第2話 死に戻りは口にできない
死んだはずの朝に、粥の匂いがする。
姚小桃は、しばらくその事実を許せなかった。
人は死んだら終わりだと思っていた。
少なくとも、死んだあとに点呼の銅鑼で起こされるとは思っていない。
後宮は規則が多い場所だが、死者にまで朝の点呼を求めるほど厳しくはないはずだった。
「小桃、本当に顔色が悪いよ」
鈴鈴が寝台の横から覗き込んでくる。
丸い顔が心配で歪んでいた。
「もしかして、悪い夢? 血の夢? 怒鳴られる夢? 美男子に追いかけられる夢?」
「最後のは人によっては褒美です」
「小桃にとっては?」
「容疑者が増えるだけです」
鈴鈴は不安そうに唇を結んだ。
その向こうで呉菲が衣を整え、淡々と言う。
「夢の内容に関係なく、点呼には出ます。遅刻は罰掃除半日。点呼欠席は事情聴取。虚偽報告は処罰。体調不良なら医官府への申請が必要です」
「朝から処罰の献立が豊富ですね」
「規則です」
呉菲は揺るがない。
そのいつも通りが、小桃には少しだけありがたかった。
世界が狂っていない証拠に見えたからだ。
狂っているのは、自分の方かもしれない。
小桃は自分の手を見た。
七日後の夜に死んだ時の痛みはない。
けれど冷たい床の感触だけは残っている。
高亮の声も。
毒を疑うだけなら、生きられた。
小桃は息を吸った。
今言うべきだ。
呉菲は規則に詳しい。鈴鈴は怖がりだが、小桃を見捨てない。
二人にだけでも伝えられれば、何かできる。
「聞いてください」
鈴鈴が身構えた。
呉菲が眉をひそめる。
「陛下が殺され――」
声が消えた。
喉が固まる。
舌が動かない。
息だけがひゅっと鳴った。
鈴鈴が青ざめる。
「小桃?」
呉菲が近づく。
「喉ですか。水を」
「違……」
違う、と言える。
陛下が殺される、と言えない。
小桃は水を受け取って飲んだ。
喉は痛くない。
詰まるのは、言葉だけだ。
「もう一度」
呉菲が静かに言った。
「何を言おうとしましたか」
小桃は口を開く。
「七日後に、皇帝陛下が――」
また潰れた。
鈴鈴が両手で口を押さえる。
「呪い?」
「朝から失礼ですね。せめて神秘的現象と言ってください」
「神秘的現象の方が怖いよ!」
呉菲はすぐに紙と筆を取った。
「声が出ないなら、書いてください。症状確認にもなります」
さすが呉菲。
怖がる前に手順が出る。
小桃は筆を握った。
指が震える。
自分では止めたつもりでも、筆先が紙の上で小さく揺れていた。
小桃は紙に筆を置いた。
皇帝陛下は七日後に殺される。
そう書こうとした瞬間、墨が落ちた。
一文字目から黒く潰れた。
筆先が勝手に乱れたわけではない。
書いた線が、紙の上で崩れた。
墨がじわりと広がり、読める形を拒むように黒い染みになった。
鈴鈴が悲鳴を上げた。
「小桃、筆まで呪われてる!」
「筆のせいにするのはかわいそうです。筆にも職業倫理があります」
「今それ言うところ!?」
呉菲は紙を覗き込み、真顔で言った。
「書き損じた紙の処分にも規則があります。特に皇室に関わる語を書こうとした紙は、放置すれば処罰対象です。焼却する場合は灰の確認まで必要です」
鈴鈴が泣きそうな顔で呉菲を見る。
「呉菲、そこ?」
「そこです。呪いでも規則違反は規則違反です」
小桃は笑った。
笑えた。
けれど筆を握る手は震えたままだった。
紙に落ちた黒い点が、まるで自分の喉の中にある塊のように見える。
言えない。
書けない。
では、どこまでなら言えるのか。
小桃は息を整えた。
「試します」
「何を?」
鈴鈴が怯える。
「自分の首の丈夫さです」
「やめて!」
呉菲が紙を新しく出した。
「発言内容によっては止めます」
「止められる前に止まると思います」
小桃は口を開く。
「陛下が殺される」
声が出ない。
鈴鈴の顔がさらに白くなる。
呉菲の目が細くなった。
小桃は喉を押さえた。
苦しい。けれど、死ぬほどではない。
まるで、そこから先へ行くなと押し戻されている。
次。
「陛下の御身が心配です」
言えた。
鈴鈴が瞬きをする。
呉菲もわずかに眉を動かした。
「それは言えるんだ」
「一般論に聞こえるからでしょうね。皇帝陛下の御身を心配しない者は、後宮ではだいぶ危険人物です」
呉菲が頷く。
「不敬ではありません。むしろ模範的です」
「模範的な私、珍しいですね」
「かなり珍しいです」
小桃は次を試す。
「もし陛下が倒れたら」
言えた。
鈴鈴がぶるっと震える。
「不吉だよ」
「不吉な仮定は言えるらしいです」
「らしいって何? 小桃、何と戦ってるの?」
「たぶん、喉の中に住む規則係です」
呉菲は答えなかった。
黒く潰れた紙を、じっと見ていた。
規則で説明できないものを見る呉菲の目を、小桃は初めて見た。
小桃は紙に書いた。
陛下の御身が心配です。
書けた。
次に、もし陛下が倒れたら、と書く。
これも書けた。
だが、皇帝陛下は七日後に殺される、と書こうとすると、文字が黒く潰れた。
鈴鈴が小桃の背後に隠れた。
隠れる相手が呪われている本人でいいのかは疑問だった。
呉菲は黒く潰れた文字を見つめる。
「内容によって、書けるものと書けないものがある」
「そう見えます」
「皇帝陛下に関わる不吉な断定が駄目なのですか」
「たぶん、それだけではありません」
小桃は筆を握り直した。
私は一度死んだ。
潰れた。
未来を知っている。
潰れた。
死んだら戻った。
墨が弾けるように広がり、紙が真っ黒になった。
鈴鈴が小さく叫んだ。
「もうやめよう!? 紙が可哀想!」
「紙より私の方が可哀想では?」
「小桃は怖い!」
「友人に対する評価が雑です」
呉菲が黒く潰れた紙を重ねた。
「これらはすべて処分します。焼却。灰確認。記録なし。ですが次からは、呪われた筆記実験を行う前に私を呼んでください」
「呼んでいます」
「止めるためにです」
小桃は口元に笑みを浮かべた。
しかし胸の奥は冷えていた。
死に戻りそのものを主張できない。
未来の断定もできない。
けれど、仮定は言える。
心配も言える。
現在にあるものについてなら、おそらく言える。
ならば。
小桃は黒い紙から目を離し、窓の外を見た。
七日後、皇帝は死ぬ。
毒殺に見える。
だが毒殺にしては証拠が多すぎる。
毒見役は死んでいなかった。
高亮は、毒を疑うだけなら生きられたと言った。
それは未来の記憶だ。
そのままでは言えない。
では、今から調べ直せばいい。
杯の手順。
毒見役の規則。
香の管理。
薬湯の出所。
皇帝の寝所に近づける者。
人払い。
毒殺と決めつけるには早すぎる空気。
今この時点にも、必ず何かある。
「知っていることは言えない。調べたことなら言える」
小桃は呟いた。
今度は喉が詰まらなかった。
鈴鈴が不安そうに聞く。
「小桃?」
小桃は顔を上げた。
怖い。
本当は、今すぐ布団に潜って何も見なかったことにしたい。
七日後の夜を知っている。
自分が死ぬ痛みを知っている。
高亮の声を知っている。
けれど、知ってしまった違和感は消えない。
毒見役は、なぜ生きていたのか。
「――なら、知っていることを全部、調べ直せばいいだけです」
点呼の銅鑼が鳴った。
いつも通りの朝だった。
いつも通りの朝が、あと七つで尽きる。
呉菲はしばらく黙っていた。
「何を調べるつもりですか」
「今のところ、私の寿命を縮めそうなもの全部です」
鈴鈴が震えた。
「やめよう? 寿命は伸ばそう?」
「そのために調べます」
「小桃のそういうところ、怖いよ」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてない!」
呉菲が深く息を吐いた。
「下級女官が皇帝陛下の周辺を調べる規則はありません」
「では禁止規則もありませんね」
「普通は調べる前に処刑されるからです」
「規則の隙間ですね」
「処刑の隙間です」
鈴鈴が両手で顔を覆った。
小桃は黒く潰れた紙を見た。
言えない未来。
書けない死。
誰にも説明できない七日後。
ならば、言える形に変えるしかない。
未来を、現在の証拠に。
記憶を、手順に。
恐怖を、疑問に。
小桃は筆を置き、袖の中で震える指を握り込んだ。
皇帝を救うには、皇帝が殺される未来を言えばいい。
だが、それはできない。
だから姚小桃は、まだ起きていない皇帝殺害を、今ある証拠だけで暴かなければならなかった。




