↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第3話「木曜日〜土曜日」

木曜日、大地から連絡は来なかった。


朝、目覚ましより先に目が覚めた。枕元のスマホを見た。通知はない。顔を洗う前にもう一度見た。ない。電車の中で三回、昼休みに五回、午後の会議の最中にも、机の下でこっそり一回見た。


ない。


月曜はガイドブック。火曜はクロスワード。水曜は花屋の値札。意味の分からない連絡が、毎日一つずつ、決まって夕方から夜にかけて届いていた。私はそのどれにも腹を立てて、一度だけ返信して、残りは全部無視した。


その「無視する相手」が、今日は来ない。


「真柴さん、さっきから携帯ばっかり見てません?」


美月が、コピー機の前で首を傾げた。


「見てない」


「見てましたよ。大地さんからですか?」


「違う」


違う、と言ってから、違うのは本当だと気づいた。大地からじゃない。大地からは、来ていないのだ。


定時で上がって、まっすぐ家に帰った。玄関で靴を脱ぎながら、またスマホを見た。ない。


部屋の明かりをつけると、テーブルの端の無地のタンブラーが目に入った。昨日の夜、私が挿した七本の草。水の入っていないグラスの中で、乾いたまま、じっと立っている。


腹が立った。来ないことに、腹が立った。


そして、来ないことに腹を立てている自分に、もっと腹が立った。


別れようと言ったのは私だ。返信しなかったのも私だ。それなのに、たった一日連絡が途切れただけで、こんなに落ち着かない。月曜から三日間、私は大地の意味不明な連絡に振り回されていると思っていた。でも本当は、振り回されるのを、どこかで待っていたのかもしれない。


「……調べればいいんでしょ」


誰に言うでもなく呟いて、タンブラーを引き寄せた。


意味があるんだ、と大地は言った。あかね、たぶん分かると思う、と。分からないまま腹を立てているくらいなら、いっそ調べて、全部くだらないものだったと確かめてやればいい。そうしたら、心置きなく捨てられる。


スマホに、植物の名前を調べるアプリを入れた。写真を撮ると、名前と特徴が出てくるやつだ。会社の先輩が家庭菜園で使っていると言っていた。


最初に手に取ったのは、青い花だった。


地面を這うような細い茎に、爪の先ほどの青い花がいくつかついている。いや、ついていた。日曜に床に叩きつけたとき、一つが粉々に砕けた。残った花も、花びらが一枚欠けている。


カメラを向けて、シャッターを押した。


『オオイヌノフグリ』


名前の下に、小さな英字が並んでいた。読み飛ばして、画面をスクロールした。


「……ひどい名前」


由来が書いてあった。実の形が、とか。読んで、ちょっと顔が熱くなった。大地はこれを知っていて入れたんだろうか。知っていたら、それはそれで最低だ。


別名の欄に、「ベロニカ」とあった。それなら知っている。駅ビルの花屋で、青い小さな花の鉢に、そういう札が刺さっていた。同じ仲間なのに、片方はきれいな名前で、片方はこれ。呼ばれ方が違うだけで、ずいぶん扱いが違う。


さらにスクロールすると、特徴の欄があった。


『早春に青い花を咲かせる。花は非常に落ちやすく、雌しべに花粉がつくとすぐに花冠ごと落ちてしまうため、摘み取って持ち帰るのは難しい』


指が止まった。


摘み取って持ち帰るのは難しい。


春の多摩川。しゃがみこんだ大地。「ちょっとね」と言って、何かをポケットに入れた。


あれが、この花だったなら。大地はどうやって、これを落とさずに持ち帰ったんだろう。どうやって、この形のまま乾かしたんだろう。何回失敗したんだろう。ポケットの中で花が落ちて、また土手に戻って、しゃがんで、摘んで。


それを私は、床に叩きつけて、粉々にしたのだ。


さらに下に、小さな欄があった。


『花言葉:信頼、清らか、信じてね』


信じてね。


グラスの中の青い花を見た。欠けた花びら。砕けたのは、ちょうど「信じてね」の花だった。


「……やめてよ」


声が震えた。偶然だ。花言葉なんて、どうせ後から誰かが勝手につけたものだ。大地がそこまで考えて入れたとは限らない。限らない、と思いたかった。


スマホを伏せようとして、やめた。ここで止めたら、この一本だけが頭に残る。それは嫌だった。全部調べて、全部くだらなかったと確かめる。そう決めたのだ。


紫っぽい花が段々についた草は、ホトケノザ。『調和』。


地面に葉を広げた穂だけの草は、オオバコ。『足跡を残す』。踏まれた道の脇に生えて、靴の裏に種をくっつけて運ばれていくのだという。


五年分の日曜日に、二人で歩いた道の脇にも、きっと生えていた。


次は、肉厚の葉っぱの、地べたに張りつく草。


『スベリヒユ』


『花言葉:いつも元気』


説明が続いていた。古くは「祝い蔓」と呼ばれ、炎天下でも枯れない生命力の強さから縁起物とされ、お祝い事のときに軒先に飾られた、と。


祝い事。


雑草なのに。駐車場の隅に生えているような草なのに。昔の人は、これを、お祝いのときに飾っていた。


私はそこで、スマホを置いた。


四本調べて、四本とも、くだらなくなかった。


信じてね。調和。足跡を残す。いつも元気、そしてお祝い。


グラスの中に残っているのは、あと三本。茎のひょろ長い黄色い花と、青い二枚の花びらの草と、白い小さな花が平らに集まった、ギザギザの葉っぱの草。


今日はもう、続きを調べる気力がなかった。


ベッドに入っても、スマホは鳴らなかった。木曜日は、そのまま終わった。


*


金曜日の昼休み、スマホが震えた。


大地だった。写真が一枚だけ。


ローテーブルの上に置かれた、紺色のパスポート。表紙の金の菊の紋章に、窓からの光が当たっている。その横に、私の部屋にあるはずのガイドブックと同じものが、もう一冊並んでいた。


二冊目を、買ったのだ。


私が持って帰ってしまった一冊とは別に、自分の分を。


文字は、一つもなかった。


私は会社の給湯室で、その写真をしばらく見ていた。パスポート。二冊目のガイドブック。来年の春の、イギリス。


行くつもりなんだ、と思った。


別れたのに。私が別れようと言ったのに。大地は、まだ、二人で行くつもりでいる。


返信の画面を開いた。何か打とうとして、何も打てなかった。「行かないよ」も「なにこれ」も、どれも違う気がした。結局、何も送らずに画面を閉じた。


その夜、家に帰って、続きを調べた。


茎のひょろ長い、黄色い花。


『マツヨイグサ』


夏の夕方に咲いて、朝にはしぼむ花。宵を待つ草、だから待宵草。説明を読みながら、夏の夜の河原を思い出した。コンビニの帰り、大地と並んで歩いた土手。暗がりに、ぽつぽつと黄色い花が浮かんでいた。


「あれ、なんて花?」


私が聞くと、大地は少し考えてから、


「月見草、って呼ぶ人もいる」


と言った。それだけだった。私は「ふうん」と言って、すぐに別の話を始めた。


花言葉の欄を見た。


『花言葉:ほのかな恋、移り気、物言わぬ恋』


物言わぬ恋。


喉の奥が、ぎゅっと詰まった。


言わない恋。言えない恋。合コンの帰り道、乗り換えの駅まで黙っていた人。最後の最後に「日曜って暇ですか」とだけ聞いた人。料理も棚の組み立ても、全部黙ってやって、出来上がってから「どう?」と聞く人。


日曜日に、「その前に、何か言うことないの」と詰め寄った私に、口を開きかけて、閉じた人。


あれは、言うことがなかったんじゃない。


言葉の代わりに、もう渡していたのだ。半年かけて、季節を一つずつ閉じ込めて。


気づいたら、泣いていた。


日曜からずっと、泣いたら負けだと思っていた。何に負けるのか分からないまま、我慢していた。それが、黄色い花一本で、あっけなく崩れた。テーブルに突っ伏して、子どもみたいに泣いた。


でも、泣きながら、どこかで思ってもいた。


物言わぬ、じゃ困るんだよ。


言ってほしかったんだよ。一言でいいから。


しばらくして、顔を上げた。鼻をかんで、残りの一本に手を伸ばした。


青い二枚の花びらの草。朝露みたいな、と日曜の私は思った。


『ツユクサ』


花言葉の欄には、いくつか並んでいた。


『尊敬、懐かしい関係、敬われない恋』


敬われない恋。


一瞬、また頭に血が上りかけた。最後の最後に、何これ。敬われない恋って。私のことを、大地を敬わない女だと言いたいの? 雑草を渡しておいて、怒った私が悪いって?


そこまで考えて、止まった。


日曜日の自分を思い出した。


大地が「ちゃんと意味があるんだ」と言ったとき、私は最後まで聞いたか。大地が「すぐじゃなくていい」と言ったとき、待とうとしたか。半年かけて作られたものを、中身も確かめずに、床に叩きつけた。花びらが砕けて、大地が痛そうな顔をしたとき、私はそれを見ないふりをした。


敬わなかったのは、誰だった。


大地が私を責めているんじゃない。この花は、私の方を向いている。


説明の続きを読んだ。ツユクサの花は、朝咲いて昼にはしぼむ。花の汁で染めた色は、水に流すとすぐに消えてしまう。だから昔の歌では、移ろうもの、消えるものの喩えに使われたのだと。


消える。


このまま、消えるのかもしれない、と思った。


日曜から五日。大地の連絡は毎日来ていた。でも、昨日は来なかった。今日はパスポートの写真だけ。文字は一つもなかった。だんだん、間が空いていく。だんだん、言葉が減っていく。露草の色みたいに、水に流されて、少しずつ薄くなっていくのかもしれない。


そのとき、スマホが鳴った。


大地かと思って、慌てて画面を見た。杏子だった。


「もしもし」


『おー、生きてた。声ひどくない? 泣いてた?』


「泣いてない」


『嘘つけ。で、花言葉調べた?』


「調べてない」


『嘘つけ』


杏子は、電話の向こうで笑った。


『あんたが調べないわけないじゃん。高校のとき、好きな人の誕生日の誕生石まで調べてたくせに』


「……調べた」


『どうだった』


「全部、いい意味だった。ほとんど」


『ほとんど?』


「まだ一個、残ってる」


『ふーん』


杏子は、それ以上何も聞かなかった。


『ま、最後まで調べなよ。途中でやめるの、あんたらしくない』


「杏子さ」


『ん?』


「私、間違えたのかな」


電話の向こうで、少しだけ間があった。


『怒ったのは、間違いじゃないよ。言わなかった方が悪い。それは変わんない』


杏子は、そこで一回、息を吐いた。


『でも、怒ったまま終わらせるかどうかは、また別の話。それは、最後まで調べてから考えな。おやすみ』


杏子は、本当にそれだけ言って、電話を切った。


グラスの中に、まだ調べていない草が一本残っていた。


白い小さな花が平らに集まった、ギザギザの葉っぱの草。日曜日、床に叩きつけたとき、大地の足元まで転がっていった草。


今夜は、調べられなかった。


これで最後だと思うと、怖かった。最後の一本が何を言っているのか、知るのが怖かった。


*


土曜日も、大地から連絡はなかった。


朝から何度かスマホを見て、昼前には見るのをやめた。見ても来ないことは、なんとなく分かっていた。


洗濯をして、掃除機をかけて、冷蔵庫の残り物で昼ごはんを作った。手を動かしている間は大丈夫だった。問題は、手が止まったときだった。


テーブルの上のグラスが、どうしても目に入る。


白い、小さな花。ギザギザの葉っぱ。


昼ごはんの皿を洗い終えて、手を拭いて、私はとうとうスマホを手に取った。


カメラを向ける。シャッターを押す。


『セイヨウノコギリソウ』


名前の下に、また小さく英語の綴りが表示されていた。私はそれを読み飛ばして、花言葉の欄まで指を滑らせた。


『花言葉:論争、けんか』


頭が、真っ白になった。


けんか。


もう一度読んだ。論争。けんか。何度読んでも、そう書いてあった。


「……は?」


信じてね。調和。足跡を残す。いつも元気。物言わぬ恋。敬われない恋。そして、最後の一本が、けんか。


全部、ひっくり返った。


昨日の夜、泣いた自分が、ばかみたいに思えた。物言わぬ恋、で泣いて。敬われない恋、で反省して。間違えたのかな、なんて杏子に聞いて。


最後に、これ?


「最後にこれ入れる? 結局、喧嘩売ってんじゃん」


けんか。半年かけて、季節を閉じ込めて、優しい言葉を六本並べて、最後の一本が、けんか。いずれ喧嘩するってこと? 結婚したら喧嘩ばっかりだってこと? それとも、私が怒ることまで分かってて、わざと入れたの?


分からなかった。


何も、分からなくなった。


私はスマホをテーブルに置いて、立ち上がった。部屋の中にいたら、頭がおかしくなりそうだった。上着を掴んで、鍵をかけて、外に出た。


行き先は、決めていなかった。決めていなかったはずなのに、足は駅の方へ向かって、電車に乗って、気づいたら多摩川の土手を歩いていた。


春に、大地がしゃがみこんだ場所だった。


十月の午後の土手は、思ったより人が少なかった。犬の散歩をしている人と、ジョギングをしている人と、遠くの河川敷で野球をしている子どもたち。川面に陽が当たって、きらきらしていた。


私は、土手の草を見ながら歩いた。


遊歩道の脇に、オオバコが葉を広げて、地面に張りついていた。少し先には、花のないホトケノザの葉。春の花だから、今は葉だけだ。


そして、もう少し先で、私は足を止めた。


白い、小さな花。


平らに集まった、白い花の房。ギザギザの、細かく切れ込んだ葉っぱ。土手の斜面に、何株も、何十株も、普通に生えていた。風に揺れて、誰にも見向きもされずに、ただそこに咲いていた。


けんかの草。


「……こんなところに」


しゃがみこんだ。春の大地と、同じ格好で。


「こんな、普通に」


大地は、これを摘んだのだ。たぶん、ここで。秋になって、この白い花が咲くのを待って。一本だけ摘んで、持ち帰って、洗って、切り口を揃えて、クローゼットに吊るした。束の最後に入れた。


けんか、という意味を、知っていて。


知っていて、なぜ。


指先で、白い花に触れた。思ったより柔らかかった。乾いたグラスの中の一本とは、全然違った。生きている花は、こんなに柔らかい。


立ち上がって、また歩いた。


土手をずっと歩いていくと、見覚えのある鉄橋が見えてきた。その向こうに、見覚えのある駅。大地のアパートの、最寄り駅だった。


そんなに歩いたつもりはなかった。でも、気づけば、五年分の日曜日に何度も通った道に戻ってきていた。


足が、改札の方へ向かった。


改札の手前、駅前の小さなロータリーの角に、花屋があった。


水曜日に送られてきた、あの写真の花屋だった。店先にバケツが並んで、色とりどりの花が挿してある。手書きの値札が、一本ずつ差し込まれている。


『Rose』『Lisianthus』『Gerbera』


英語で書かれた、花の名前。


私は、ロータリーの向こう側から、それを見ていた。


大地は、ここで何をしていたんだろう。なぜ、花じゃなく、値札だったんだろう。


中に入って聞けば、何か分かるかもしれない。いや、そんなこと聞けるわけがない。聞いてどうする。


足が、一歩、店の方へ出た。


そのとき、店の奥から、エプロンをつけた女の人が出てきた。バケツの位置を直しながら、ふと顔を上げて、ロータリー越しにこっちを見た。


目が合いかけた。


私は、くるりと背を向けた。


駅の改札に飛び込んで、ちょうど来た電車に乗った。座席に座って、膝の上で手を握りしめて、自分の家の最寄り駅まで、一度も顔を上げなかった。


逃げた。


私は、逃げたのだ。


*


家に帰ると、もう暗くなっていた。


部屋の明かりをつけた。テーブルの上のグラスに、七本の草が挿さっている。


並べてみても、何も分からなかった。優しい言葉が六つと、けんかが一つ。そのけんかが、全部を台無しにしているようにも見えたし、何か大事なことを隠しているようにも見えた。


スマホを見た。通知は、なかった。


私は、大地とのトーク画面を開いた。一番下に、昨日のパスポートの写真。その上に、水曜日の花屋の写真。火曜日の「日曜のクロスワード、縦の列、見直した?」と、私の「は? 新聞もうないし」。月曜日の「ガイドブック、まだ返さなくていい」。


その上に、先週の土曜日の、普通の会話が残っていた。


『明日、何時に行けばいい?』 『いつも通りで。コーヒー買ってきて』 『了解。クロスワード、今週は負けないから』 『俺も負けないよ』


たった一週間前だった。


入力欄に、指を置いた。


何か送ろうと思った。「ごめん」でも「会いたい」でも「けんかって何」でもいい。何か一つ送れば、たぶん、何かが変わる。


打っては消して、打っては消して、結局、何も送らなかった。


送れなかった。自分から別れようと言った手前。花束を床に叩きつけた手前。最後の一本の意味が分からないまま、謝ることも、責めることもできなかった。


スマホを伏せて、ベッドに横になった。


日曜のクロスワード、続けてね。


明日は、日曜日だった。


新聞は、うちには届かない。いつも大地の部屋で、大地が取っている新聞を二人で解いていた。でも、駅前のコンビニに行けば、日曜の朝刊は売っている。


続けてね、と大地は言った。


何のために。誰と。一人で、クロスワードを解いて、どうなるの。


分からないまま、目を閉じた。


グラスの中で、白い小さな花が、暗がりにぼんやり浮かんでいた。


(第3話 了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。