第4話「日曜日」
日曜日の朝は、目覚ましより先に目が覚めた。
枕元のスマホを見た。六時四十分。通知はなかった。
分かっていた。昨日の夜から、なんとなく分かっていた。それでも見てしまうのは、もう癖みたいなものだった。月曜から始まって、一週間。私は一日に何十回もこの画面を見て、そのたびに、来ているか来ていないかで心臓を上げ下げしていた。
今日は、来ない。
たぶん、もう来ない。
布団の中で、しばらく天井を見ていた。カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。夜明けの色だ、と思った。縦の七、「あかつき」。夜明け前の、いちばん暗い時間。暗いけど、もうすぐ明るくなる時間だよ、と大地は言った。
本当に、明るくなるんだろうか。
起き上がって、顔を洗った。鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。目が腫れている。金曜の夜に泣いて、昨日の夜も、少し泣いた。
テーブルの上のグラスを見た。七本の草が、乾いたまま、じっと立っている。
信じてね。調和。足跡を残す。いつも元気。物言わぬ恋。敬われない恋。けんか。
一晩寝ても、最後の一本の意味は分からなかった。優しい言葉が六つ並んで、最後に、けんか。それが全部を台無しにしているのか、それとも何かを隠しているのか。どれだけ眺めても、グラスの中の草は何も答えなかった。
日曜のクロスワード、続けてね。
大地の声が、また蘇った。
私は上着を羽織って、財布とスマホだけ持って、外に出た。
*
駅前のコンビニは、日曜の朝でも開いていた。
新聞の棚に、日曜の朝刊が並んでいた。大地の部屋で取っていたのと同じ新聞を、一部抜き取った。それから、ホットコーヒーのカップを取ろうとして、手が二つ分伸びかけた。
止めた。一つだけ取った。
レジで会計をしながら、二つ分伸びかけた自分の手が、恥ずかしかった。五年分の癖は、一週間じゃ抜けない。
家に帰って、テーブルに新聞を広げた。コーヒーを置いた。向かいの席は、空いている。そもそも私の部屋のテーブルには、向かいの席なんてない。壁にくっついた小さな丸テーブルで、椅子は一つしかない。
大地の部屋のローテーブルは、二人で向かい合うためにあった。私の部屋のこのテーブルは、一人でご飯を食べるためにある。今さら、そんなことに気づいた。
新聞の真ん中を開いた。クロスワードのページ。
縦のカギと、横のカギ。いつもは、大地が縦で、私が横だった。
今日は、全部、私がやる。
ボールペンを握った。
横の一から始めた。『港に船をつなぎとめる、重い鉄の道具』。いかり。書き込んだ。横の二、横の三。埋められるところから埋めていく。いつもの感覚だった。横のカギは、私の担当。考えるより先に、手が答えを書いていく。
横をひと通り埋めて、私は縦のカギに目を移した。
縦の列、見直した?
火曜日の大地のメッセージが、頭をよぎった。あのときは、何のことか分からなかった。今も分からない。
『縦の一。港に入る船を導く、夜に光る塔』。灯台。横の一の「い」と交差して、四文字目が埋まる。合っている。
縦の二。縦の三。
縦の四で、止まった。
『縦の四。将棋で、王を守るように置く金と銀の組み方。三文字』
分からなかった。将棋なんて、駒の動かし方もろくに知らない。
いつもなら、ここは大地が埋める。私が「分かんない」と言うと、大地はボールペンの尻で顎を掻いて、少し考えて、さらっと書き込む。「なにそれ」「囲い方の名前」「知らないよ、そんなの」「あかねは知らなくていいよ。俺が知ってるから」。
俺が知ってるから。
それで、いつも埋まっていた。私が分からないところは、全部、大地が埋めてくれていた。
飛ばした。縦の五、縦の六。
縦の六でも、止まった。
『縦の六。ギリシャ神話の英雄。弱点は、かかと』
分からない。聞いたことがある気がする。でも出てこない。大地なら、きっと知っている。
飛ばした。縦の八。分からない。縦の九。分からない。
気づけば、縦のマスは、穴だらけだった。
横のカギはほとんど埋まっているのに、縦が埋まらない。横と縦が交差しないから、答え合わせもできない。私が書いた横の答えが合っているのかどうかさえ、確かめようがなかった。
一人じゃ、このクロスワードは解けないのだ。
二年間、私は、半分しか解いていなかった。
ボールペンを、紙に叩きつけた。ペン先が新聞を突き破って、縦の四のマスに小さな穴が開いた。
「わかんないよ」
声が出た。
「わかんないよ、こんなの。将棋とか、ギリシャ神話とか。大地がいなきゃ、わかんないに決まってるじゃん」
涙が出てきた。また。昨日も泣いて、一昨日も泣いて、まだ出てくる。
「続けてね、って何。一人で続けられるわけないじゃん。縦は大地の担当でしょ。縦の列、見直したって何。見直すも何も、私、縦なんか一回もやったことないよ」
テーブルに突っ伏した。
雑草の意味も分からない。けんかの意味も分からない。縦のカギも分からない。大地が何を考えているのかも、自分が何をしたいのかも、何もかも分からない。
全部、分からない。
顔を上げて、グラスの中の草を睨んだ。乾いた七本。信じてね、から始まって、けんか、で終わる。
「なんで最後にけんかなの。喧嘩売ってんの。こっちは本気で喧嘩しちゃったよ。別れようって言っちゃったよ。花、粉々にしちゃったよ。どうすんの、これ」
拳で、テーブルを一回叩いた。グラスの中の七本が、かさりと揺れた。
「チクショー」
声が、裏返った。
「バカヤロー」
叫んだ。一人の部屋に、自分の声が、間抜けに響いた。
バカヤロー。
バカ、ヤロウ。
ヤロウ。
叫んだ自分の声が、耳の奥に残った。何かが、引っかかった。
ヤロウ。
どこかで、見た。
どこかで、この音を、見た。
ゆっくりと、顔を上げた。テーブルの端の、グラスを見た。
白い、小さな花。平らに集まった花の房。ギザギザの葉っぱ。
けんかの草。
昨日、アプリで調べたとき。名前の下に、小さく英語の綴りが表示されていた。私はそれを読み飛ばして、花言葉の欄まで指を滑らせた。
スマホを掴んだ。アプリを開いて、履歴を遡った。セイヨウノコギリソウ。その下に、小さな英字。
『Yarrow』
ヤロウ。
心臓が、一回だけ、大きく鳴った。
私は今、この草に向かって、バカヤロウと叫んだのだ。
そして、この草の名前は、ヤロウだった。
英語の名前。
英語。
ガイドブック。イギリスの。返さなくていい、と大地は言った。
花屋の値札。Rose。Lisianthus。Gerbera。花じゃなく、英語の名前にピントが合っていた。
パスポート。
向こうってさ、道端に生えてるような草も、わざわざ庭に植えたりするんだよ。名前をつけて、意味をつけて、大事にする。
英語の、名前。
私は、震える指で、残りの六本の履歴を開いた。一本ずつ、名前の下の、読み飛ばしていた小さな英字を見た。
オオイヌノフグリ。『Bird's-eye speedwell』
ホトケノザ。『Henbit』
オオバコ。『Plantain』
スベリヒユ。『Purslane』
マツヨイグサ。『Evening primrose』
ツユクサ。『Asiatic dayflower』
セイヨウノコギリソウ。『Yarrow』
最初の一本で、目が止まった。
ベロニカ、じゃないんだ。
木曜日の画面には、たしかにその名前も書いてあった。花屋の札で見た、きれいな方の名前。でも、大地が数えたのは、こっちだった。Bird's-eye。鳥の目。
縦の列、見直した?
クロスワードの余白に、ボールペンで、七つの名前を縦に書き出した。上から下へ、一行ずつ。手が震えて、字が歪んだ。
書き終えて、左端に並んだ頭の文字を、上から読んだ。
B。H。P。P。E。A。Y。
BHPPEAY。
……言葉に、なっていない。でも、順番が違うだけかもしれない。私がアプリで調べた順番は、大地が花束に入れた順番じゃない。花束は、床に叩きつけて、ばらばらになった。グラスにも、適当に挿した。本当の順番なんて、もう分からない。
分からないのに、この七文字の中に、何かが隠れている気がした。それが偶然なのか、そうじゃないのか、確かめようがない。
でも。
大地の部屋の、冷蔵庫に貼ってあった新聞の切り抜きを思い出した。色の褪せた、「ハルマチ」。
クロスワードが全部埋まると、大地はいつも、余白に答えの頭の文字だけを拾い出して、並べ替えていた。別の言葉にならないかなと思って。なるわけないじゃん、と私は笑った。たまになるんだよ、と大地は言った。
先週の日曜日。最後の一マスを私に埋めさせたあと、大地は、その遊びをしなかった。新聞をきれいに畳んで、渡したいものがある、と言った。
並べ替えは、しなかったんじゃない。
私に、させるつもりだったのだ。
順番なんか、いらないのだ。
余白の端に、頭文字だけを書き出した。順番を無視して、ばらばらに。大地がいつもやっていたように。
Y、P、B、H、E、P、A。
クロスワードを二年やっていれば、こういうのは嫌でも目に入る。Pが二つ。Yが一つ。HとAがある。
H、A、P、P、Y。
HAPPY。
残ったのは、BとE。
BE。
BE HAPPY。
ボールペンが、手から落ちた。新聞の上を転がって、テーブルの端で止まった。
しばらく、息ができなかった。
しあわせに、なって。
七本の雑草。半年分の季節。春に摘んだ青い花と、夏の夜の黄色い花と、秋の白い花。大地は、一本ずつ英語の名前を調べて、頭文字を集めて、この言葉になるように、雑草を探したのだ。土手で、駐車場で、駅前の植え込みで。
ばらばらに散らばっても、並べ替えれば、ちゃんと同じ言葉になるように。
私が床に叩きつけても、壊れない言葉を。
そして、けんかの草。
Yarrow。
HAPPYの、最後のY。
私はスマホで、Yarrowを検索した。英語のページが出てきた。慣れない英語を、一行ずつ指で追った。
イギリスの古い言い伝え。結婚式のブーケや、花婿の胸元にヤロウを挿すと、その夫婦の愛が七年続く、と。
七年。
結婚式のブーケに入れたりもするらしい。
先週の日曜の朝、大地はそう言った。ガイドブックを挟んで、少し低い声で。私は「雑草を? ブーケに? 絶対やだ」と言った。大地は「俺は、いいなと思った」と言った。
けんかの草は、英語で読むと、七年続く愛の草だった。
日本語で読むと、けんか。英語で読むと、七年の愛。
大地は、両方知っていたのだ。知っていて、入れたのだ。
けんかもする。きっと、何度もする。今みたいに、本気で、別れようって言うくらいの。それでも、七年。七年経ったら、また次の七年。
一週間、捨てないでほしい。
七日間。一週間あれば、あかねは解くと思ったのだ。大地は、私を信じていたのだ。
信じてね、の花を、私は粉々にしたのに。
グラスの中の、花びらの欠けた青い花を見た。
それでも、Bは、ちゃんと残っていた。
「……なんだよ」
声が出た。
「なんだよ、これ」
テーブルに、両手をついた。新聞が、くしゃっと歪んだ。
「こんなの、わかんないよ」
涙が、新聞の上に落ちた。余白に書いたBE HAPPYの上に、ぽたりと落ちて、インクが滲んだ。
「英語って何。頭文字って何。並べ替えって何。わかるわけないじゃん。普通、口で言うでしょ。一言、言えばいいだけでしょ。半年もかけて、雑草集めて、乾かして、英語にして。クロスワードじゃないんだよ。私、プロポーズされると思って、正座して待ってたんだよ」
涙が止まらなかった。
「しかも、BE HAPPYって何。しあわせになって、って何。偉そうに。一人でしあわせになれって? 大地抜きで? そんなの、しあわせなわけないじゃん」
鼻をすすった。
「チクショー」
さっきと同じ言葉なのに、全然違う声が出た。
「バカヤロー」
今度は、ちゃんと分かっていた。
私は今、この草の名前を呼んでいる。大地が、半年かけて、最後に入れた、けんかと七年の愛の草の名前を。
バカヤロウ。
泣きながら、笑ってしまった。ヤロウで解けた謎に、バカヤロウって。最低だ。最低で、最高に、大地らしい。私が怒って叫ぶところまで、この草は、ちゃんと入っていたのだ。
そのとき、インターホンが鳴った。
*
びくっとして、顔を上げた。
時計を見た。九時十五分。日曜の朝に、誰。
涙を手の甲で拭って、インターホンの画面を見た。帽子をかぶった、配達員の人が映っていた。
『お届け物です。真柴あかね様』
宅配便を頼んだ覚えは、なかった。
オートロックを開けて、玄関で待った。顔がひどいことは分かっていたけど、どうしようもなかった。
ドアの外に立った配達員の人は、段ボールじゃなく、細長い紙袋を抱えていた。
「お花のお届けです」
にこやかに言われて、心臓が止まりそうになった。
「お、花」
「はい。先週ご予約いただいて、水曜日にお届け先のご変更があったものですね。日曜日の午前指定で」
先週。水曜日。
水曜日の夕方、大地から届いた花屋の写真。値札にピントが合った、あの一枚。
受け取りのサインをしながら、手が震えた。紙袋の端に、花屋のシールが貼ってあった。大地の駅の、あの花屋の名前だった。
配達員の人が帰って、ドアを閉めて、玄関に座り込んだ。
紙袋を開けた。
小さな花束だった。白い、小さな花。平らに集まった花の房。ギザギザの、細かく切れ込んだ葉っぱ。
ヤロウだけの、小さな花束だった。
グラスの中の、乾いた一本とは違う。昨日、土手で触った花と同じ。柔らかくて、生きている花。透明なセロファンと、白いリボン。花屋で、ちゃんと作ってもらった花束だった。
雑草の、花束。
でも今度は、ちゃんと咲いている。
リボンに、小さなカードが挟まっていた。白い紙に、大地の几帳面な字。
震える手で、開いた。
あかねへ
先週の日曜、これを頼んだときは、
こんな気持ちで届くとは思ってなかった。
それでも、取り消さなかった。
ヤロウは、日本だと、けんかの花です。
英語だと、七年続く愛の花です。
どっちも、あかねとがいい。
最後の一言は、自分で渡したかった。
そこで、カードの文字は終わっていた。
最後の一言。
新聞の余白の、BE HAPPY。しあわせに、なって。
なって、じゃ足りない。大地がそんな言い方をするはずがない。一人でしあわせになれ、なんて。足りないのは、その前の。
渡したかった、と書いてある。言いたかった、じゃなく。
言葉の足りない人が、最後の一言だけは、自分の手で。
「……ずるい」
カードを胸に押し当てた。
「ずるいよ、大地」
そのとき、ふと、気配を感じた。
玄関の横の、小さな曇りガラスの窓。廊下に面した、明かり取りの窓。そこに、ぼんやりと、影が映っていた。
人の、影だった。
廊下の先の、外階段の踊り場のあたり。誰かが、手すりにもたれて、立っている。胸の前に、何かを抱えている。細長い、花束のような形。
輪郭しか見えなかった。顔なんて、見えるはずもなかった。
でも、分かった。
背の高さ。肩の傾き。そして、影の片手が、ゆっくりと顎のあたりに上がって、何かを掻くような仕草をした。
ボールペンの尻で、顎を掻く癖。
さっき、私も、同じことをしていた。一人で縦のカギを睨みながら。
私は、立ち上がっていた。
考えるより先に、体が動いていた。サンダルを足に引っかけて、ヤロウの花束を片手に握りしめたまま、ドアノブを掴んだ。
一週間、私は待っていた。毎日、スマホの画面を見て。来ない通知を待って、来たら腹を立てて、来なかったらもっと腹を立てて。待つ側に回ったつもりで、本当はずっと、自分から動くのが怖かった。
大地は、一週間、待っていた。
言葉が足りなかったのは、大地だ。それは変わらない。あとで、ちゃんと文句を言ってやる。
でも、縦のカギは、一人じゃ埋まらない。横だけじゃ、答え合わせができない。
だから今度は、私の番だ。
横の十二。約束を交わすときの、短い返事。
先週の日曜日、私は最後の一マスに「ん」を書き込んだ。大地が仕組んだ、二文字の答え。あのときは、何の約束か分からなかった。
今なら、分かる。
ドアを開けた。
朝の光が、廊下いっぱいに差し込んでいた。夜明けの、あかつきの、その次の色だった。
踊り場の影が、こっちを振り向いた。抱えた花束の、薄紫と、銀色の葉と、水色の星みたいな花と、蝶の羽みたいな白が、光の中で揺れた。
大地が、何か言おうとして、口を開いた。
待てなかった。
私は、駆け出した。
大地が最後の一言を渡すより先に、口の中で、たった二文字の返事を、何度も何度も繰り返しながら。
うん。
うん。
うん。
(第4話 了)




