第7話 武官は道を塞ぐ
武官は、壁より面倒だった。
壁は話しかけてこない。
壁は命令書を求めない。
壁は「ここは下級女官が来る場所ではない」と低い声で言わない。
目の前の武官は、全部やった。
「ここは下級女官が来る場所ではない」
韓雷は、背が高かった。
肩幅があり、立っているだけで廊下が狭く見える。
顔立ちは整っているが、李蓮のような冷たい美しさではない。
よく研いだ刃物というより、門を閉める太い閂に近い。
要するに、通れない。
小桃は見上げた。
「下級女官が来られない場所で人が死ぬなら、犯人候補から下級女官は外れますね」
韓雷は一瞬、完全に無表情になった。
鈴鈴が小さく叫ぶ。
「小桃!」
呉菲が眉間を押さえた。
「不適切です。相手は武官です。物理的に危険です」
韓雷は低く言う。
「お前は、なぜ自分の首を差し出すような言い方をする」
「首以外に差し出せるものが少ない身分なので」
「冗談を言う場所ではない」
「怖い場所ほど冗談が要ります」
韓雷の目が細くなった。
小桃は皇帝の寝所から医官府への最短経路を確かめるため、奥宮の警備配置が見える廊下まで来ていた。
もちろん下級女官が来ていい場所ではない。
だが、来てはいけない場所ほど、事件の都合で重要になる。
呉菲は正式な帳面確認を装ってついてきた。
鈴鈴は「一人で置いていかれる方が怖い」という理由でついてきた。
結果、三人まとめて韓雷に捕まった。
韓雷は腕を組む。
「誰の命令で来た」
「床と戸と香の命令です」
「人の名で答えろ」
「では、胡麗様の嫌がらせです」
呉菲が横から補足した。
「古廊下掃除は胡麗様からの雑務命令です。ただし、ここまで進む命令ではありません」
「呉菲、正直すぎます」
「虚偽報告は規則違反です」
韓雷は呆れたように息を吐いた。
「戻れ」
「戻る前に一つだけ」
「駄目だ」
「まだ内容を言っていません」
「お前の内容は聞く前から危険だ」
なかなか賢い。
小桃は仕方なく、少しだけ真面目な顔を作った。
「もし皇帝陛下が寝所で倒れた場合、医官はどの道を通りますか」
韓雷の表情が変わった。
「なぜそれを聞く」
「医官が遠ければ、人は助かりません」
「不吉な仮定だ」
「不吉でも、倒れてから考えるよりましです」
韓雷は小桃を見た。
疑っている。
叱るべき女官か、追い払うべき厄介者か、判断している目だ。
彼は推理する人間ではない。
だが現場の道を知っている。
どこに武官が立ち、どこが封じられ、どの扉が開き、どの命令が来れば人が動くのか。
小桃が欲しいのは、そこだった。
「通常なら、表廊下を通す」
韓雷が渋々言った。
呉菲が目を上げる。
「表廊下ですか。予備通路ではなく?」
「夜間なら予備通路も使う。だが今週は、配置変更がある」
小桃は心の中で舌打ちした。
出た。
「配置変更?」
韓雷は黙った。
小桃は一歩近づく。
「皇帝陛下が倒れた時、最短経路から医官を呼べない配置ですか」
「答える義務はない」
「では、答えたくない内容ということですね」
「曲解するな」
「後宮では、沈黙も立派な証言です」
韓雷は眉を寄せた。
「お前、何者だ」
「下級女官です。人にそう言われる回数なら、後宮上位を狙えます」
鈴鈴が小声で言う。
「誇らないで」
呉菲は警備詰所の入口に掲げられた配置札を見た。
「韓雷様、配置札の処理名だけなら、確認しても規則違反にはなりません。女官の通行範囲と交差する配置変更は、詰所外の札に処理名を出す決まりです」
韓雷が顔をしかめる。
「詳しいな」
「規則です」
「嫌な規則だ」
「正しい規則です」
小桃は呉菲を見た。
「呉菲、あなたを敵に回す人は不幸ですね」
「小桃ほどではありません」
韓雷は舌打ちに近い息を吐いた。
「正式命令だ。発行元は後宮総管府の周辺。警備詰所では受領処理だけをしている」
総管府。
小桃の胸の奥が重くなる。
高亮の影がちらついた。
呉菲は配置札の端へ視線を落とした。
「処理補助名があります」
「誰です」
小桃が聞く。
呉菲は一拍置いた。
「高亮様です」
息が止まる。
薄暗い廊下。
人払い。
冷たい声。
毒を疑うだけなら、生きられた。
喉ではなく、胸が詰まった。
言えないからではない。
怖いからだ。
小桃の指先が冷える。
高亮は、七日後の夜に小桃を殺した男だ。
それは言えない。
まだ何もしていない男を、未来の殺人で告発することはできない。
でも、今ここに現在の証拠がある。
皇帝の寝所周辺の警備配置変更。
医官府への道の迂回。
正式命令。
総管府周辺。
そして、処理名に高亮。
韓雷が小桃の顔を見た。
「おい」
小桃は笑おうとした。
口元は動いたが、たぶんうまく笑えていなかった。
「すみません。少し、容疑者評価が跳ねました」
「何を見た」
「現在の証拠です」
「答えになっていない」
「いま私も、答えを探しているところです」
鈴鈴が小桃の袖を掴む。
その手が震えているのに、小桃は少し救われた。
震えているのは自分だけではない。
韓雷は小桃の前に立ちふさがった。
「これ以上は戻れ」
「戻ります。ただし、覚えました」
「忘れろ」
「無理です。私、嫌なことほど覚えが良くて」
韓雷はしばらく小桃を睨んでいた。
やがて、苦々しく言う。
「救命経路の確認は、警備の務めでもある。だから今の話を聞かなかったことにはしない」
小桃は瞬きをした。
「武官殿、急に仕事ができる人みたいなことを」
「元から仕事をしている」
「容疑者評価とは別に、職務評価も上げます」
「評価するな」
小桃が一歩引こうとした瞬間、廊下の奥から別の武官が通った。
小桃の位置では邪魔になる。
韓雷は反射的に小桃の腕を掴み、脇へ引いた。
強い。
痛いほどではない。
だが逃げられない。
鈴鈴が悲鳴を上げた。
「近い!」
呉菲が即座に言った。
「未婚の男女の距離として問題があります」
韓雷の手が一瞬緩む。
小桃は自分の腕を見て、次に韓雷を見た。
「護衛評価は上がりました」
韓雷が眉をひそめる。
「何の評価だ」
「急な接近時に、相手を傷つけず止める技術です。容疑者評価とは別です」
「容疑者評価をやめろ」
「では護衛評価だけ残します」
「どちらもやめろ」
鈴鈴が耳まで赤くなっている。
「小桃、今そういう話じゃないよ」
「そういう話とは?」
「分からないならいい!」
呉菲は配置札から目を離さず、静かに言った。
「配置変更の結果、皇帝陛下の救命手順に支障が出るなら、警備側の責任になります」
韓雷の表情がさらに険しくなる。
「支障など出さない」
「では、医官府への最短経路は確保されていますか」
「……一部、迂回になる」
小桃は腕を掴まれたまま言った。
「一部迂回。良い言葉ですね。人が息をしている時には、とても長く聞こえます」
韓雷は返せなかった。
廊下はもう、ただの廊下ではなかった。
高亮の名が、皇帝の救命経路を塞ぐ命令につながった。
小桃は袖の中で拳を握る。
七日後の死が、今この朝の札の上に、細い線で伸びていた。




