第5話 床を磨けば道が見える
西棟には、絶対に何かある。
そう思った翌朝、姚小桃は床を磨かされていた。
人生とは、思ったよりもすぐ床に戻る。
皇子に睨まれようが、毒見役に逃げられようが、下級女官の朝は雑巾と桶から始まる。
「姚小桃」
名を呼んだ声には、蜜と棘が混じっていた。
胡麗である。
小桃より上の女官で、髪飾りはいつも少しだけ派手で、声はいつも少しだけ高い。
自分より下の者を見つける才能だけは、後宮でも上位に入る女だった。
胡麗は小桃を上から下まで眺めた。
「最近、ずいぶん忙しそうね。皇子殿下にまで声をかけていただいたそうじゃない」
鈴鈴が隣で桶を抱えたまま縮こまる。
呉菲は表情を変えずに言った。
「声をかけられたのではなく、叱責されたと聞いています」
「同じよ。下級女官のくせに、目立つ場所にいることが問題なの」
胡麗は扇で小桃の肩先を軽く叩いた。
「ちょうどいいわ。古廊下の掃除が残っているの。寒いし、床石は古いし、誰もやりたがらないのよ」
「つまり人気のない仕事ですね。私向きです」
「下級女官は下級女官らしく、床でも磨いていればいいのよ」
鈴鈴が小さく息を呑んだ。
小桃は目を瞬かせる。
「床はよく喋りますから、嫌いではありません」
胡麗の笑みが止まった。
「……何ですって?」
「いえ。人より正直で、上役より足跡が残ります」
鈴鈴が桶の陰で顔を覆った。
呉菲は淡々と訂正する。
「上役への比較発言は危険です」
「床を褒めただけです」
「床を褒めるついでに人を刺しています」
胡麗の頬が引きつった。
「では、よく喋る床と仲良くしてらっしゃい。奥宮の古廊下、今朝中に全部よ。特に西へ折れる古い通路は念入りに」
西。
小桃は顔を上げかけたが、すぐに下げた。
「承りました」
「それから、余計なところは覗かないこと。下級女官が知らなくていい場所もあるの」
「知らなくていいと言われると、だいたい知った方がいいことです」
「姚小桃」
呉菲の声が鋭い。
小桃は桶を持った。
「床に聞くだけです。人に聞くより安全でしょう」
「あなたの場合、床まで巻き添えになりそうです」
古廊下は、奥宮の外れにあった。
普段使われる表の廊下より狭く、壁の朱もくすんでいる。
窓格子の隙間から薄い朝日が斜めに入り、床の石を白く照らしていた。
鈴鈴は入口で立ち止まった。
「ここ、あんまり来たくない」
「鈴鈴が来たくない場所は、だいたい有望です」
「怖いって言ってるの!」
「怖さは優秀な案内人です」
「案内してほしくないよ!」
呉菲は持ってきた割り札を確認した。
「この古廊下は、通常の配膳経路ではありません。修繕記録上は、月二回の掃除のみ。奥は予備通路につながっています」
「予備通路?」
「皇帝陛下の寝所から医官府へ急使を走らせるための通路です。表の廊下が塞がれた時、あるいは夜間に人を騒がせず医官を呼ぶ場合に使われます」
小桃は雑巾を絞る手を止めた。
「人を騒がせず?」
「規則上はそうです」
「良い響きですね。悪事にも使いやすそうです」
呉菲が眉を寄せた。
「規則は悪事のためにありません」
「悪事の方が規則をよく読みます」
鈴鈴が廊下の奥を見て、ひっと声を漏らした。
古い通路は静かだった。
けれど、ただの静けさではない。
誰かが静かにさせたあとの静けさに似ていた。
小桃は床に膝をついた。
石床を拭く。
水気で薄く光る床に、古い傷が浮かび上がる。
掃除は嫌いではない。
床は本当によく喋る。
誰がよく通るか。
どこで立ち止まるか。
重いものを運んだか。
急いだか。
隠そうとしたか。
人は嘘をつく。
床は踏まれるだけなので、嘘をつく余裕がない。
小桃は古い擦れ跡に指を当てた。
「ここ、最近使われていますね」
呉菲が膝を折って覗き込む。
「古い傷では?」
「古い傷の上に、新しい砂が入っています。昨日か一昨日、濡れた履物で通っています」
鈴鈴は一歩下がった。
「誰かいたの?」
「いたから跡があるんです」
「言い方!」
小桃はさらに奥へ進んだ。
予備通路の手前で、床の擦れ方が変わる。
表から医官府へ抜ける方ではなく、途中で西へ細く曲がる方にだけ、新しい跡があった。
石床の端に、二本の細い線。
車輪跡だ。
小桃は指でなぞる。
「小車ですね」
呉菲が見る。
「配膳用の小車に似ています」
「似ていますが、ここは配膳経路ではありませんよね」
「その通りです。西へ曲がる通路への配膳記録はありません」
「西棟へは?」
呉菲の手が止まった。
鈴鈴が小桃を見る。
「小桃……」
呉菲は声を落とした。
「記録上、西棟への配膳はありません」
「いない人は食べません。食べる人は、記録に残ります。普通は」
小桃は立ち上がった。
胡麗が嫌がらせで押し付けた古廊下。
そこは、皇帝の寝所から医官府へ知らせを送る予備通路につながっている。
そして、その途中から西棟へ向かう細い車輪跡がある。
食事か。
薬か。
香か。
あるいは、記録に残したくないものか。
鈴鈴がぶるりと震えた。
「小桃、やっぱり戻ろう。ここ、床が喋るっていうより、床が助けてって言ってる感じがする」
「良いですね」
「よくないよ!」
「助けを求める床は、だいたい大事なことを知っています」
呉菲が通路の壁に掛けられた古い札を見た。
「この先は、現在使用停止扱いです。予備通路としての点検はありますが、常駐担当はいません」
「点検は誰が?」
「総管府の命令で、持ち回りの女官が」
「持ち回りなら、担当記録がありますね」
「あります」
「では、今日この時間、この奥に人がいる規則は?」
呉菲は即答した。
「ありません」
その時だった。
奥で、こす、と音がした。
鈴鈴が声を殺して小桃の背中にしがみつく。
「いま鳴った。床が鳴った。床じゃなくて人かも。人じゃなかったらもっと嫌」
小桃は人差し指を口元に当てた。
さらに一歩、奥へ進む。
古い扉の隙間から、灯りが漏れていた。
誰もいないはずの予備通路の奥に、誰かがいる。
小桃は扉に手をかけた。
呉菲が袖を掴む。
「小桃。許可なく開ければ規則違反です」
「中に人がいなければ独り言です。人がいれば担当確認です」
「どちらにしても危険です」
「では危険確認ですね」
鈴鈴が泣きそうに首を振る。
「確認しなくていい危険もあるよ」
小桃は扉を開けた。
中には、女官が一人いた。
若い女官だった。
見覚えは薄い。
少なくとも、この古廊下の担当ではない。
女官は床に膝をつき、乾いた布で同じ場所ばかりを磨いていた。
磨きすぎて、そこだけ石が妙に白い。
小桃たちを見た瞬間、女官の顔色が変わった。
布を握る手が強張る。
視線が小桃ではなく、背後の通路へ逃げた。
逃げ道を確認する目だ。
小桃は一歩入った。
「お勤めご苦労さまです」
女官は口を開いたが、声が出なかった。
呉菲が冷静に言う。
「本日の古廊下清掃担当は、姚小桃、鈴鈴、呉菲の三名です。あなたの名と担当を」
女官の唇が震えた。
「わ、私は……命じられて」
「誰に?」
小桃が聞くと、女官はさらに青ざめた。
その反応で十分だった。
ここにいる理由を言えない。
誰に命じられたかも言えない。
そして床の一か所だけを、必死に消そうとしている。
小桃は女官の足元を見た。
床の端に、まだ湿った泥が残っている。
その泥は、西へ続く車輪跡の泥と同じ色をしていた。
小桃は静かに声をかけた。
「ここは、あなたの担当ではないはずですが」
女官の手から布が落ちた。
奥の予備通路は、使われていないはずだった。
だがそこには、床を磨く女官がいた。
見張りか。
証拠消しか。
それとも、誰かが通ったあとを消す役か。
小桃が一歩近づいた瞬間、通路のさらに奥で、もう一つ足音が止まった。




