第2話「月曜日〜水曜日」
月曜日の朝は、何事もなかったような顔をして来る。
目覚ましを二回止めて、三回目で起きた。顔を洗って、化粧をして、いつもの電車に乗った。玄関を出るとき、靴箱の上の草は見なかった。見なかったけど、視界の端でクラフト紙の茶色がはみ出しているのは分かった。
会社に着くと、美月がもう席にいた。
「真柴さん、おはようございます。週末どうでした?」
「普通」
「えー、普通ってなんですか。大地さんとデートじゃなかったんですか」
「デートした。普通だった」
「ふーん」
美月はそれ以上聞かなかった。聞かれなくてよかったと思う一方で、聞いてくれれば全部ぶちまけられたのに、とも思った。二十四歳の後輩に、二十九の先輩が雑草の花束で振った話をするのは、どう考えても無理だけれど。
仕事は、いつも通りに片づいた。見積書を三本作って、取引先からの電話を五本受けて、課長の誤字を二箇所直した。私は手を動かしている間は大丈夫な人間だ。問題は、手が止まったときだった。
昼休み、コンビニのサンドイッチを食べながら、スマホを見た。通知はない。当たり前だ。別れたんだから。
午後三時、トイレに立ったついでに、またスマホを見た。通知はない。
午後五時、退勤前にもう一度。ない。
私は何を待っているんだろう。謝罪? 言い訳? それとも、あの雑草の説明? どれが来ても許す気はなかった。許す気はないのに、何か来ることを前提に画面を見ている自分が、いちばん腹立たしかった。
家に帰って、バッグを床に置いたとき、スマホが鳴った。
大地だった。
心臓が跳ねて、それから、跳ねた自分に舌打ちした。画面を開く前に深呼吸を一つ。何が書いてあっても動じない。既読だけつけて、無視してやる。
『ガイドブック、まだ返さなくていい』
それだけだった。
「……は?」
声に出ていた。ガイドブック。イギリスの。あれは大地の部屋のローテーブルの上に置いてきたはずだ。私が持っているわけがない。
持っているわけがない、と思いながら、床に置いたバッグを見た。日曜からずっと、中身を出していないトートバッグ。
手を突っ込んだら、硬いものに当たった。
引っ張り出すと、はちみつ色の石の家が表紙のガイドブックだった。付箋だらけの。
いつ入れたの。
考えて、すぐに分かった。玄関で靴を履いているとき、私は床に散らばった草を拾うのに必死だった。バッグは玄関マットの上に口を開けたまま置いてあった。大地は、私の後ろに立っていた。
あのタイミングで、こっそり入れたのだ。別れ話の真っ最中に。振られている真っ最中に。
「……なんなの、この人」
ガイドブックをベッドに投げつけた。付箋が何枚か、ひらひらと剥がれて床に落ちた。拾う気にもなれなかった。
既読はついている。返信はしなかった。する言葉がなかった。返さなくていいって何。返しに行く気なんかない。郵送してやる。着払いで。
その夜は、なかなか眠れなかった。
*
火曜日の夜、杏子を呼び出した。
杏子とは高校からの付き合いで、私の人生のだいたいの修羅場を知っている。大学受験の失敗も、新卒で入った会社を一年で辞めたことも、大地と付き合い始めたときの「あの人、何考えてるか分かんないんだけど」という相談も。そして杏子は、二年前に結婚した。私より先に。
「で、何があったの。あんたが平日に呼び出すときは、だいたいロクなことじゃない」
駅前の居酒屋のカウンターで、杏子はハイボールを片手に言った。仕事帰りのスーツのまま、髪をひとつに括り直している。
「別れた」
「は? 誰と」
「大地に決まってんでしょ」
「えっ」
杏子のジョッキが、カウンターの上で止まった。
私は全部話した。日曜の朝のクロスワード。最後の一マス。「渡したいものがある」。クローゼット。干からびた雑草。床に叩きつけたこと。「別れよう」。「一週間、捨てないで」。昨日のガイドブック。
話しているうちに、また腹が立ってきた。腹が立って、声が大きくなって、隣の席のサラリーマンがちらっとこっちを見た。気にしなかった。
杏子は、途中で三回「は?」と言った。
「いや、ちょっと待って。雑草?」
「雑草」
「花束じゃなくて?」
「花束の形した雑草」
「乾かしてたって何。こわ」
「でしょ!?」
「夏じゅうクローゼットに吊るしてたの? 自分の部屋に? 雑草を?」
「そう。私、ずっと指輪だと思ってたの。開けないでって言われて、我慢してたの。バカみたいじゃん」
「バカみたいっていうか、それは怒るわ。私でも怒る。普通さ、雑草渡す? 二十九の彼女に? イギリス旅行の前に?」
「渡さないよね」
「渡さない。うちの健太がそれやってきたら、その場で草むしりさせる」
杏子は思い切りハイボールを呷った。私は少しだけ、胸のつかえが下りた気がした。そうだ。私が怒ったのは正しい。誰が聞いても、あれは怒る。
しばらく二人で、大地の悪口を並べた。口下手。段取りが回りくどい。肝心なときに黙る。「どう?」の顔がずるい。合コンでウーロン茶しか飲まない。クロスワードの頭文字を並べ替えて一人で喜んでる。杏子は大地と何度か会っているから、具体的な悪口がいくらでも出てきた。
二杯目のハイボールが半分になったころ、杏子がふと、グラスの氷を指で回しながら言った。
「でもさ」
「なに」
「大地くんって、意味ないことする人だった?」
私は、答えられなかった。
杏子は私の顔を見ないで、氷を回し続けていた。
「いや、怒るのは分かるよ。私も怒る。それは本当。でもさ、あの人、棚組み立てるときも説明書三回読むタイプでしょ。あんたの誕生日のケーキだって、前の年に美味しいって言ったやつ覚えてて、同じ店で予約してたじゃん。そういう人がさ、半年かけて雑草乾かして、何の意味もなく渡す?」
「……知らない」
「まあ、意味があっても、それを説明しないのが一番ダメなんだけどね」
杏子は肩をすくめて、残りのハイボールを飲み干した。
「先に結婚した側から一個だけ言うとさ。言葉が足りない男は、どこまで行っても足りないよ。それを毎回翻訳する覚悟があるかどうか。それだけ」
「翻訳なんかしたくない」
「じゃあ、それが答えなんじゃない」
杏子はそう言って、店員にお会計を頼んだ。私は、なんだか急に、自分がどっちの答えを言ってほしかったのか分からなくなった。
*
帰りの電車で、スマホが鳴った。
『日曜のクロスワード、縦の列、見直した?』
吊り革を握る手に、力が入った。
縦の列。縦のカギ。あれは大地の担当だった。私は横しか埋めていない。見直すも何も、新聞は大地の部屋にあって、私の手元にはない。そもそも、あの日は最後まで埋まったのだ。見直すところなんて、どこにもない。
返信なんか、しないつもりだった。昨日もしなかった。今日もしない。既読だけつけて、無視する。そう決めていたのに、酔いのせいか、杏子の「翻訳」という言葉のせいか、指が勝手に動いていた。
『は? 新聞もうないし』
送信してから、三秒で後悔した。
なんで返したの。無視するって決めてたじゃん。「は?」って何。「もうないし」って、ないことを報告してどうするの。これじゃまるで、まだ会話を続ける気があるみたいだ。
取り消そうとしたときには、もう既読がついていた。
早い。大地は、画面を見て待っていたのだ。
私は画面を見つめた。次に来る言葉を待った。「ごめん」でも「そっか」でも「新聞なら俺が持ってる」でもいい。何か来たら、今度こそ無視してやる。
電車が三駅進んでも、返事は来なかった。
家に着いても、来なかった。
お風呂から上がっても、来なかった。
ベッドに入って、もう一度画面を見た。既読のまま、何も来ていなかった。
返事を待っていたのは、私の方だった。
*
水曜日は、燃えるゴミの日だ。
朝、出勤前にゴミ袋の口を縛ろうとして、玄関の靴箱が目に入った。三日間、見ないふりをしてきた茶色いクラフト紙。白い小さな花の草が、相変わらず靴箱の端からはみ出している。
今日こそ捨てる、と思った。
一週間捨てないで、と大地は言った。知ったことか。もう別れたんだから、大地の頼みを聞く理由はない。こんなものが玄関にあるから、毎朝毎晩、嫌でも日曜のことを思い出す。捨ててしまえば、少しは楽になる。
クラフト紙ごと掴んで、ゴミ袋に突っ込もうとした。
そのとき、ばらばらと草が手からこぼれた。破れた包み紙の隙間から、何本かが玄関のタイルに落ちた。舌打ちして、しゃがんで拾い集めた。
拾いながら、手が止まった。
切り口が、揃っていた。
七本の茎の根元が、全部、同じ角度で斜めに切られている。引きちぎったんじゃない。ハサミで、一本ずつ、丁寧に。そういえば日曜も、草のくせに土が一粒もついていなかった。洗ったのだ。摘んで、洗って、切り口を揃えた。
それから、乾き方。
干からびている、と私は思った。枯れている、と。でも、よく見ると違った。花がひとつも潰れていない。萎れて垂れ下がってもいない。どの花も、咲いていたときの形のまま、色だけが少しくすんで、時間が止まったみたいに乾いている。茎はまっすぐだ。逆さに吊るして、ゆっくり水分を抜いた形。
あのクローゼットの中の、空っぽの麻紐。あそこに、一本ずつ吊るしてあったのだ。
そして、私はもう一つのことに気づいてしまった。
青い小さな花。
床に叩きつけたとき、花びらが一枚粉々に砕けた、あの花。地面を這うような茎に、爪の先くらいの青い花がついている。
私はこの花を知っていた。小学校の通学路の、田んぼのあぜ道に、春になると一面に咲いていた。ランドセルを背負ったまましゃがみこんで、青い絨毯みたいだと思った記憶がある。春の花だ。桜が咲く前か、咲いているころの。
それから、黄色い花。茎のひょろ長い、ぼんやりした黄色。これも見覚えがある。夏の夜、コンビニ帰りの河原で、暗がりにぽつぽつ光っていた。夕方から咲いて、朝にはしぼむ花。夏の花だ。
白い小さな花が平らに集まった、ギザギザの葉っぱの草。これは、つい最近、駅前の植え込みで見た気がする。秋だ。
春の花と、夏の花と、秋の花。
同じ時期に、同時に咲くはずがない。
つまり大地は、春に一本摘んで、乾かして、夏にもう一本摘んで、乾かして、秋にまた一本摘んで。半年かけて、季節を一つずつ、この束の中に閉じ込めていったのだ。
春の多摩川を思い出した。
散歩の途中で、大地が急にしゃがみこんだ。道端の何かをじっと見ていた。「なにしてんの」「ちょっとね」。何かをポケットに入れた。
あれは、指輪のサイズを測る糸なんかじゃなかった。
この青い花だったのだ。
「……これ、いつから集めてたの」
玄関で、一人で呟いていた。
しゃがんだまま、しばらく動けなかった。ゴミ袋の口は開いたままで、遠くで収集車のメロディが聞こえていた。急がないと間に合わない。それなのに、手の中の七本を、袋に入れることができなかった。
半年かけて作ったものを、私は床に叩きつけたのだ。花びらを、粉々にしたのだ。
いや。
首を振った。それでも、説明しなかったのは大地だ。半年かけようが一年かけようが、雑草は雑草で、プロポーズの代わりにはならない。言ってほしかった言葉は、一つも言ってもらえなかった。杏子も言った。意味があっても、説明しないのが一番ダメ。
私は悪くない。
私は悪くない、と思いながら、ゴミ袋の口を縛った。草は入れなかった。収集車のメロディは、そのまま通り過ぎていった。
*
その日の夕方、会社のトイレの個室でスマホが鳴った。
大地からだった。今度は、文字がなかった。写真が一枚だけ。
どこかの花屋の店先だった。見覚えがある。大地のアパートの最寄り駅、改札を出てすぐの、小さな花屋。バケツに入った花がずらりと並んでいる。
でも、写真に写っているのは花じゃなかった。ピントが合っているのは、バケツに差し込まれた手書きの値札だけ。
『Rose ¥330』 『Lisianthus ¥280』 『Gerbera ¥220』
花の名前が、全部英語で書いてある。
「……だから、なに」
小声で言った。意味が分からなかった。花屋の値札なんて、英語で書いてあるのは珍しくもない。それをわざわざ撮って送ってくる意味が分からない。昨日、私が返信したことへの答えがこれ? 「新聞もうないし」への返事が、花屋の値札?
返信はしなかった。今日は、絶対にしなかった。
でも、家に帰って、玄関のドアを開けたら、靴箱の上の七本が目に入った。朝、ゴミ袋に入れられなかった七本。クラフト紙から出して、靴箱の上に並べたままにしてあった。
私はしばらく、玄関に立ったままそれを見ていた。
それから、キッチンに行って、食器棚からいちばん地味なグラスを出した。大地が去年、うちに置いていった、無地のタンブラー。水は入れなかった。乾いた草に水をやっても仕方がない。
七本を、そのまま挿した。
青い花は、花びらが一枚欠けていた。
テーブルの端にグラスを置いて、ベッドに倒れこんだ。
捨てたわけじゃない。でも、許したわけでもない。ただ、ゴミ袋に入れられなかっただけだ。半年分の季節を、燃えるゴミと一緒に出す気になれなかっただけだ。
天井を見ながら、明日のことを考えた。明日も、大地から何か来るんだろうか。今度は何が来るんだろう。来たら、また無視するんだろうか。
来なかったら、どうするんだろう。
その問いには、答えが出なかった。
(第2話 了)




