第8話 医官は否定したがる
医官府には、薬草の匂いと不機嫌が詰まっていた。
前者は当然として、後者の発生源は一人だった。
宋青。
若い医官である。
白衣は清潔で、袖口に乱れはない。
目つきは鋭く、口元は常に「なぜ素人は余計なことを考えるのか」と言いたそうに歪んでいる。
小桃は一目で思った。
面倒な人だ。
そして、面倒な人はたいてい役に立つ。
「毒ではなく、発作で皇帝陛下を殺せますか」
小桃がそう聞くと、宋青は薬匙を置いた。
とても静かに置いた。
静かすぎて怒っているのが分かる置き方だった。
「誰がそんな話をした」
「私です」
「下級女官が?」
「はい。身分の低さは発想の軽さを保証しません」
宋青の眉がわずかに上がる。
鈴鈴は小桃の背後に隠れている。
呉菲は医官府へ入るための許可札をきちんと持ち、逃げ道を規則で塞いでいた。
宋青は冷たく言った。
「素人の思いつきだ」
小桃は頷いた。
「では、素人の思いつきでないと証明してください」
「何?」
「否定するなら、検証が必要でしょう。医官殿は、まさか感情で医学をなさるのですか」
鈴鈴が小さく息を呑む。
呉菲が目を閉じた。
「小桃、医官府で医官を挑発する規則はありません」
「禁止も?」
「普通は薬を出してもらえなくなるので、誰もしません」
宋青は小桃をじっと見た。
怒っている。
とても怒っている。
しかし、怒っているからこそ、否定するための道具を探している。
「発作で人は死ぬ」
宋青は言った。
「だが、発作を狙って起こせるとは限らない。まして皇帝陛下だ。日々の薬、寝所の温度、香、召し出しの時間、すべて管理されている」
小桃は静かに聞いた。
香。
温度。
召し出し。
薬。
全部、出た。
「陛下には夜間に呼吸発作が?」
宋青の目が細くなる。
「なぜ知っている」
しまった。
小桃はすぐに言い換えた。
「今朝、咳をされていました。寝所の香の変更記録も見ました。戸の建てつけ確認もあります。医官府から香と薬草の相性について注意が出ていたとも聞きました」
宋青は呉菲を見た。
呉菲は淡々と答える。
「香炉管理記録と女官配置記録の範囲です。下級女官でも閲覧可能な部分です」
「閲覧可能だからといって、つなげるものではない」
「つながってしまいました」
小桃が言うと、宋青は露骨に嫌そうな顔をした。
「皇帝陛下には、夜間に呼吸が狭まる発作がある。頻繁ではない。だが、疲労、冷気、相性の悪い香、薬湯の乱れが重なれば危険は増す」
鈴鈴が震えた。
「危険、増えるんだ」
宋青は棚から処方控えを一枚抜いた。
「陛下の夜の薬湯は、発作の出やすい日は軽くする。香が重い日は特にそうだ。胸を詰まらせる香と、体を温めすぎる薬湯を重ねれば、息が荒れやすくなる」
小桃は紙面を見た。
「今夜は?」
宋青は口元を歪めた。
「香は重くなる。だが薬湯の控えは、軽くする処理になっていない」
呉菲が処方控えを覗き込む。
「医官府側の注意書きはあります。ですが寝所側の受領欄には、通常通りと」
「誰が通常通りにしたのですか」
小桃が聞くと、宋青は冷たく答えた。
「だから調べている」
小桃は紙面を見た。
香。
戸。
薬湯。
皇帝の息を苦しくするものが、同じ夜に重なる。
「偶然にしては、息苦しそうな組み合わせですね」
宋青はますます嫌そうな顔をした。
「だから素人の思いつきが腹立たしい。否定しきれなくなる」
宋青は続ける。
「発作時には救命薬が必要だ。専用の薬箱が寝所近くに置かれている。医官府にも控えはあるが、夜間に間に合うのは寝所の薬箱だ」
小桃は胸の奥で一つ線を引いた。
発作。
救命薬。
寝所近く。
毒ではなく発作だとしても、発作を狙って起こせるとは限らない。
だから香。
だから戸。
だから薬湯。
だから通路。
だから警備配置。
複数の手順が、同じ方向を向き始めている。
「救命薬箱を確認できますか」
小桃が聞くと、宋青は即座に言った。
「できない」
「なぜです」
「皇帝陛下の寝所に置く薬箱だ。下級女官の疑問で開けられるものではない」
「開けなくても、封は見られます」
宋青は少し黙った。
小桃は続ける。
「医官殿は私の思いつきを否定したい。なら、封が正常だと確認すれば早いです」
「お前は医官を使うつもりか」
「使えそうな人は使います。薬と同じです」
「人を薬扱いするな」
「では処方扱いで」
宋青は深く息を吐いた。
結局、彼は動いた。
否定するために。
救命薬箱は、皇帝寝所へ向かう控えの間にあった。
もちろん小桃たちは遠くからしか見られない。
宋青が立ち会い、呉菲が規則上許される位置を確認する。
箱は黒塗りで、小さい。
だが、その前に立つと、不思議と重く見えた。
命を入れる箱だからだろうか。
宋青が封に顔を近づけた。
一瞬で、表情が変わった。
小桃はそれを見逃さない。
「何か?」
「……新しい」
「良いことでは?」
「良くない」
宋青の声が低くなった。
「本来の封蝋は、少し曇る。薬草除けの香が混ぜてあるからだ。日を置けば表面に薄く白みが出る。これは艶がある。昨日今日の封に見える」
呉菲が小声で言う。
「救命薬箱の封蝋は、総管府専用の調合です。朱の混ぜ物、薬草除けの香、硬さに決まりがあります。普通の封蝋では代用できません」
「私印は?」
小桃が聞く。
呉菲が答えた。
「総管の私印を沈める決まりです。私印は常時、総管本人の帯にあります。貸与には記録が必要です」
鈴鈴は箱を見て震えた。
「じゃあ、誰かが最近開けたの?」
宋青は答えない。
答えないことが、答えだった。
小桃は箱の封を見た。
新しすぎる封蝋。
呼吸発作時に必要な救命薬。
今、開ければ規則違反。
正式に開けるには、手続きがいる。
呉菲が言った。
「救命薬箱を正式に開けた場合、医官立ち会いの棚卸しが必要です。中身の薬草の種類、量、交換時刻が記録されます」
「では開けましょう」
「皇帝陛下が倒れる前に正式開封するには、後宮総管の裁可が必要です」
小桃は黙った。
後宮総管府。
香の記録。
警備配置。
高亮の処理名。
救命薬箱の封。
同じ方角から、同じ匂いがする。
宋青が低く言った。
「誰かが最近、救命薬箱を開けて再封した可能性がある」
鈴鈴が息を呑む。
「でも、今ここで開けたら」
「こちらが規則違反になる」
宋青は続けた。
「正式に開ければ、総管府に知られる。もし中身を戻す時間を与えれば、痕跡は正規手順で消える。開封も棚卸しも、後から合法化される」
呉菲が悔しそうに唇を結ぶ。
規則が、逆に邪魔をする。
正しく開けようとすれば、相手に知らせることになる。
勝手に開ければ、こちらが罪人になる。
小桃は救命薬箱を見た。
ここに、本物が入っているのか。
それとも、もう入っていないのか。
今開ければ分かる。
だが、その瞬間こちらの負けになるかもしれない。
「だから、相手が使うまで待つしかありません」
そう言った瞬間、宋青の目が冷えた。
「待つ?」
その声は、先ほどまでの苛立ちよりずっと危なかった。
「陛下が倒れるまで、待つと言ったのか」
鈴鈴が小桃の袖を掴む。
呉菲も表情を硬くした。
小桃は喉の奥が乾くのを感じた。
「倒れさせたいわけではありません」
「同じだ。薬箱の異常を疑いながら、発作を待つのなら、陛下を実験台にするのと変わらない」
その言葉は、鋭かった。
軽口で返せない。
小桃は袖の中で拳を握った。
怖い。
本当に怖い。
だが、ここで香だけ止めればどうなる。
戸だけ直せばどうなる。
警備だけ戻せばどうなる。
相手は別の手順を使う。
証拠は出ない。
皇帝の周りには、まだ見えていない刃が残る。
小桃は息を吸った。
「待つのではありません。止められる刃は先に折ります。折れない刃だけ、振らせて掴みます」
宋青は睨んだ。
「言葉で飾るな」
「飾らないと怖いので」
「怖いなら退け」
「退いたら、もっと怖いことになります」
沈黙。
宋青は救命薬箱を見た。
それから、小桃を見た。
「条件がある」
「条件?」
「本物の救命薬は、私が別に持つ。香と戸と警備で発作の危険を減らせるだけ減らす。薬湯も、私が見て危険なら止める。異常が出たら杯ではなく呼吸を見る。これが守れないなら、お前の思いつきには乗らない」
小桃は少しだけ息を吐いた。
「医官殿、初めて頼もしく見えました」
「黙れ。私はお前を信用したわけではない。お前の不安を潰すために薬を持つだけだ」
「不安にも効能があるのですね」
「効能があるかは、今から私が確かめる」
宋青は不機嫌なまま、医官府へ戻ろうとした。
小桃はその背を見た。
皇帝を殺すのに、毒は要らないのかもしれない。
倒れた時、薬がなければいい。
呼ぶ相手が来なければいい。
道が塞がっていればいい。
鈴が鳴らなければいい。
毒よりも恐ろしいものがある。
助かるはずの手順が、助からない手順に変えられていること。
小桃はその不穏さを、封蝋の艶の中に見ていた。




