第3話 毒見役はなぜ生きていた
毒殺なら、毒見役が死ぬ。
それは下級女官の姚小桃でも知っているくらい、分かりやすい道理だった。
だからこそ、分かりやすすぎて腹が立つ。
七日後の夜、後宮は毒の噂で埋まっていた。
けれど、その中心にいるはずの毒見役だけが死んでいなかった。
「毒見役を見に行きます」
朝の雑務を終えた直後、小桃はそう宣言した。
鈴鈴は桶を落としかけた。
「見るだけ? 遠くから? 柱の陰から?」
「できれば近くで」
「それは見るじゃなくて近づくって言うんだよ!」
呉菲は洗った布をきっちり畳みながら、表情を変えずに言った。
「毒見役への私的接触は推奨されません。理由は三つあります。一つ、皇帝陛下の御膳に関わる者だから。二つ、下級女官に用がないから。三つ、小桃が余計なことを言うからです」
「三つ目だけ私情が入っていませんか」
「経験則です」
強い。
小桃は布を一枚取って畳もうとした。
角がずれた。
呉菲に無言で取り上げられた。
「毒見の規則を教えてください」
「何のために」
「毒を盛るためです」
鈴鈴が息を止めた。
呉菲の目が冷えた。
小桃はすぐに両手を上げる。
「冗談です。反応確認です」
「冗談で処刑されたいのですか」
「冗談で済むなら軽い方です」
呉菲はしばらく小桃を見ていた。
やがて、布を棚に戻しながら低く言う。
「皇帝陛下の杯は、毒見役を通ります」
鈴鈴が周囲を見回す。
「ここで話して大丈夫?」
「一般規則の範囲です」
呉菲は小桃を連れて、御膳所の脇へ回った。
そこには、空の杯を一時的に置く棚と、封に使う細い紐、押印用の小さな札が並んでいる。
呉菲は封紐に指を近づけた。
「毒見役が口をつけた後、杯はその場で封杯されます。封を破れるのは皇帝陛下の御前のみ。途中で注ぎ足し、すり替え、別杯との交換はできません」
小桃は棚に並ぶ杯を見た。
どれも同じ形で、同じ白さをしている。
だからこそ、封がなければ区別できない。
封があるから、途中の手が見える。
「できません、というのは規則上?」
「規則上も、手順上もです。封杯後に混入できる者がいるなら、この封を誰にも見られず破って、戻さなければなりません。あるいは、その場にいた者全員の目を欺く必要があります」
「全員共犯は豪華ですね。宴会ができます」
「小桃」
「はい、黙ります」
鈴鈴が小声で言う。
「でも、それなら毒見役の人が無事なのは変だよね」
小桃は頷いた。
そう。
そこだ。
毒見役が無事。
封杯も破られていない。
杯には毒がある。
普通に考えれば、どこかが嘘だ。
杯に毒があったのが嘘か。
毒見役が無事だったのが嘘か。
封杯が守られたのが嘘か。
あるいは、杯の前後に別の手順があるのか。
「小桃」
呉菲の声が少し鋭くなった。
「今、非常に危険な顔をしています」
「顔まで規則違反ですか」
「表情にも限度があります」
「難しい後宮ですね」
三人は御膳所の陰から、毒見役を見た。
毒見役は、御膳所の近くにいた。
白い衣の上に薄い外套を羽織り、数人の宦官と短く言葉を交わしている。
痩せた男だった。
顔色は悪い。
けれど、毒で倒れそうな悪さではない。
眠れない夜を過ごした者の顔だ。
小桃は柱の陰で足を止めた。
鈴鈴は小桃の背中に隠れた。
呉菲は隠れていないふりをしながら、しっかり柱の陰にいる。
「遠いですね」
小桃が言うと、鈴鈴が即答した。
「遠くていいよ」
「顔色がよく見えません」
「見えなくていいよ」
「毒見役の動きは?」
「動かなくていいよ」
「鈴鈴、あなたは調査に向いていませんね」
「向きたくない!」
呉菲が静かに言った。
「毒見役は、毒そのものを扱うため、普段から緊張しています。顔色だけで判断はできません」
「毒が怖い顔には見えません」
小桃は呟いた。
鈴鈴が背中の布を握った。
「あの人、毒が怖いっていうより、誰かに見られるのを怖がってる」
小桃は振り返った。
鈴鈴は自分の言葉に驚いたように目を丸くしている。
「え、何? 私、変なこと言った?」
「いえ。とても良い怖がり方です」
「怖がり方を褒められても嬉しくないよ」
呉菲も毒見役を見た。
「誰かに見られるのを怖がっている、ですか」
「だって、あの人、杯の方を見てない。人の顔ばっかり見てる。誰が自分を見てるか確認してるみたい」
鈴鈴の声は小さい。
けれど、その震えには妙な確かさがあった。
毒見役に何か言っていた宦官が、ふと顔を上げ、廊下の端から端までを見渡した。
誰が見ているかを、数える目だった。
小桃は柱の陰に頭を引っ込めた。
見られてはいない。
たぶん。
その「たぶん」が、初めて重かった。
小桃はもう一度、毒見役を見る。
毒見役は宦官に何か言われ、頭を下げた。
その間も、視線が落ち着かない。
御膳所の戸。
廊下の奥。
香炉を運ぶ女官。
そして、柱の陰。
目が合った。
ほんの一瞬。
毒見役の顔色が変わった。
小桃は自分の胸が跳ねるのを感じた。
私を知っている顔ではない。
見られていたこと、それ自体に怯える顔だ。
毒見役は、すぐに目を逸らした。
だが遅い。
小桃は見てしまった。
毒を知っている者の顔ではない。
毒を盛った者の顔でもない。
何かを見てしまい、それを誰にも言えない者の顔。
「呉菲」
「何ですか」
「毒見役が毒を知っているとは限りません」
「では何を知っていると?」
小桃は答えかけた。
皇帝が倒れる段取り。
そう言いかけて、喉の奥がわずかに重くなった。
未来に触れすぎると、言葉が危うい。
潰れる前に、重くなるらしい。
警告つきとは、規則係のくせに親切なことだ。
小桃は言い換える。
「毒ではなく、倒れた時の手順です」
呉菲の眉がわずかに動く。
「手順?」
「毒だけを見ていると、杯の前後を見落とします。人が倒れた時、誰が近くにいるのか。誰が呼ばれるのか。何を確認するのか。そこにも嘘は混じります」
鈴鈴が小声で言う。
「小桃、また首が飛ぶ話してる」
「最近、私の首はよく話題になりますね」
「嬉しくないよ!」
呉菲は毒見役から目を離さなかった。
「毒見役が何かを見た可能性はあります。ですが、下級女官が直接問いただせば、こちらが罰せられます」
「問いただしません。世間話です」
「あなたの世間話は尋問に似ています」
「効率的ですね」
「危険です」
それでも、小桃は動いた。
柱の陰から出る。
鈴鈴が小さく悲鳴を上げた。
呉菲が止めようと袖を掴んだが、小桃はするりと抜けた。
御膳所の前を掃除するふりをする。
手には布。
姿勢は下級女官。
足取りだけ、ほんの少し毒見役の方へ。
毒見役はこちらを見た。
逃げるか。
逃げないか。
小桃は軽く頭を下げた。
「お忙しいところ恐れ入ります。杯の封について、少し――」
最後まで言えなかった。
毒見役の顔が引きつった。
彼は持っていた木札を落とし、後ずさった。
「違う」
小桃は目を細める。
「何がですか」
「私は何も見ていない」
聞いていないことを答えた。
小桃の背筋に、冷たい喜びが走った。
謎がこちらを向いた時の感覚だった。
「見ていないなら、何をですか」
毒見役は答えなかった。
彼は突然、身を翻した。
御膳所の脇の細い通路へ走り出す。
鈴鈴が叫ぶ。
「逃げた!」
呉菲が硬直する。
「追えば規則違反です!」
小桃はすでに走っていた。
「後で怒ってください!」
「今怒っています!」
毒見役は振り返らない。
下級女官に追われる理由などないはずなのに、全力で逃げている。
つまり、理由がある。
小桃は息を切らしながら、細い通路へ飛び込んだ。
毒見役は、毒ではなく何かを見た。
そして今、小桃を見て逃げた。
毒殺なら、毒見役はなぜ生きていたのか。
その答えが、走る背中の先にあった。




