第4話 顔の良い皇子はだいたい怪しい
毒見役を追って角を曲がった瞬間、姚小桃は高価そうな胸元に突っ込んだ。
硬い。
人間の胸元にぶつかった感想としてはおかしいが、まず硬かった。
次に、衣の布地が上等すぎた。
三つ目に、香が控えめで、身分の高さを主張しすぎないところが逆に腹立たしかった。
小桃は鼻を押さえて後ずさる。
「すみません。高級な壁かと思いました」
鈴鈴が後ろで変な音を出した。
呉菲は一瞬で膝を折った。
「李蓮殿下」
小桃は止まった。
目の前の男は、静かにこちらを見下ろしていた。
冷たい印象の美男子だった。
顔の線は整いすぎていて、絵師が途中で遠慮を忘れたような出来だった。
目は涼しく、口元は笑っていない。
皇子という身分にふさわしい衣をまとっているのに、飾りよりも本人の冷たさの方が目立つ。
李蓮。
皇帝の皇子。
皇帝と不仲だという噂がある。
七日後、皇帝が死んだ夜、その名も毒殺の噂と一緒に流れていた。
顔は良い。
腹立たしいほど良い。
だが顔の良さは、無罪の証拠にはならない。
経験上、むしろ逆です。
小桃は内心で頷いた。
かなり怪しい。
冷たい美形。
皇帝と不仲。
毒見役を追う道に、都合よく立っている。
疑うなという方が無理だった。
「下級女官が、何をしている」
李蓮の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
それがかえって怖い。
鈴鈴は小桃の袖を掴んで震えている。
呉菲は膝をついたまま石像になっている。
小桃は頭を下げた。
「人を追っていました」
「誰を」
「毒見役です」
空気が凍った。
呉菲が小さく息を呑む。
鈴鈴が小桃の口を塞ごうと手を伸ばしたが、距離が足りず、空を掴んだ。
考えてみれば、おかしい。
皇子が、供の一人も連れず、御膳所裏の細い通路に立っている。
散歩の道ではない。
誰かを待つ場所でもない。
つまりこの人も、何かを見に来ている。
李蓮の目が細くなる。
「下級女官が毒見役を追う理由があるのか」
「理由がないのに逃げたので、理由ができました」
「屁理屈だな」
「後宮では理屈が薄い方がよく通ります」
「無礼だ」
「よく言われます」
鈴鈴が今度こそ小桃の袖を全力で引いた。
「小桃、黙って、お願いだから黙って」
呉菲が硬い声で言う。
「不敬です」
「どの辺が?」
「今の呼吸の大半がです」
李蓮の視線が二人を一度だけかすめ、再び小桃に戻った。
「私を知らないのか」
「存じています」
「なら、その態度は何だ」
小桃は一拍置いた。
ここで普通なら怯える。
実際、怖い。
皇子に無礼を働けば、下級女官など簡単に消える。
七日後に死ぬ前に、今日死ぬ可能性すらある。
けれど、怖い時ほど口が先に動く。
黙ると震えがばれるからだ。
「皇帝殺害事件で最初に出てくる顔の良い皇子。かなり犯人らしいですね」
「事件」まではいえるらしい。
「起きる」と断じていないからか。
喉の規則係は、案外文法に忠実だ。
鈴鈴が小桃の口を塞いだ。
遅い。
呉菲は膝をついたまま、魂が抜けたような声で言った。
「不敬です」
「今のは不敬で済むの?」
鈴鈴が半泣きで聞く。
呉菲は答えた。
「済みません」
李蓮はしばらく無言だった。
小桃は鈴鈴の手の下でもごもご言う。
「息ができません」
鈴鈴が慌てて手を離す。
李蓮の表情は変わらない。
だが、目の奥に怒りが沈んだのは分かった。
「皇帝殺害事件とは何の話だ」
小桃の喉がぴくりと重くなる。
七日後に皇帝が殺される。
それは言えない。
小桃は慎重に言葉を選んだ。
「もし、皇帝陛下の御身に何かあった場合の話です」
「不吉な仮定だ」
「不吉な仮定ほど、先に考える価値があります。縁起だけで人は助かりません」
李蓮の眉が動いた。
「誰に吹き込まれた」
「床と廊下と毒見役です」
「ふざけているのか」
「半分ほど」
「残りは」
「本気です」
沈黙。
小桃は李蓮から目を逸らさなかった。
逸らせば負ける気がした。
実際にはすでに立場で百回くらい負けているが、気分の問題である。
李蓮は冷たく言った。
「毒見役を追っていたと言ったな」
「はい」
「何を聞くつもりだった」
「毒見と封杯の規則についてです。毒見役が無事で、封杯も破られていないなら、普通の毒殺としてはおかしい」
言えた。
現在の手順に基づく疑問だからだ。
李蓮の目が、小桃の顔ではなく、彼女の言葉の方を見た。
ただの無礼な女官を見る目ではない。
苛立ちはある。
だが、その中にかすかな警戒が混じる。
「お前は毒殺を疑っているのか」
「毒殺らしすぎることを疑っています」
「違いがあるのか」
「大きいです。毒だけ見ていると、毒の外にある嘘を見落とします」
鈴鈴が小声で言った。
「小桃、言い方が怖い」
「内容も怖いので釣り合っています」
呉菲はまだ硬直している。
しかし、耳だけはしっかりこちらを向いていた。
李蓮は一歩近づいた。
「下級女官が、なぜ皇帝の寝所周辺を気にする」
小桃の胸が小さく跳ねた。
この人は何かを知っている。
毒見役を追っていた小桃を、ただ処罰するのではなく問い返した。
寝所周辺、という言葉を李蓮の方から出した。
小桃はあえて尋ねた。
「殿下は、皇帝陛下の寝所周辺で人払いが行われた場合、誰がどこまで近づけるかご存じですか」
李蓮の顔から、ほんの一瞬だけ冷たさが消えた。
反応した。
すぐに戻ったが、小桃は見逃さなかった。
「なぜそれを聞く」
「人が倒れた時、助かるかどうかは、近くにいる人と、呼べる人で決まります」
「毒の話ではなかったのか」
「毒だけで済むなら、毒見役が死んでいます」
李蓮は黙った。
遠くで足音がした。
毒見役はもう見えない。
逃げられた。
だが、目の前に別の手がかりがいる。
冷たい美形皇子。
不仲の噂。
寝所周辺の人払いに反応。
何かを知っているが、言わない。
怪しい。
とても怪しい。
顔が良い分だけ、余計に怪しい。
小桃はそう判断した。
「殿下」
「何だ」
「寝所周辺で、最近変わったことはありませんか」
「ない」
早い。
「早い否定は、だいたい何かあります」
「お前は誰にでもそう言うのか」
「怪しい人には」
「私が怪しいと」
「殿下の場合、顔以外にも怪しい点が増えてきました」
鈴鈴がまた小桃の口を塞ごうとして、今度は自分で手を止めた。
もう手遅れだと悟った顔だった。
呉菲は低く呟いた。
「処罰内容が増えていく……」
李蓮は怒っている。
それは分かる。
だが同時に、彼は小桃をその場で切り捨てようとはしなかった。
かわりに、声を落とした。
「西棟には近づくな」
小桃の思考が止まった。
西棟。
それは奥宮の中でも、ほとんど話題に上がらない区画だ。
古く、閉ざされ、使われていないとされている。
下級女官は近づかない。
命じられない限り、存在しない場所として扱う。
「なぜですか」
「知る必要はない」
「知る必要がない場所ほど、だいたい死体か秘密があります」
「口を慎め」
「犯人候補の隠し部屋ですか」
李蓮の目が鋭くなった。
その怒りは、さっきまでのものと違った。
小桃への苛立ちではない。
もっと深いところを踏まれた反応だった。
李蓮は低く言った。
「違う。……まだ、そう呼ばせるな」
まだ。
小桃はその一語を拾った。
まだ、そう呼ばせるな。
隠し部屋ではない。
では、何なら「まだ」なのか。
今は呼ばせないが、いつか呼び方が変わるものなのか。
西棟には、場所ではなく、誰かがいるのか。
鈴鈴が小桃の袖を握った。
「小桃、もう帰ろう。ここ、怖い」
鈴鈴の声は震えていた。
呉菲も珍しく強く言った。
「戻ります。これ以上は、本当に危険です」
小桃は李蓮を見た。
李蓮は何も言わない。
ただ、西棟の方へ続く暗い廊下を一度だけ見た。
その視線は、怒りでも嫌悪でもなかった。
傷に触れないようにする者の目だった。
小桃は頭を下げた。
「ご忠告、承りました」
「なら近づくな」
「承ったことと従うことは、別の手順です」
「姚小桃」
名前を呼ばれた。
小桃は少しだけ笑った。
「殿下、下級女官の名を覚えると、容疑者評価が上がりますよ」
李蓮の眉間に皺が寄る。
「黙れ」
「はい」
小桃は踵を返した。
鈴鈴がほっと息を吐き、呉菲が規則違反の山を抱えた顔で続く。
背後から、李蓮の声がした。
「西棟には近づくな。二度は言わない」
小桃は振り返らなかった。
戻る途中、渡り廊下の一つが封じられていた。
修繕の札。
人の気配はない。
人払いされた廊下は、夜になると声が届かない。
それを、体のどこかが覚えていた。
西棟。
まだ。
そう呼ばせるな。
毒見役は逃げた。
李蓮は何かを隠している。
皇帝の寝所周辺には、人払いの影がある。
そして、存在しないはずの西棟が、急に事件の中へ顔を出した。
小桃は袖の中で震える指を握る。
怖い。
けれど、怖い場所ほど、何かを隠している。
初日が終わる。
残り六日。
収穫は、逃げた毒見役と、怪しい皇子と、近づくなと言われた西棟。
上々だ。
たぶん。
だからこそ、姚小桃は思ってしまった。
西棟には、絶対に何かある。




