第9話 鳴るはずの鈴
鈴は、鳴るためにある。
鳴らない鈴は、飾りより悪い。
助けを呼べると思わせて、助けを呼べないからだ。
呉菲は皇帝寝所の見取りを、小さな木札で机に並べた。
「皇帝陛下が異変を感じた時、この紐を引けば主鈴が鳴ります。音は控えの間に届き、控えの女官が医官府へ知らせ、武官が通路を開けます」
鈴鈴は紐を想像しただけで震えた。
「引けば助けが来るんだよね?」
「正しく人が配置されていれば」
呉菲の言い方に、鈴鈴の顔がさらに青くなる。
「正しくないと?」
「鳴っても聞く者がいません」
小桃は木札を見た。
皇帝寝所。
控えの間。
医官府への道。
予備通路。
東控え。
西棟へ曲がる古い道。
全部が、床の上で小さな形になっている。
「予備手順は?」
「主鈴が不通の場合、東控えの副鈴を使います。さらに、東控えの女官がいない場合は、外廊下の武官が直接医官府へ走る決まりです」
「つまり、鈴は紐だけでは鳴らない」
呉菲は頷いた。
「聞く者、走る者、道を開ける者、医官を呼ぶ者。どれか一つ欠ければ、鈴は鳴っても死にます」
小桃は少しだけ目を丸くした。
「呉菲、今のはかなり怖い名言です」
「名言ではありません。規則の説明です」
「規則はたまに人を脅しますね」
「脅しているのは状況です」
鈴鈴が西側の木札を指差した。
「西棟にも鈴があるの?」
呉菲は少し沈黙した。
「記録上は、数年前から休止扱いです」
「どうして?」
「そこに人がいないからです」
小桃は指を止めた。
いない。
西棟への配膳記録はない。
だが車輪跡はあった。
西棟の呼び鈴は休止。
理由は、そこに人がいないから。
後宮では、人がいないことにも手順があるらしい。
便利な嘘だ。
「鈴が鳴らないなら、誰が最初に気づくのですか」
「本来は控えの女官です。ですが、控えの女官が配置変更で外されれば、誰も気づきません」
「東控えも?」
「東控えも、配置札一つで空にできます。正式命令なら、誰も疑いません」
「正式命令で人を空にする。嫌な言い方ですね」
「嫌な事実です」
小桃は机の上の札を見つめた。
呉菲が、杯の札に指を置く。
「毒見役は、毒を怖がっていませんでした」
次に、香炉の札。
「香が変わります」
戸の札。
「寝所の戸は、完全には閉まりません」
医官府へ続く通路の札。
「医官への道は、遠回りになります」
呉菲の指が、配置札の端で止まった。
「警備配置には、高亮様の名があります」
宋青が残していった処方控えを、小桃は思い出す。
「薬湯の処方は、香と合わない」
呉菲は小さく頷き、黒い薬箱の札に触れた。
「救命薬箱の封は、新しすぎます」
さらに、紐の描かれた札。
「呼び鈴には、主手順と予備手順があります」
最後に、西棟の札。
「西棟の鈴は、いない人のために休止しています」
鈴鈴が両腕を抱いた。
「一つずつだと、小さいのに」
「小さいから見逃されます」
小桃は倒れかけた木札の列を見た。
どれも、少しずつ傾いている。
けれど傾く先は、同じだった。
小桃は低く言った。
「毒で殺すのではなく、助かる手順を一つずつ殺す」
鈴鈴が震えた。
「言い方が怖い」
「内容が怖いので、言い方が追いついただけです」
呉菲は黙っていた。
規則に詳しい呉菲だからこそ、その言葉の重さが分かるのだろう。
手順は守るためにある。
それを逆に壊されたら、守られていると思った人間から死ぬ。
鈴鈴が小さく言った。
「じゃあ、毒は?」
「まだ分かりません」
小桃は正直に答えた。
「でも、毒だけでは足りない。毒で全部説明できるなら、ここまで鈴や道や薬箱を触る必要がありません」
呉菲が木札を一つ倒した。
「主鈴」
もう一つ倒す。
「東控え」
さらに一つ。
「外廊下武官」
最後に、救命薬箱の小さな札へ触れた。
「薬」
小桃はその並びを見た。
鈴が鳴らない。
鳴っても人がいない。
人が走っても道が遠い。
道を抜けても薬が違う。
「助けを呼ぶ声が、届く前に死ぬ」
鈴鈴が泣きそうになった。
「小桃、今の一番怖い」
「私もそう思います」
その時、低い声がした。
「何を隠している」
振り返ると、李蓮が立っていた。
いつからいたのか。
相変わらず足音の少ない皇子だ。
顔は良い。
気配は悪い。
容疑者評価は、まだ消えていない。
鈴鈴が即座に固まった。
呉菲が膝を折る。
小桃も遅れて頭を下げた。
「殿下。盗み聞きですか」
「この距離でその声なら、聞こえる」
「では半分は私の責任ですね」
「全部だ」
李蓮は机の木札を見た。
「何を隠している」
小桃の背筋が冷えた。
真正面から来た。
「隠し事は後宮の嗜みでは?」
「ふざけるな」
「では、少しだけ真面目にふざけます」
「姚小桃」
名を呼ばれると、逃げ道が一つ塞がる気がした。
小桃は口を開いた。
私は一度死んだ。
皇帝陛下が殺される夜を見た。
あなたも疑われる。
高亮が私を殺す。
毒ではない。
喉が詰まった。
見えない手が、内側から言葉を押し潰す。
息はある。
声もある。
だが、その先の言葉だけが出ない。
小桃は袖の中で拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
痛い。
痛みがあると、今ここにいることが分かる。
李蓮が一歩近づく。
「何を隠している」
小桃は顔を上げた。
笑う。
笑え。
怖い時ほど、ふざけろ。
「言えないことを隠しています」
李蓮の眉間に皺が寄った。
「答えになっていない」
「言えないので」
「なぜ言えない」
「それも言えません」
「お前は私をからかっているのか」
「半分ほど」
「残りは」
小桃は少しだけ息を吐いた。
「困っています」
その言葉は出た。
出てしまった。
李蓮の表情が、ほんの少し変わった。
苛立ちの奥に、別のものが動いた気がした。
心配ではない。
まだ、そこまで甘くない。
ただ、目の前の下級女官が嘘をついていないことに、腹を立てているような顔だった。
「お前は、何を知っている」
小桃は答えられない。
代わりに木札を指した。
「知っていることではなく、見えていることなら話せます」
李蓮は黙った。
「陛下が倒れた時、毒を見る者は杯を見ます。けれど、今見るべきは杯だけではありません。香、戸、薬箱、通路、鈴、人の配置。どれか一つではなく、全部が少しずつ壊れています」
「誰が」
「まだ分かりません」
これは本当だ。
今はまだ、断定できない。
総管府。
高亮。
李蓮名義の香。
宋青の薬箱。
胡麗の嫌がらせ。
西棟。
休止した鈴。
線は見える。
だが中心は霧の中だ。
李蓮は低く言う。
「私を疑っているのか」
「はい」
鈴鈴が小さく叫んだ。
呉菲が静かに目を閉じた。
李蓮は怒らなかった。
怒る前に呆れたのかもしれない。
「堂々と言うな」
「隠すと不誠実なので」
「私に名義を使われた可能性は考えないのか」
「考えています。殿下が犯人の場合と、殿下を犯人に見せたい場合、両方です。顔が良いと選択肢が増えますね」
「顔は関係ない」
「関係ないのに印象に残る。厄介です」
李蓮は深く息を吐いた。
「西棟には近づくなと言った」
「はい」
「それも守っていないな」
「まだ近づいていません。床が近づいてきただけです」
「床は動かない」
「後宮の床は、たまに秘密を運びます」
その時だった。
廊下の向こうから、足音が走ってきた。
呉菲と同じ詰所の女官が、息を切らして飛び込んでくる。
「呉菲!」
呉菲が立ち上がる。
「何事ですか」
女官は小桃たちを見て、李蓮に気づき、慌てて膝をついた。
「も、申し訳ございません。ですが急ぎで」
「言いなさい」
李蓮が短く命じた。
女官は震える声で言った。
「明日の妃の召し出しが、一日早まりました」
小桃の胸が、嫌な音を立てた。
早い。
そう言いかけただけで、喉の奥が重くなる。
小桃は拳をさらに強く握った。
準備は整っていない。
救命薬箱は開けられない。
警備配置も完全には戻せていない。
香は変わる。
戸は閉まらない。
呼び鈴の予備手順も、確認途中だ。
暗殺の夜が、こちらの準備を待たずに近づいてくる。
李蓮が小桃を見る。
「姚小桃」
小桃は、笑おうとした。
今度はうまくいかなかった。
「殿下」
声がかすれる。
「今夜から、たぶん眠れません」
鈴鈴が泣きそうな声を出した。
呉菲の顔も青い。
妃の召し出しが前倒しされた。
準備が整わないまま、皇帝が倒れる夜を迎えることになる。




