エピローグ「大地の一週間」
【日曜日】
ドアが閉まった。
床に、青い花びらの粉が散っていた。オオイヌノフグリ。三月の終わりに多摩川で摘んで、ポケットの中で四回落とした。五回目に、ハンカチに挟んで持ち帰った。いちばん苦労した一本だった。
拾おうとして、やめた。拾っても、もう戻らない。
あかねは、全部持って行った。破れたクラフト紙ごと、乱暴に抱えて。
持って行った。捨てずに。
それだけで、まだ大丈夫だと思うことにした。
ローテーブルの上には、畳んだ新聞が残っていた。最後の一マスに、あかねの字で「ん」。いつもなら、ここから余白に頭文字を書き出して、並べ替えの遊びをする。今日はしなかった。今日の並べ替えは、あかねにしてほしかったから。
順番は、わざと決めなかった。縦に読めば一発で分かるように作ることもできた。でも、それだと、あかねは俺の用意した答えを読むだけになる。頭文字を並べ替えるなら、最後の言葉は、あかねが自分で組み立てる。冷蔵庫の「ハルマチ」を、あかねが覚えていれば。
だから、床に叩きつけられて順番がばらばらになっても、それは、壊れたことにはならない。
そう思おうとした。
本当は、来週の日曜、この部屋で答え合わせをするはずだった。あかねは一週間、首をひねって、たぶん水曜くらいに「ねえ、あれ何なの」と聞いてくる。俺はとぼける。土曜あたりで頭文字に気づいて、日曜の朝、怒ったふりをしながら「BE HAPPYって何、偉そう」と言う。そこにヤロウが届く。そうしたら、足りない一言は、俺が言う。
言えるはずだった。
その前に、何か言うことないの。
あかねにそう聞かれて、口を開いて、閉じた。言えばよかった。言葉が喉まで来ていたのに、ここで言ったら一週間が台無しになる、と思ってしまった。半年かけた段取りの方を、目の前のあかねより優先した。
それが、いちばんの間違いだった。
その日の午後、花屋に電話をかけた。予約を取り消そうとして、番号を押す指が止まった。
「すみません、来週の日曜の配達、そのままで」
そう言って、切った。
【月曜日】
ガイドブックが、あかねのバッグの中にあることを確かめたくて、送った。
『ガイドブック、まだ返さなくていい』
返さなくていい、というのは、また会うまで持っていて、という意味だった。たぶん、伝わっていない。
既読がついた。それで十分だった。十分だと、自分に言い聞かせた。
【火曜日】
『日曜のクロスワード、縦の列、見直した?』
送ってから、自分で頭を抱えた。分かるわけがない。縦は俺の担当だった。それに、新聞はこの部屋にある。
返事が来た。
『は? 新聞もうないし』
三回読んだ。怒っている。でも、返してくれた。
何か返そうとして、何を書いても言い訳になる気がした。言い訳をしたら、あかねは解くのをやめる。答えを俺から聞いたら、意味がなくなる。
そこまで考えて、気づいた。また同じことをしている。段取りを守るために、言うべきことを飲み込んでいる。
分かっていて、それでも、画面を見たまま返さなかった。それがいちばん辛かった。
【水曜日】
会社を早退して、駅前の花屋に行った。
「日曜の配達、お届け先を変えたいんです」
店のおばさんは、伝票を見て、少しだけ眉を上げた。何も聞かなかった。
「カードも、書き直していいですか」
カウンターの端で、新しいカードを書いた。三回書き損じた。四回目に、最後の行を書いた。
最後の一言は、自分で渡したかった。
書いてから、店の中を見回した。バケツの値札。Rose。Lisianthus。Gerbera。
Lisianthus。L。
そうか、と思った。足りない一言を、まだ声で言う勇気がないなら、せめて。
「すみません、これと、あと何本か、日曜の朝に取りに来たいんですけど」
L は、トルコキキョウ。おばさんが、優美、という花言葉だと教えてくれた。
E は、ユーカリの葉。思い出、再生。
T は、ブルースター。幸福な愛。花嫁のブーケによく使うのよ、とおばさんが笑った。
S は、スイートピー。この季節は少ないけど、何とかするわね、と言ってくれた。花言葉は、門出。それから、別離。
別離、と聞いて、一瞬迷った。
でも、蝶が飛び立つ形だから、両方の意味があるのだと聞いて、入れることにした。別れるのも、新しく始めるのも、同じ羽の形をしている。ヤロウと同じだ。けんかと、七年の愛。
店を出る前に、値札の写真を一枚撮って、送った。花じゃなく、名前の方を。
【木曜日】
何も送らなかった。
送ったら、答えを言ってしまいそうだった。
一日中、スマホを伏せて仕事をした。昼休みに一度だけ、トーク画面を開いた。火曜日の「は? 新聞もうないし」が、一番下から二番目にあった。それを見て、また閉じた。
冷蔵庫の「ハルマチ」が、目に入った。春を待つ。あれを並べ替えたのは、去年の冬だった。あかねが「くだらない」と笑った顔を思い出して、少しだけ眠れた。
【金曜日】
パスポートの写真を送った。二冊目のガイドブックと並べて。
あかねのバッグに入れた一冊は、あかねの分のつもりだった。だから、自分の分を買い直した。
言葉は、付けなかった。付けたら、「まだ行くつもりなの」と思われる。思われていい。行くつもりだから。でも、それを書いたら、ただのお願いになる。
【土曜日】
何も送らなかった。
夕方、駅前の花屋の前を通りかかったら、おばさんが店先で手招きした。
「さっきね、ロータリーの向こうに女の子が立ってたのよ。うちの店、じっと見てて。目が合いそうになったら、逃げちゃった」
心臓が、止まるかと思った。
「……どんな子でした」
「目が腫れてたわね。泣いたあとみたいな」
泣かせたのは、俺だ。
雑草で、英語で、並べ替えで。あかねなら解けると信じていた。それは今も変わらない。でも、解けるかどうかと、泣かせていいかどうかは、別の話だった。
その夜は、一睡もできなかった。明日は、もう段取りなんかどうでもいい。解けていても、解けていなくても、自分の声で言う。そう決めて、朝を待った。
【日曜日】
朝七時に、花屋に行った。おばさんは、もう店を開けて待っていてくれた。
トルコキキョウ。ユーカリ。ブルースター。スイートピー。
薄紫と、銀色の葉と、水色の星と、蝶の羽みたいな白。L、E、T、S。
雑草じゃない花を、初めて、あかねのために買った。
五年分の日曜日は、道端の草でいい。お金のかからない、どこにでもある、誰も見ない草で。あかねと歩いた場所に生えている草で。
でも、これからの約束だけは、ちゃんと選んで、ちゃんと包んでもらいたかった。
ポケットに、小さな箱が入っていることを、三回確かめた。
あかねのマンションの外階段を上って、踊り場で止まった。ヤロウの配達は、九時。廊下の先、あかねの部屋のドアが見える。
九時十五分。配達員が来て、帰っていった。
少しして、ドアの向こうから、声が聞こえた気がした。泣いているような、笑っているような。
あかねは、解いただろうか。
解いていなくてもいい、と思った。解いていなくても、今日、自分で渡す。言葉が足りないなら、花で足す。それでも足りないなら、今度こそ、声で言う。
気づいたら、顎を掻いていた。
そのとき、ドアが開いた。
光の中から、あかねが飛び出してきた。サンダルで、ヤロウの花束を握りしめて、ぐしゃぐしゃの顔で。
言おうとした。
口を開いた瞬間、あかねの声が先に届いた。
「うん」
まだ、何も言っていないのに。
「うん、うん、うん」
ああ、と思った。
最後の一マスは、また、あかねが埋めた。
胸にぶつかってきたあかねの肩に、手を置いた。
「待って」
あかねが、ぐしゃぐしゃの顔のまま、こっちを見上げた。
「今度は、ちゃんと、声で言わせて」
抱えていた四本を、あかねの手に渡した。
あかねは、花を見下ろした。薄紫の一本を指でつついて、「これ、水曜の写真の」と言った。
「Lisianthus」
「……L」
あかねの指が、銀色の葉に移った。
「ユーカリ。Eucalyptus」
「E」
水色の、星みたいな花。
「ブルースター。英語だと、Tweedia」
「T」
最後の、蝶の羽みたいな白。それは、言わなくても分かったみたいだった。
「……Sweet pea。S」
あかねが、顔を上げた。
「L、E、T、S」
鼻をすすって、もう一回、小さく言った。
「Let's」
新聞の余白の BE HAPPY の前に、足りなかった四文字だった。
あかねは、花と俺の顔を交互に見て、言った。
「遅いよ」
「うん」
「一週間、遅い」
「うん。ごめん」
「あとで、ちゃんと文句言うからね」
「うん」
それから、半年かけて足りなかった言葉を、自分の声で言った。
あかねは、もう一回、「うん」と言った。
(大地の花束 了)




