます分からない顔をする。
「ほんとに何言ってんだ?」
「分からないなら、それでいいよ」
海音は笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
千聖だけが、足を止めた。
(……同じ場所)
昨日、空間が歪み、
観測者と向き合った場所。
中庭は、今日も変わらない。
ベンチ。
植木。
青空。
数人の生徒が弁当を広げ、
遠くではサッカーボールを蹴る音が聞こえる。
――変わらない、はずなのに。
千聖の感覚が、微かに警鐘を鳴らす。
光の当たり方が、
ほんの少しだけ不自然だ。
影が、一定の方向に揃いすぎている。
風が吹いているのに、
葉の揺れ方が、どこか均一すぎる。
(……まだ)
(“動いていない”だけ)
海音が、立ち止まる。
「……やっぱり」
声が、低い。
さっきまでの軽さが、完全に消えていた。
「ねえ、二人とも」
「ここ、居心地いい?」
圭は、少し考えてから答えた。
「……悪くはないけど」
周囲を見回す。
「落ち着かない」
「なんか」
「静かすぎる気がする」
千聖は、無言で頷く。
その瞬間。
中庭の空気が、
音もなく“切り替わった”。
ざわめきが消える。
遠くの校舎の声が、
舞台裏に引っ込むように遠のく。
ボールを蹴る音も、笑い声も、風の音さえも、
ーーすべてが、消えた。
そして。
正面。
空間の揺らぎの中に、
「人の形をしていない“何か”」が、立っていた。
輪郭が定まらない。
色もない。
ただ、そこに“存在している”としか言いようがない。
『……再配置完了』
感情のない声。
だが、前よりも明確だ。
音が、直接脳に響くような感覚。
『……再解析開始』
圭が、一歩前に出る。
靴底が地面を踏む音が、やけに大きく響いた。
「……来たな」
短く、低い声。
だが、そこには迷いがなかった。
海音は、制服の袖を軽く整えた。
まるで舞台に上がる直前の役者のように。
「ほら」
「言ったでしょ」
「次は、もっと大きい舞台だって」
口元に、わずかな笑み。
千聖は、息を吸う。
肺いっぱいに空気を取り込み、
ゆっくりと吐き出す。
未来は、視えない。
次の一秒すら、分からない。
それでも。
(怖くない)
(どうしてだろう)
視線を横に向ける。
そこには、圭がいる。
そして、海音がいる。
この場所で、
この二人と立っている理由だけは、分かる。
逃げないため。
終わらせるため。
そして――
自分の物語を、自分で選ぶため。
中庭は、再び“舞台”になった。
観測者と、向かい合う形で。
――幕は、静かに上がった。
こんにちは。椎野陽葵です。「未来が視える女神様ですが、正解は選びません」を手に取っていただき、ありがとうございました!




