パットの敵
グロリアが夢を語ることに呼応するように、パットもまた揺れる車の中で夢を見ていた。
パットは悲痛に顔を歪めて叫んでいた。「フローベル! フローベル! フローベル!」
パンッと頬をはたかれる音と共に痛みが駆け上ってきた。フローベルは驚き咄嗟に起き上って言った。。「何だ! 何があった!」目の前にパットの顔があった。パットは心配に顔をゆがめていた。若干日に焼けた彼女の顔が目の前にあった。
「私たち捕まったのよ。何も覚えてないの? 今までのこと。全部?」捕まった? 一体それはどういうことだ。おれたちは夕食を楽しもうと外出し、車に乗っていたのではなかったのか。フローベルは頭を横に振った。「ああ・・・ごめん。覚えてない」しかし今思えばなぜおれたちが車に乗れたのかを今更に考えると、ギルバートはまた世界を改変したのだろうか。車の必要性に気づいたか。
フローベルとパットは牢屋に収監されていた。パットはフローベルの体の上から退くと、顔を引きつらせた。ここは牢獄だった。周囲にも牢屋がたくさん並び、そのすべてが埋まっていた。中身はすべて人ではなく、アメーバだった。
パットは震える声を必死に抑えようとしたができなかった。
「ねえ。私の姿、人間だよね」
「ああ。ちゃんと人間だ。おれも人間か?」寒い。体の震えが止まらない。ここはどこだ? なぜここにいる?「ちゃんと人間よ」とパットは言った。
隣の牢屋に収監されているアメーバが口を開いた。綺麗な人の声だった。「おまえたちが人間でいられる時間もそう長くはないだろうな。クックックック」フローベルは言った。「どういう意味だ?」
「おれも元は人間だった。だがいつの間にかこんな醜い姿に変えられていたのさ。つまりここに収監された人間はひとり残らずアメーバにされるってわけだ」アメーバが身をくねらせながらフローベルに這い寄ってきた。
「おまえが元は人間だったって? じゃあ社会の屑になるようなことをしでかしたんだろ。でもおれたちはおまえたちと違って何も悪いことはしちゃいない。アメーバにされる理由がないよ」
フローベルは内心焦っていた。状況が全く分からない。気づいたらここにいた。そしたら次はアメーバにされるという脅しだ。何がどうなっている! もう今日は散々な日だ。早く現実に帰してくれ! パットがいることが理性をなんとか保っていた。プライドを捨てた惨めな想いをするのだけは嫌だ。
「理由は必要ない。意味もなくおれたちはアメーバにされる。それが運命だ」アメーバはどこからか発声した。
「そんな運命を受け入れろと・・・」とパットが言った。「ここから出よう」とフローベルはパットの姿を見てこたえた。「出たいよ。けどどうやって?」あたりを見回せば、アメーバしかいなかった。両腕は手錠で拘束され、身動きも自由に利かない。二人とも同じ条件だった。「寒い」パットは体を震わせてフローベルに体をすり寄せてきた。「お、おい」フローベルは緊張で体をこわばらせた。「あったかい」パットはつぶやき瞼を下ろした。しかし彼女の言葉に暖かみはない。単調な声音で冷たいものだった。おれの体は温かく人間的だ。ただその事実を彼女は述べただけだ。
ここまで来るのに一体全体どんなことがあったんだ・・・頭が混乱し正確に物事を考えることができない。二人とも体中に擦過傷が見られる。なにか脅威から逃げていたのか? パットと二人で? おれはこの世界でどのような位置づけがなされているのだろう。この世界でも運命を決めている人間がいるとすれば、今だけそいつを呪ってやる。おれを訳の分からない状況に陥れ楽しんでる人間を。
フローベルはパットに申し入れをし牢屋の扉を蹴り破ろうと振り抜いた。だがびくともしなかった。脚に痺れがきた。埃がパラパラと頭上に舞い落ちてきた。「フローベルは信じてる? 夢が叶うって」唐突にパットが口を開いた。
フローベルは彼女の言葉の現実感のなさに鳥肌がたった。詩的な発言を実際に聞いた時、そのあまりの現実から乖離した言葉にフローベルはおかしさを感じ、笑いを堪えねばならなかった。だがそれは一瞬だった。ここは真剣に考えてこたえるべきだろうか。冗談を言ったほうがいいだろうか。「叶う夢もあれば、叶わない夢もあると思う」フローベルの返答にパットは頷いた。「そうね、たしかに。でもそれって退屈じゃない? 夢は全部叶うと信じていたほうが、もっと楽しい毎日を暮らせると思うの」フローベルは彼女自身そんな前向きな考えをしないことを知っていた。「おれにはそんな前向きな考えできそうにないな」
パットは鼓動を確かめるように胸に手を当てた。彼女は立ち上がり牢屋の格子の鉄棒を掴んだ。手が震えていた。フローベルに彼女の顔は見えなかった。「私の夢がそろそろ叶いそうなんだ。実はわたしには復讐したい相手がいて・・・」復讐? まさか。そんな。まさか。フローベルは口のなかが乾燥して手足に痺れがきているのを感じた。視界が揺れ出し今にも倒れそうなくらいだった。
「フローベル、あなたよ! 見て! もう手が震えて武者震いが止まらないの! あなたを見つけたときと同じ。興奮がいまわたしの心にきてる。ここまでうまくやってこれた。やっと殺せる!」
パットは振り返った。フローベルは揺らぐ地面を踏みしめ倒れることお構いなしに、パットの首を絞めにかかった。 フローベルはパットの顔を見ないようにした。パットは「うっ・・」と唸り、フローベルの腕をひねった。フローベルは尋常ではない痛みに苦痛に顔を歪めパットから離れた。「まだ気づかないの? ここはわたしの夢のなか。わたしは人間の夢をさだめることができる。フローベルならわかるでしょう? わたしの両親を殺したフローベルなら! いまここで何が起きているのかも。どうして殺されることになっているのかも」
夢のなか? 嘘だ。夢のなかにいることが現実なんて…。フローベルはパットの鬼のような形相を見た。きつく閉じられた唇がわなわなと震えている。右手に掴んだ格子が今にも折れそうな勢いでギリギリときつく締め上げているようだった。体中に力が入っているのが分かった。そうか…こいつも世界を回している何人かの内の一人なんだ。
フローベルは彼女の復讐という言葉を思い出した。恨みを買うことをやっていたという自覚はあった。しかし本当に恨まれていたと知ったのは今日が初めてだ。きっとパットは何人もの夢をさだめてくる中でおれの名前と職を知ったのだろう。
恨まれていたという事実が重く心にのしかかり、フローベルを苛んだ。涙が出そうになったがなんとか踏みとどまった。
「分かっている・・・おれは何人もの人間を殺した。しかも何の責任も負わずに罪のない人たちを殺した。いつか彼らの恨みを買うことは分かっていた。でもおれは運がよかった。今日まで生き延びれたのも、おれの知らない誰かが死の運命を先延ばしにしてくれたおかげだと、おれはそいつに感謝してる。良心の呵責で死にたいなんて思ったことは生憎なかったからな・・・まあおれの今就いてる職はこれまで何人もの人間が自殺するまで追い込まれて・・・」
「そんな話聞きたくない!」フローベルの声を打ち消す勢いでパットは強く言った。「あんたたちは悪魔だ。それだけで十分だ。人の生き死にを決めてる奴が勝手に死のうとわたしには関係ない」
フローベルの視界が瞬間暗くなり瞬きと重なったようで、奇妙な感覚をえた。錯覚か? 牢屋内にパットを見ていたはずなのに、後には牢屋の外で彼女が右手に鉄格子を握っていた。夢だから自在に・・・そこまでできるのか? いや、どんなことだって今のパットならできるにちがいない。「何をした」と聞きたかったが、わかりきった質問をすることでプライドが傷つくことは目に見えていた。
「わたしがあなたに何かした? 何もしてないでしょう? 今の見た? わたしができるのは人に見せる夢をさだめること。ただそれだけ。なのに、どうしてわたしを苦しめるの? どうしてあなたは正気でいられるの? どうしてあなたは・・・」
パットはもうずっとフローベルの目から視線を外さなかった。フローベルは彼女の目から放たれる眼光に耐えられず、居心地悪く、目は伏せていた。彼女は本当におれを恨んでいるんだ。その想いは強すぎて到底太刀打ちできないほどに真っ黒だ。「黙れ!」とフローベルは大声で怒鳴った。「・・・もううんざりだ。おまえはただ死んだ人間のことが忘れられない自分が好きなんだろ? そうやって死んだ人間のことを想って頑張って走り回ってる自分が大好きなんだろ? 死んだ人間に合わせる顔がなくて死なせてしまった人間に申し訳なくて。そんな目にあった自分が可哀想で・・・どうすることもできない中、思いつくのは復讐? おまえいい加減に・・・」
次の瞬間、フローベルの五体がバラバラに吹き飛んだ。
「これで彼の夢もバラバラに散ったのかな」とパットは力みながら呟いた。
しかし、彼女の言葉通りに夢の世界は崩れなかった。牢屋のなかのアメーバたちが静まりかえっていた。
「本当に殺したんだな。ぼくたちにはきみが悪魔に見えるね」ずっと隣にいたアメーバが言葉を発した直後、牢屋にいた数体のアメーバが格子を貫通しフローベルの死体ににじり寄った。
彼らは結合し人の形をとった。顔ができ体が完成した。フローベルの姿が形成された。フローベルの目に光が宿った。フローベルはアメーバとして蘇ったのだ!「よくもおれを殺したな。よくもおれを殺したな!よくも…!」憎悪に満ちた瞳は真っ直ぐにパットを見据え、逃がさなかった。パットは後ずさりした。これは夢だ。こんなことあっていいはずがない。現実がこんなにも恐ろしいはずがない。まさか。アメーバになるなんて思ってもみないありえないことだ! パットは《夢見る機械》を握りしめていた拳を広げたとき、彼女の意識は霧散した。
パットが目を覚ますと、変わりない車内が目に入った。しかし隣に座っていたのはフローベルではなくガムだった。「ガム所長!」パットは驚き、寝惚け眼で身だしなみを整え口元を手で拭った。「おお、起きたか。もうそろそろフローベル君が戻ってくるだろう。ある一体のアンドロイドの消息が突然途絶えたのでね。近くにいた私が駆け寄ったところ、同じ情報を享受していたフローベル君もそこにいたのだ。偶然だが都合がよかった。周辺を探索したところ、レイと呼称されていたアンドロイドの体が見つかった。アパート前のゴミ捨て場に捨ててあったのだ」レイ…パットは聞いたこともない名だと思った。おそらくフローベルと同じ管理会社のハンターがバラしたのだろう。しかしゴミ捨て場に捨てるとは前代未聞のことだ。ではアンドロイド同士の仲間割れか? いや、そもそも彼らに仲間意識などあるのだろうか。
パットが窓の外に目を走らせるとフローベルがゴミ袋を数人で漁っているのが見えた。もう記憶から消えかかっていたが、パットは先ほどみた夢の中の彼を思い出そうとした。フローベルは妻だと言ってくれたが、私は違うと言わざるを得ない。私が見た夢の中のフローベルは私の両親を殺した憎き相手だからだ。私は子どもの時、子どもらしい私の我が儘で父親の顔を殴ってしまった。それを母親に知られたとき私は母親に顔を殴られた。これは私が両親と接した記憶の中で最も鮮明に覚えていることだ。私を苦しめる過去の出来事だ。私は父も母も好きだ。だからこれは私の心を今でも蝕み続けている。どうして私は父を殴ったのだろうか。どんな我が儘を言ったのだろうか。もしかしすればそれは私の我が儘などではなく、私に非はなくすべて父が悪かったのかもしれない。殴ったら殴られた。この痛みだけを私はずっと覚えている。




