第1話「日曜日」
日曜の朝の新聞は、クロスワードから開くと決まっている。
それは私と大地の、付き合って三年目あたりからの習慣だった。大地のアパートの小さなローテーブルに、コンビニのコーヒーを二つ並べて、新聞の真ん中を挟んで向かい合う。大地は縦のカギ、私は横のカギ。どっちが先に埋めたマスで答えが繋がるか、そういう遊び。
最初に言い出したのは大地だった。日曜の朝、大地の部屋に泊まった私が寝ぼけてテレビをつけようとしたら、大地が新聞を差し出してきたのだ。
「これ、一緒にやらない?」
「なにこれ。クロスワード? おじいちゃんじゃん」
「おじいちゃんでいいよ。頭の体操」
文句を言いながら付き合ったら、思いのほか面白かった。というより、私が横のカギを一つ埋めるたびに、大地が「おお」と小さく感心するのが面白かった。それから二年、日曜の朝はずっとこれだ。
大地には、一つ変な癖があった。クロスワードが全部埋まると、大地は余白に答えの頭の文字だけを拾い出して、それを並べ替えはじめるのだ。
「なにしてんの」
「別の言葉にならないかなと思って」
「なるわけないじゃん」
「たまになるんだよ」
実際、一度だけなったことがある。去年の冬、頭文字を並べ替えたら「ハルマチ」になった。春待ち。大地は子どもみたいに喜んで、その新聞を切り抜いて冷蔵庫に貼った。私は「くだらない」と言って笑った。くだらないけど、ちょっとだけ、すごいと思った。
今日も同じだった。十月の、よく晴れた日曜日。冷蔵庫には、色の褪せた「ハルマチ」が、まだ貼ってある。
「縦の七。『夜明け前の、いちばん暗い時間』。四文字」
「知らない。大地が考えて」
「あかね、ちょっとは考えなよ」
「考えた結果、知らないって言ってんの」
大地は笑って、ボールペンの尻で顎を掻いた。この癖を見ると、ああ日曜だな、と思う。
羽田大地という男は、とにかく口より先に手が動くタイプだ。料理も、私の部屋の棚の組み立ても、全部黙ってやって、出来上がってから「どう?」と聞く。その「どう?」が、だいたい自信なさそうなのがずるい。
出会ったのは五年前、会社の先輩に無理やり連れて行かれた合コンだった。大地は端の席で、ずっとウーロン茶を飲んでいた。誰とも目を合わせず、料理の取り分けだけ黙々とやっていた。帰り道、うっかり同じ電車に乗ってしまって、乗り換えの駅までずっと二人で黙っていた。最後の最後、ドアが開く直前に、大地が「あの、日曜って暇ですか」と聞いた。思わず「暇じゃないけど」と言ってしまった。言ってしまったのに、私は次の日曜、ちゃんと待ち合わせ場所に行っていた。
あれから五年。私は二十九になった。
二十九という数字は、思っていたよりずっとうるさい。友達の結婚式のご祝儀袋が、去年だけで四つ。今年はもう三つ。母からのLINEは週に一度、「大地くん元気?」という形をした別の質問になって届く。職場の後輩の美月は「真柴さんはもう決まってるからいいですよね」と、悪気なく言う。
決まってる。たぶん、決まってる。
だって、心当たりならいくらでもあった。
たとえば今年の春。二人で多摩川沿いを散歩していたとき、大地が急にしゃがみこんで、道端の何かをじっと見ていたことがある。
「なにしてんの」
「ちょっとね」
それだけ言って、大地は何かをポケットに入れた。あとで聞いても「ちょっとね」しか言わなかった。その頃の私は、ちょうど友達から「彼氏が指輪のサイズを測るために、寝てる間に糸を巻いてきた」という話を聞いたばかりで、ああ、これはそういう「ちょっとね」なんだな、と勝手に納得していた。
たとえば夏。大地の部屋のクローゼットの片方が、急に開かずの扉になった。
「そっち、開けないで」
「なんで」
「なんでも」
大地が珍しく強く言うので、私は笑ってしまった。隠し事が下手すぎる。指輪の箱か、あるいは何かのサプライズの準備か。どっちにしても、私は絶対に開けないと決めた。こういうのは、知らないふりをしてあげるのが礼儀だと思った。
そして、極めつけ。
ローテーブルの端に、大地が三週間前に買ってきたガイドブックが置いてある。イギリス。表紙には、はちみつ色の石造りの家と、花でいっぱいの庭が写っている。
来年の春、二人でイギリスに行く計画を立てているのだ。コッツウォルズ、湖水地方、ロンドンは最後に二泊。ガイドブックには付箋がびっしり貼られていて、どれも大地の几帳面な字だ。「ここのスコーンは予約制」「この村、石垣が全部はちみつ色」「この庭は五月がいちばん」。
二人で海外に行くのは初めてだった。しかも十日間。有給を全部まとめて取る計算になる。どう考えても、普通の旅行じゃない。少なくとも私はそう思っていた。新婚旅行の下見、あるいは新婚旅行そのもの。どっちでもいい。どっちにしても、その前に「何か」があるはずだった。
春のポケット。夏のクローゼット。秋のガイドブック。点と点は、私の頭の中で、とっくに一本の線になっていた。
「ねえ、イギリスってさ」
私はクロスワードを放り出して、ガイドブックを引き寄せた。
「庭がすごいんでしょ。大地、庭見たいって言ってたよね」
「うん」
「バラとか?」
「バラも見たいけど」
大地はペンを置いて、少し考える顔をした。
「向こうってさ、道端に生えてるような草も、わざわざ庭に植えたりするんだよ。こっちじゃ雑草って呼ばれてるやつ」
「なにそれ。抜けばいいじゃん」
「抜かないんだって。名前をつけて、意味をつけて、大事にする。結婚式のブーケに入れたりもするらしい」
「雑草を? ブーケに? 絶対やだ」
「そうかな。俺は、いいなと思った」
そのときの大地の声が、ちょっとだけ低かったのを、私はあとで思い出すことになる。でもそのときは、ただ「ふうん」と言って、付箋のついたスコーンの写真を眺めていた。クロテッドクリームって、どれくらいカロリーあるんだろう、とか考えていた。
縦の七は、結局大地が埋めた。「あかつき」。
「あかね、の、あか」
大地がペン先で、最初の二文字を軽く叩いた。
「どうでもいい」
「どうでもよくないよ。夜明けの色だよ」
「夜明け前の、いちばん暗い時間、って書いてあるじゃん。暗いんじゃん」
「暗いけど、もうすぐ明るくなる時間だよ」
大地はそう言って、なぜか照れたように笑った。
クロスワードは、残り一マスになった。横の十二、最後の一文字。そこで、大地がペンを私に差し出した。
「ここ、あかね埋めて」
「なんで。大地が分かってるんでしょ」
「いいから」
横の十二のカギは「約束を交わすときの、短い返事」。答えは「うん」。私はもう「う」を埋めてあって、残りは最後の「ん」だけだった。
私が「ん」を書き込むと、大地は満足そうに頷いた。いつもなら、ここから余白に頭文字を書き出して、並べ替えの遊びが始まる。でも今日は、大地はペンを置いたまま、新聞をきれいに畳んだ。角と角をきっちり合わせて、二回。いつもより丁寧だった。
そして、言った。
「渡したいものがあるんだ」
心臓が、一回だけ大きく鳴った。
来た、と思った。
日曜の朝。いつものクロスワード。最後の一マスを私に譲るなんて、普段の大地ならやらない。並べ替えの遊びもしない。しかも答えは「うん」。約束を交わすときの、短い返事。こういう回りくどい段取りを踏むところが、いかにも大地らしい。たぶん何週間も前から、このクロスワードの答えを調べて、今日を選んだのだ。
指輪の箱がどこから出てくるのか、私は大地のパーカーのポケットを見た。膨らんでいない。それからテーブルの下を見た。何もない。じゃあ、あのクローゼットだ。
大地が立ち上がって、奥の部屋へ行った。やっぱりクローゼットだった。扉が開く音がして、何かを外すような、かさかさという音がした。
私は正座していた。いつの間にか。コーヒーの紙カップを両手で包んで、背筋を伸ばして。顔が熱かった。何て返事をしようか、ずっと前から決めていたはずなのに、全部飛んでいった。「うん」でいいのか。クロスワードと同じ「うん」で。それとも、もう少しちゃんとした言葉の方がいいのか。
戻ってきた大地の手にあったのは、花束だった。
花束。
一瞬、ほっとした。花束と指輪のセットは定番だ。花で気持ちを伝えて、それから箱を出す。ドラマで百回は見た。
でも、その花束は、何かがおかしかった。
薄茶色のクラフト紙で、丁寧に包まれている。リボンは麻紐。そこまではいい。おしゃれだと思う。問題は中身だった。
小さな青い花のついた、地面を這うような草。
茎の先にぼんやり黄色い花がついた、ひょろ長い草。
紫っぽい花が段々についた、見覚えのある草。
青い二枚の花びらの、朝露みたいな草。
葉っぱが地面に放射状に広がった、穂だけの草。
肉厚の葉っぱの、地べたに張りつく草。
白い小さな花が平らに集まった、ギザギザの葉っぱの草。
七本。全部、どう見ても、道端に生えている草だった。
しかも、干からびていた。
花の色はどれもくすんで、茎はかさかさに乾いている。青い花は紙みたいに薄くなって、黄色い花は端が茶色く縮れていた。持ち上げると、ぱり、と小さな音がした。生花ですらない。摘んだまま放っておいて、忘れて、今日になって慌てて包みました、そういう顔をしていた。
私は花束を受け取ったまま、しばらく何も言えなかった。
大地を見た。大地は私を見ていた。いつもの「どう?」の顔だった。指輪の箱は、どこからも出てこなかった。クローゼットの扉は、開いたままだった。中に見えたのは、ハンガーにぶら下がった、空っぽの麻紐だけだった。
開かずの扉の中身は、これだったのだ。
「……これ、なに」
「花束」
「花束なのは見れば分かる」
声が勝手に尖っていく。止められなかった。
「なんで、雑草なの」
「雑草じゃないよ」
「雑草でしょ。これ、駅前の植え込みに生えてるやつじゃん。こっちは公園の端っこの。これなんか、うちのマンションの駐車場にあるよ」
「うん。そこで摘んだ」
「は?」
「しかも枯れてるし」
「枯れてるんじゃなくて、乾かしたんだよ」
「同じでしょ」
「同じじゃない」
大地にしては珍しく、そこだけははっきり言い返した。それが余計に、私の神経を逆撫でした。
乾かした。わざわざ。雑草を。夏じゅう、私に「開けないで」と言って。
私が何も言わずに我慢していた、あのクローゼットの中で。
「ちゃんと意味があるんだ」
大地が、少し困ったように言った。
「あかね、たぶん分かると思う」
「分かんないよ」
「すぐじゃなくていい。ゆっくりで」
「ゆっくりって、何を」
そこで、何かが切れた。
五年分の日曜日が、一気に頭の中を逆流した。ご祝儀袋。母のLINE。美月の「もう決まってるから」。春のポケット。夏のクローゼット。付箋だらけのガイドブック。最後の一マスを譲られて、心臓が鳴った自分。ポケットを見た自分。テーブルの下を見た自分。正座して、返事を考えていた自分。
全部、私だけだったんだ。
恥ずかしかった。怒りより先に、ものすごく恥ずかしかった。一人で線を引いて、一人で答えを決めて、一人で「うん」を書き込んでいた。五年も一緒にいて、その先の話を、私だけが勝手に待っていた。大地は、その先の話を、一言もしてくれなかった。
その恥ずかしさと、言ってもらえなかった悔しさが、出口を探して、全部怒りの形になって噴き出した。
「大地さ」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「私、二十九なんだよ」
「知ってる」
「来年、イギリス行くんだよね」
「行くよ」
「十日間、二人で」
「うん」
「その前に、何か言うことないの」
大地は、口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
それが答えだと思った。
私は花束を床に叩きつけた。
乾いた音がした。クラフト紙が破れて、草が何本か、フローリングの上に散らばった。青い花びらが一枚、粉みたいに砕けた。白い小さな花の、ギザギザの葉っぱの草が、大地の足元まで転がっていった。
大地が、砕けた花びらを見て、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。痛そうな顔だった。私はそれを見ないふりをした。
「もういい。別れよう」
言った瞬間、自分の声じゃないみたいだった。でも、取り消す気にはなれなかった。取り消したら、またこの先も、私は一人でポケットを見続けることになる。一人でクローゼットに期待して、一人で正座することになる。
大地は、床の草を見ていた。拾おうとはしなかった。私を引き止めようともしなかった。言い訳もしなかった。
ただ、ひどく静かな声で、一言だけ言った。
「……一週間」
「なにが」
「一週間だけ、それ、捨てないでほしい」
意味が分からなかった。別れ話をしている相手に、雑草を捨てるなと頼む男。どこまで人をバカにすれば気が済むのか。
私はバッグを掴んで、玄関に向かった。靴を履きながら、なぜか、振り返って床に散らばった草を全部拾い集めていた。自分でも理由が分からなかった。大地の部屋に残していくのが嫌だったのか、大地に拾わせるのが嫌だったのか。それとも、大地のあの痛そうな顔を、もう一度見たくなかったのか。破れたクラフト紙ごと乱暴に抱えて、ドアノブに手をかけた。
「あかね」
背中に、大地の声がした。
「日曜のクロスワード、続けてね」
返事はしなかった。ドアを閉めた。
アパートの外階段を下りながら、腕の中で草がかさかさ鳴った。下りきったところで、乾いた花びらがまた一枚、コンクリートの上に落ちた。拾わなかった。
帰りの電車の中で、私は膝の上の雑草を睨み続けた。日曜の昼前の電車は空いていて、向かいの席のおばあさんが、不思議そうにこっちを見ていた。そりゃそうだ。泣きそうな顔の女が、干からびた雑草の束を、親の仇みたいに抱えているのだから。
泣いてはいなかった。泣いたら負けだと思った。何に負けるのかは、分からなかったけれど。
スマホが一度だけ震えた。大地かと思って画面を見たら、母からだった。
『今日は大地くんとデート? 寒くなってきたから風邪ひかないようにね』
既読をつけずに、画面を伏せた。
マンションに着いて、玄関の靴箱の上に、雑草の束を放り投げた。クラフト紙がずり落ちて、白い小さな花の草が、靴箱の端から半分はみ出した。直す気にもなれなかった。
部屋に上がって、ベッドに倒れこんだ。天井を見ていたら、頭の中で勝手に、さっきのクロスワードのマス目が浮かんできた。
縦の七は、「あかつき」。夜明け前の、いちばん暗い時間。
横の十二は、「うん」。約束を交わすときの、短い返事。
私が書き込んだ最後の一文字は、「ん」だった。
今日の大地は、頭文字の並べ替えをしなかった。いつもなら、最後の一マスが埋まった瞬間に、子どもみたいに余白にペンを走らせるのに。
何の約束だったんだろう、と思った。大地は何を、私に言わせたかったんだろう。
考えるのをやめて、目を閉じた。
十月の、よく晴れた日曜日だった。
(第1話 了)




