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第一話 南の小路

 カラン、とベルが鳴った。




 誰も、扉には触れていなかった。




 ——その午後のことを、青輝硬矢は、あとになって何度も思い返すことになる。




 何も起きない、いつもの午後だった。




 それが、最後だった。




---




 海に面した小さな国があった。




 良港と、銀色の鉱石と、穏やかな人々。それだ


けで足りていた時代があった。




 だが、船は減り、若者は去り、鉱脈は痩せていった。




 隣国の旗が、水平線に増え始めていた。




 老いた王は、夜ごと海を見た。




 春になっても、海風は冷たかった。




---




 四月の午後だった。




 南の小路は、今日も静かだった。




 駅前の商店街から一本入った路地の先。ガラス


戸に書かれた店名がなければ、見過ごしてしまいそうな小さな喫茶店である。




 硬矢はガラス戸を開けた。




「ありがとうございました」




 会計を済ませた女性客が軽く会釈をし、路地へ


と歩き出す。コーヒーの匂いが、一瞬だけ外へ漏れた。




 ガラス戸が閉まる。




 カラン、と小さなベルが鳴った。




 店内に、静けさが戻る。




 窓際の二人席では、白髪の女性が文庫本を読んでいた。湯気の消えたコーヒーカップが、ページの隣に置かれている。




 八千代は顔を上げなかった。この店で最も古い常連であり、最も静かな客だった。




「行ってしまいましたね」




 硬矢はカウンターへ戻りながら言った。


「店なんだから、当たり前だろう」




 大庭仁は布巾でカップを拭きながら、顔も上げなかった。硬矢の祖父で、この店の主人だった。三十年、同じカウンターの内側に立っている。




「いや、常連さんですよ。毎週水曜日に来て、たまごサンドとコーヒーを頼んで、一時間ちょうどで帰る」




「また来るさ」




「根拠は?」




「たまごサンドが食べたくなる」




 硬矢は少し考えてから、「それは根拠になりますか」と言った。




 大庭は答えなかった。カップを棚に戻した。




 硬矢はカウンターの端に腰を落ち着け、窓の外を見た。




 路地には人影がない。午後の陽射しが石畳に伸びて、ゆっくりと動いていた。




 この店に出入りするようになって、十年になる。高校の頃、放課後の居場所がここだった。家に帰っても誰もいない日が続いて、気がつけばこのカウンターに座っていた。そのうち手伝うようになり、いつの間にか、ここが一番落ち着く場所になっていた。




 なぜここなのかと訊かれたら、たぶん答えられない。




 ただ、ここにいると、何かを急かされる感じがしない。




 窓際の八千代のカップが、空になっていた。




 硬矢はカウンターを出て、八千代の席へ歩いた。




「おかわり、いかがですか」




 八千代は文庫本から顔を上げた。眼鏡の奥の目が、少しだけ笑う。




「いいえ。もう少し、このままで」




 硬矢は頷いて、カウンターに戻った。




 八千代は、コーヒーを飲みに来ているのではな


い。週に一度、この空気の中にいるために来ている。




 大庭も、それを知っている。だから、何も言わない。




 カラン、とベルが鳴った。




「こんにちはー!」




 ガラス戸を開けて、男の子が入ってきた。後ろから、女の子が静かについてくる。




 宮川誉と、水瀬凪。高校二年生。半年前からの顔馴染みだった。




「いらっしゃい」




「硬矢さん、今日のケーキなんですか」




「チーズケーキ」




「凪、チーズケーキだって」




 凪は小さく頷いた。二人は、いつものボックス席へ向かう。誉が先に座り、凪が向かいに腰を下ろした。




 大庭は何も言わなかった。ただ、水を二つ、静かにトレーに乗せた。




 声をかけるわけでも、笑顔を作るわけでもない。ただ、水を持って、ボックス席へ歩いていく。




 誉が「ありがとうございます」と言った。凪が小さく会釈をした。




 半年前、初めてこの店に来た時、凪の肩はもっと硬かった。誉の後ろに隠れるようにして、上着も脱がずに座っていた。今はもう、上着を脱いで椅子の背にかける。ここが自分の場所だと、知っているからだ。




 硬矢には、そういうことが見えた。




「たらこパスタと、チーズケーキ。凪は?」




「たまごサンドと、チーズケーキ」




「だよね」




 誉が嬉しそうに笑った。凪が「何がおかしい


の」と小さく言う。




「いや、凪はたまごサンドだなって」




「誉くんだって、たらこパスタでしょ」




「俺はいいんだよ。たらこパスタは俺を裏切らないから」




 凪が、少しだけ口元を緩めた。




 硬矢が注文を通すと、大庭は黙って頷いて厨房に入った。




 湯を沸かし、パスタを茹でる間に、朝のうちに焼いたチーズケーキを切り、たまごサンドを仕上げる。包丁を入れる前に、一度だけ布巾で刃を拭う。三十年、変わらない手つきだった。




 四つの皿が、七分ほどでカウンターに並んだ。




 硬矢は、それを見ていた。十年見てきた。同じ動きを、何百回と見た。それでも、同じ速さでは動けない。




 ボックス席に運ぶと、誉が「おお」と声を上げた。




「硬矢さん、これって毎回同じ味しません?」




「同じだよ。三十年、同じ味」




「すげえ」




 凪は、たまごサンドを一口食べて、少しだけ目を閉じた。噛んでいる間、何も言わなかった。




 誉が、自分のチーズケーキの一番端を、フォークで切り分けた。何も言わずに、凪の皿に乗せた。




 凪は、それを見た。何も言わずに、たまごサンドの角を一切れ、誉の皿に乗せた。




 交換は、それで終わった。二人とも、何も言わなかった。半年間、毎回そうだった。




 カラン、とベルが鳴った。




 今度は一人だった。




 スーツ姿の女性が、少し迷うようにガラス戸を開けた。




 硬矢は、すぐには声をかけなかった。




 女性の視線が、店内をゆっくり巡る。窓際の二人席が二つ。奥に四人掛けのボックス席が一つ。あとは、カウンターが四席。小さな店だった。




 視線が、カウンターで止まる。




 それを見届けてから、硬矢は声をかけた。




「いらっしゃいませ。どこでもお好きな席にどうぞ」




「あ、ありがとうございます」




 女性は扉側のカウンター席に腰を下ろした。鞄を膝の上に置いたまま、メニューを手に取る。背筋は伸びていたが、肩に力が入っていた。




「ブレンドを一つ、お願いします」




「かしこまりました。——この辺、お仕事ですか?」




「近くの会社にアポがあって……少し早く着いてしまって」




「時間つぶしですか」




「はい。通りがかりに見えたので」




 女性は、少し申し訳なさそうに笑った。




「時間つぶし、大歓迎ですよ。うちは、そういう店なので」




 女性が、少しだけ顔を上げた。




 本当のことだった。常連の大半は、今ではここが目的で来ている。でも、最初は皆、時間をつぶしに来た人だった。雨宿りに。待ち合わせまでの間に。なんとなく、通りがかりに。




 そういう人が、いつの間にか、ここを目的にして帰っていく。




 南の小路は、そういう店だった。




 硬矢がカウンターに戻ると、大庭はもう豆を挽き始めていた。




 注文を聞いていたわけではない。客が座った瞬間に、何を出すか決めていたのだろう。三十年の勘というやつだ。硬矢には、まだその領域は見えない。




 コーヒーが淹れ終わる。硬矢はカップを運んだ。




「どうぞ」




 女性はカップを両手で包むように持ち、一口飲んだ。




 少しだけ、肩の力が抜けた。




 女性は一度だけ、鞄から携帯電話を取り出した。画面を見て、時間を確かめた。




 それから、画面を伏せて、カウンターの端に置いた。




 硬矢は、それを見ていた。




 この店に初めて来る客は、たいてい最初にそれをする。時間を確かめて、それから、確かめるのをやめる。




 窓際で、八千代が文庫本から目を上げた。




「仁さん。今日は、いい日ね」




 大庭は、カップを拭く手を止めなかった。




「いつもと同じだ」




「それがいいのよ」




 八千代は、また文庫本に目を落とした。大庭は何も答えなかった。ただ、次のカップを手に取るまでの間が、ほんの少しだけ長かった。




 大庭が、硬矢にぽつりと言った。




「あの人も、また来る」




「根拠は?」




「一口飲んだ時、肩の力が抜けた」




 それだけだった。




 ボックス席では、誉が凪にチーズケーキの感想を聞いている。凪が小さく「おいしい」と答えて、誉が嬉しそうに笑った。




 窓際では、八千代が文庫本のページをめくった。もう何時間もそこにいるはずだが、帰る気配はない。




 カウンターでは、スーツの女性がコーヒーを飲みながら、ぼんやりとカップの向こうを眺めていた。




 大庭が、次のカップを拭いている。




 南の小路は、今日も静かだった。




 硬矢はカウンターの端に戻り、一度、窓の外を見た。




 午後の陽射しが、石畳の上をゆっくりと動いていく。






 特別なことは、何もない。




 ただ、ここにいる人たちが、それぞれの時間を過ごしている。




 誉は笑っている。




 凪も、少しだけ笑った。




 八千代は、静かにページをめくる。




 スーツの女性は、もう時計を見ていなかった。




 店長は、黙ってカップを拭いている。




 硬矢は、その景色をしばらく眺めていた。




 この景色が、ずっと続くと思っていた。






 ふと、窓の外の陽射しが、止まって見えた。




 石畳の上をゆっくり動いていた光の縁が、ある一線で、動かなくなった。




 目の錯覚だと思った。硬矢は瞬きをした。




 光は、まだそこにあった。動いていなかった。




 そのときだった。




 カラン、とベルが鳴った。




 誰も、扉には触れていなかった。

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