第10話 皇帝は毒で死ななかった
皇帝が奥宮に入る夜、風が冷たかった。
戸の隙間から入る冷気が、燭台の火を細く揺らす。
香炉から立つ煙は、甘く重い。
少し吸うだけで、胸の奥に薄い布を掛けられたような気がした。
小桃は廊下の陰で、その香りを嗅いだ。
「嫌な香ですね」
鈴鈴が隣で震える。
「香に嫌って言う人、初めて見た」
「人を黙らせる香りがします」
「もっと怖い言い方ある?」
呉菲は持っていた木札を確認する。
「主鈴、副鈴、東控え、外廊下武官、医官府への予備通路。確認できるものは確認しました」
「確認できないものは?」
「相手が動かすものです」
呉菲の声は硬い。
小桃は頷いた。
相手が動かすものは、止めきれない。
だから、動いた瞬間に拾うしかない。
ただし、何もせずに待つのではない。
李蓮には、寝所近くに残るよう頼んだ。
「父上の寝所近くに残れだと?」
「はい。疑われやすい場所に立っていただけると助かります」
「私を疑っているのか、使っているのか」
「両方です」
李蓮は怒った。
だが残った。
韓雷には、警備配置の一部を戻させた。
「正式命令に逆らえと言うのか」
「正式命令で人が死ぬなら、命令書は後で泣かせましょう」
「命令書は泣かない」
「書いた人は泣くかもしれません」
韓雷は呆れ、結局、外廊下の武官を一人戻した。
「不測の事態への補強」という名目を付けて。
宋青には、本物の救命薬を別に用意させた。
「薬箱を勝手に疑うな」
「では私の不安を否定するために、持っていてください」
「お前の不安など、薬にする価値もない」
「条件を出したのは医官殿です」
宋青は舌打ちした。
「覚えている。だから腹が立つ」
そう言いながら、宋青は小さな薬包を袖に入れた。
呉菲には、呼び鈴の予備手順を確認してもらった。
鈴鈴には、特に怖い場所を教えてもらった。
「怖い場所って何?」
「鈴鈴が近づきたくない場所です」
「全部」
「では特に全部の中から選んでください」
鈴鈴は泣きそうになりながら、東控えの手前を指した。
「あそこ。人がいるはずなのに、誰かがいなくなる感じがする」
その言葉で、韓雷に東控えの近くを見張らせた。
小桃の手元には、完全な証拠などない。
あるのは違和感だけだ。
床の跡。
香の記録。
戸の隙間。
薬湯の控え。
命令札の処理名。
封蝋の艶。
鳴るはずの鈴。
怖がりの勘。
下級女官が持てるものとしては、十分すぎる。
足りない分は、怖さで埋めるしかない。
奥宮の中で、妃が召し出された。
衣擦れの音。
控えめな笑い声。
酒を注ぐ音。
杯を受け渡す手。
すべてが美しく整っている。
整いすぎている。
小桃は廊下の端から見た。
杯。
薬湯。
香。
妃の緊張した横顔。
皇帝と不仲と噂される李蓮の不在に見える位置。
そして李蓮名義の香。
毒殺に見える材料が、そろいすぎている。
毒が多すぎる。
だから、毒だけでは足りない。
皇帝は杯を口にした。
毒見役は倒れない。
杯は封杯の手順を通っている。
酒の色も匂いも変わらない。
皇帝が軽く咳をした。
一度。
二度。
小桃の胸が縮む。
香の煙が揺れる。
戸の隙間から、冷たい風が入る。
妃は予定より長く引き留められている。
薬湯の碗が下げられず、寝所の脇に残っている。
宋青がその薬湯を見て、わずかに眉をひそめた。
「濃い」
小桃の耳にだけ届く低い声だった。
「香を重くした夜に、この薬湯を残すのは嫌な組み合わせだ」
その言葉が終わる前に、皇帝の手が碗の縁を掴んだ。
咳が深くなった。
周囲の女官がざわめく。
「陛下?」
皇帝の肩が大きく上下した。
息が吸えていない。
喉の奥でひゅうと音が鳴る。
誰かが叫んだ。
「毒だ!」
その声を合図にしたように、場が一斉に毒へ向いた。
「杯を!」
「毒見役はどこだ」
「薬湯を調べろ」
「妃を下がらせるな」
違う。
小桃は走り出した。
「前も毒じゃ――」
喉が潰れた。
痛みが走る。
言葉が折れる。
前も。
その言葉はだめだ。
死に戻りに触れる。
小桃は足を止めかけた。
だが、今ここにある事実なら言える。
封杯の規則。
無事な毒見役。
皇帝の呼吸。
小桃は息を吸い直した。
「毒なら毒見役が倒れます! 今見るべきは杯ではなく、陛下の息です!」
叫び声に、周囲が振り返る。
下級女官が皇帝の寝所で声を上げる。
普通なら、その場で取り押さえられる。
だが皇帝の呼吸音が、全員の耳に届いていた。
ひゅう。
ひゅう。
毒で悶える音ではない。
息が通らない音だ。
宋青が飛び込んだ。
「道を開けろ!」
医官の声は強かった。
否定したがる男は、現場では迷わなかった。
皇帝の手が、寝台脇の紐を掴む。
呼び鈴。
皇帝が引いた。
鳴らない。
鈴鈴が短く悲鳴を上げた。
呉菲が叫ぶ。
「主鈴不通時は、東控えの副鈴を使う規則があります! 東控えへ!」
女官が走ろうとした。
だが、東控えから返事がない。
誰もいない。
鈴鈴が震えながら叫んだ。
「やっぱり! あそこ、誰かがいなくなる感じがした!」
外廊下で命令の声がした。
「警備配置変更により、東控え周辺は一時退避――」
韓雷の怒声がそれを遮った。
「命令は後で聞く。今は人が死ぬ」
重い足音が響く。
韓雷が武官二人を押しのけ、東控えへ走った。
彼は推理しない。
ただ道を開ける。
それでいい。
小桃は寝所へ踏み込んだ。
すぐに宦官が腕を伸ばす。
「下級女官が入るな!」
その前に、李蓮が立った。
「通せ」
「しかし殿下、御前は封鎖を」
「私を疑うなら後で疑え。今は父を救え」
李蓮の声が、寝所の空気を裂いた。
疑われる立場の皇子が、寝所封鎖を破る。
その行動自体が、後で疑いになるかもしれない。
それでも彼は動いた。
小桃は一瞬だけ、彼を見直した。
容疑者評価は少し下げてもいい。
少しだけ。
宋青が救命薬箱の前に膝をつく。
封を切る。
新しすぎる封蝋が割れた。
箱が開く。
宋青の顔が変わった。
「違う」
その一言で、場が凍った。
「薬は?」
小桃が聞く。
宋青は薬包を掴み、匂いを嗅いだ。
「似せている。見た目も匂いも寄せている。だが発作時に効く薬ではない」
鈴鈴の顔から血の気が引いた。
呉菲も息を止める。
その場の誰もが、一瞬、同じことを思った。
もう間に合わない。
皇帝の呼吸はさらに細くなる。
指先が震え、胸が上下するたびに音がかすれる。
宋青が箱の中を探す。
ない。
必要な薬だけが、ない。
小桃の胃が冷えた。
怖い。
怖い。
怖い。
待つしかないと言ったのは自分だ。
相手が使うまで待つしかないと、言った。
このまま死んだら、自分が殺したのと何が違う。
宋青が袖から小さな薬包を取り出した。
「素人の不安を潰すために持ってきただけだ」
小桃は息を吐いた。
膝が抜けそうになるのを、必死でこらえる。
「不安が役に立って何よりです」
「黙れ。あとで怒鳴る」
「今も十分怖いです」
宋青は皇帝の口元に薬を運び、湯を求めた。
呉菲が即座に指示する。
「薬湯ではなく、白湯を。寝所脇の碗は使用不可。封杯外の湯を」
鈴鈴が震えながらも、戸の隙間を指した。
「風、そこから入ってる。小桃、あそこ、さっきから火がずっと揺れてる」
韓雷が戻るより早く、李蓮が戸へ向かった。
袖を汚すのも構わず、半端に開いた戸を押さえる。
「閂を」
韓雷が駆け戻り、外から戸を押さえた。
「東控えは無人だった。配置札だけ残されていた」
「後で見ます」
小桃は答えた。
今は皇帝の息だ。
宋青が薬を含ませる。
皇帝の喉が動く。
一度、咳き込む。
さらにもう一度。
寝所中が息を止めた。
長い瞬間だった。
やがて、皇帝の呼吸音がわずかに変わった。
ひゅう、ではなく、深く引っかかる息。
苦しげだが、通り始めている。
宋青が額の汗を拭った。
「まだ油断するな。香を止めろ。戸を閉めろ。人を減らせ。陛下を起こすな」
呉菲がすぐに動く。
「香炉を下げる係は二名。記録札を残してください。勝手に下げれば後で証言になりません」
こんな時でも規則。
いや、こんな時だから規則。
小桃は呉菲を見て思った。
この女官を敵に回したくない。
宋青は小桃を睨んだ。
「陛下を実験台にしたつもりか」
小桃は首を振った。
「香だけ止めても、別の刃が来ます。薬湯だけ止めても、別の毒が置かれます。全部止めるには、相手に手順を出させるしかありませんでした」
「それで陛下が死んだら?」
その問いは、刃だった。
小桃は一瞬、声を失った。
軽口が出ない。
鈴鈴が小桃の袖を握る。
呉菲もこちらを見ている。
李蓮は皇帝のそばに立ったまま、小桃から目を逸らさない。
小桃は正直に言った。
「私は、怖かったです」
宋青の表情が止まる。
「でも、何も出させずに止めたら、次はもっと見えない形で来ます。陛下も、ここにいる誰かも、助かる手順をまた壊されます」
宋青は怒っていた。
だが、薬包を握る手は止まっていなかった。
その時、寝所の視線はほとんど皇帝に向いていた。
皇帝の息が戻るか。
薬が効くか。
宋青が次に何を命じるか。
誰もがそこだけを見ていた。
だから、御前の器を下げる係だけが、正しい手順の顔で杯へ近づけた。
「毒の確認のため、杯をお預かりします」
声は丁寧だった。
動きも手順通りに見えた。
騒ぎの後、器を保全する者が動くのは自然だ。
毒だと騒がれた以上、杯を下げて検分に回すのもおかしくない。
だからこそ、小桃の目に引っかかった。
係の右手。
袖の中。
乾いた布が指に絡んでいる。
布の端に、黒ずんだ練り物が薄く付いていた。
小桃の体が先に動いた。
「杯に触らないでください」
係の手が止まる。
「毒の確認です」
「毒の確認なら、なおさら触らないでください。今、あなたの指の布が杯の縁に触れるところでした」
寝所の空気が変わった。
韓雷が一歩で距離を詰め、係の腕を掴む。
係が顔色を変えた。
布が落ちる。
宋青が拾い、匂いを嗅いだ。
「練り毒だ」
ざわめきが広がる。
小桃は杯を見た。
酒の中には、まだ何もない。
少なくとも、今この場で見える範囲では濁りも匂いもない。
だが、係が触れようとした外縁の一部だけに毒を擦りつければどうなるか。
検分者は見る。
皇帝が口をつけたように見える縁。
そこに毒。
周囲には怪しい香。
薬湯。
妃。
李蓮名義の香。
毒殺だ、と誰もが言う。
小桃の胸の中で、最後の線がつながった。
毒は、皇帝が飲むためのものではない。
皇帝が死んだ後、検分する者に見せるためのものだ。
飾り。
「酒の中ではない」
小桃は呟いた。
宋青が顔を上げる。
「何?」
「毒は、飲ませるためじゃありません。皇帝陛下が口をつけたように見える縁へ、後から置くためです」
李蓮の顔が冷えた。
「毒殺に見せるためか」
小桃は頷いた。
「毒が多すぎる理由です。毒は凶器ではなく、毒殺だと読ませる飾りだったんです」
鈴鈴が小さく言う。
「飾りで、人を殺すの?」
「いいえ」
小桃は皇帝を見た。
まだ苦しげに息をしている。
だが、生きている。
「殺すのは、息を塞ぐ香と、冷たい戸と、効かない薬と、鳴らない鈴と、いない控えです」
呉菲が低く言った。
「助かる手順を、一つずつ」
「はい」
その時、香炉を下げていた女官が泣き崩れた。
「私は、香を替えろと言われただけです。記録通りに置けと……下賜品だから、失礼のないようにと……」
女官の声は震えていた。
「毒のことは知りません。杯のことも、陛下がどうなるかも、私は……」
その視線が、器下げ係へ逃げた。
韓雷が器下げ係を押さえる。
「誰の命令だ」
係は唇を噛んで黙る。
否定もしない。
香係の女官を庇いもしない。
その目は一瞬だけ、廊下の外へ動いた。
小桃もその方向を見た。
人影があった。
高亮。
遠い廊下の影に、あの男が立っていた。
七日後の夜、小桃を殺した男。
今はまだ、表向き何もしていない男。
だが彼の目が、こちらを見ている。
見られている。
皇帝は助かった。
少なくとも、今夜は死ななかった。
宋青は救命薬箱を閉じた。
持っていた医官府の封を取り出し、箱に押す。
「この薬箱は医官府預かりにします。総管府には戻せません。陛下の命に関わった薬箱です」
周囲がざわつく。
李蓮が近づき、皇族印を重ねた。
「私が立ち会った。異議がある者は、父上が目覚めてから言え」
二重の封。
これで、この箱だけは簡単には回収されない。
小桃は息を吐いた。
勝った、とは思えなかった。
皇帝は生きている。
けれど発作の後で衰弱し、公的な命令を出せる状態ではない。
寝所の外では、すでに誰かが「陛下の静養」を口にし始めている。
誰の命令か。
皇帝の口から出たものか。
誰かが整えたものか。
外からは、まだ分からない。
李蓮が小桃を見た。
「姚小桃」
「はい」
「お前は、何者だ」
小桃は笑おうとした。
今度は、少しだけ笑えた。
「下級女官です。床掃除が得意になりつつあります」
李蓮は何か言いかけ、やめた。
宋青は皇帝の脈を取り続けている。
韓雷は器下げ係を押さえ、呉菲は証言者と物品の記録を取っている。
鈴鈴は泣きながらも、香炉が下げられた位置を覚えようとしていた。
それぞれが、助かる手順をつないだ。
だから皇帝は死ななかった。
小桃はもう一度、廊下の影を見た。
高亮はまだそこにいる。
口元に、薄い笑みがあった。
小桃の背筋が冷える。
皇帝は助かった。
だが今度は、小桃が見られていた。




